第九十六話 隠し条項のない契約
『第三の悪女――処分失敗』
黒い紙片を読んだ直後、白百合の印が赤く光った。
「離れて!」
ヴィオレッタの黒薔薇が紙片を包む。
紙は白い炎を上げ、灰すら残さず消えた。
同時に、会場の扉が開く。
「ユリアナ様!」
地下牢を警備していた兵士が、青ざめた顔で駆け込んできた。
「収監中のベルナール・モローが突然倒れました! 誰も触れていないのに、身体から白い根のようなものが!」
「口封じです」
ユリアナが立ち上がる。
「あの紙片と、ベルナールの契約が繋がっていたのでしょう」
カサンドラは走り出していた。
「おい、待て!」
「アルト様は残ってください! 手の治療が――」
「お前が待たないのに、俺だけ待てるか!」
◇
地下牢では、ベルナールが石床に倒れていた。
胸から白い文字が根のように広がり、喉元へ迫っている。
『実行者処分』
『機密保持を永久化する』
「契約で心臓を止めるつもりだわ」
ヴィオレッタの茨が白い文字を押さえる。
「三分も持たない」
レティシアがベルナールの胸を凍らせ、文字の進行を遅らせた。
「解除できませんか?」
カサンドラがユリアナへ尋ねる。
「契約者本人の同意と、白百合との契約を上回る誓約が必要です」
「なら、王家の命令で――」
「私的契約は、命令だけでは書き換えられません」
ベルナールが薄く目を開ける。
「無駄で……ございます、お嬢様」
「黙っていてくださいませ」
「私を助ける利益など……ございません」
「証言者としての価値はございます」
「やはり、取引ですか」
弱々しい声なのに、どこか満足そうだった。
カサンドラは唇を噛む。
「違いますわ」
彼女は鉄格子の中へ入り、ベルナールの隣へ膝をついた。
「あなたを許してはおりません。幼いわたくしを利用し、孤立させ、罪人に仕立てようとしたことを、決してなかったことにはいたしません」
「では、なぜ……」
「だからこそ、生きて償っていただきます」
カサンドラは紫色の契約紙を取り出した。
「ベルナール・モロー。わたくしと、新たな契約を結びなさい」
「今度こそ、私をお使いになりますか?」
「いいえ。条件はすべて、今から読み上げます」
彼女は扇子を閉じ、真っ直ぐに告げた。
「あなたは生きること。知っている事実を、司法の場で偽りなく話すこと。罪に対して正当な裁きを受けること」
契約紙に紫の文字が刻まれる。
「対価として、わたくしはあなたの命と、公正な裁判を受ける権利を守ります。拷問も、報復による処刑も許しません」
「私のような者にも、権利を?」
「罪を犯した者だからといって、偽りの罪を加えてよい理由にはなりません」
ユリアナが小さく息を呑んだ。
「契約内容の変更は、双方の同意がある場合のみ。署名後に文字が増えた場合、契約は即座に無効となります」
「隠し条項は?」
「一つもございません」
「私が拒めば?」
「それも、あなたの自由です」
白い文字が、ベルナールの喉へ届く。
彼は苦しげに息を吐きながら笑った。
「私が教えた契約術とは、随分違いますな」
「ええ。あなたの教えが間違っていたと、証明するための契約ですもの」
長い沈黙のあと。
ベルナールは震える指で、紙へ触れた。
「……同意、いたします」
紫色の光が二人を包む。
「私、ユリアナ・アストレアが立ち会います」
ユリアナは、自分の意思で金の署名を加えた。
「双方が内容を理解し、自由意思で結んだ契約であると証明します」
紫と金の文字が重なり、白い根を引き剥がしていく。
『実行者処分――無効』
ベルナールの胸から、白百合の印が砕け散った。
「助かった……のか?」
「呼吸が戻った」
レティシアが氷を解く。
カサンドラは力が抜けたように、その場へ座り込んだ。
「お嬢様」
ベルナールが掠れた声で呼ぶ。
「あなたはもう、私の作った商品ではございませんな」
「最初から、わたくしはあなたの商品ではございません」
「……その通りでございます」
初めて、ベルナールの笑顔から値踏みする色が消えた。
「証言していただきますわ。白百合について、知っていることをすべて」
「では、一つ目を」
ベルナールは息を整える。
「あなたの悪評を作った支払記録の原本が、南倉庫に保管されています」
「それがあれば、噂が仕組まれたと証明できる?」
「はい。ですが、処分失敗の合図が送られた以上――」
遠くから、火災を知らせる鐘が響いた。
「すでに焼却が始まっているでしょう」
窓の向こう。
王都の南から、黒い煙が上がっていた。




