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第九十五話 第三の鐘

 第三の鐘が鳴った。


 カサンドラの右腕に、紫色の文字が燃え上がる。


『毒薬受領――未完了』


『給仕を開始せよ』


「くっ……!」


 彼女の手が勝手に紫瓶へ伸びた。


 俺は隣から、その手首を支える。


「アルト様、手を……」


「離さない。約束しただろ」


「契約に巻き込まれますわ」


「もうとっくに巻き込まれてる!」


 カサンドラの指が瓶をつかんだ。


 黒薔薇に毒を吸わせた今、中身はただの水だ。


 それでも会場から悲鳴が上がる。


「あの瓶だ!」


「殿下をお守りしろ!」


「毒扇を取り押さえろ!」


 近衛兵が動こうとする。


「全員、その場を動かないでください!」


 ユリアナの声が会場へ響いた。


「これは契約を破壊するために必要な手順です!」


 カサンドラが瓶を傾ける。


 透明な水が、太陽紋の杯へ注がれていった。


『内容物注入――完了』


 紫文字が書き換わる。


『署名者は王太子へ直接給仕せよ』


 彼女の足が、王太子へ向かって進み始めた。


「怖いか?」


「……はい」


「俺も怖い」


「アルト様も?」


「失敗したら、お前が死ぬかもしれないから」


 カサンドラの足が一瞬だけ止まる。


「でしたら、逃げてくださいませ」


「嫌だ」


「即答なさると思いましたわ」


 震えながら、それでも彼女は一歩ずつ進んだ。


 王太子の前へ立ち、杯を差し出す。


「エリアス王太子殿下。こちらを、お受け取りくださいませ」


 王太子が杯へ手を伸ばす。


 会場中が息を止めた。


 指先が触れた瞬間、紫文字が激しく輝く。


『給仕――完了』


「今です!」


 ユリアナが叫んだ。


 レティシアの冷気が杯を包む。


 黄金の表面が凍りつき、細かな亀裂きれつが走った。


 しかし、砕けない。


「王家の加護が邪魔をしている!」


「許可は出したはずだ!」


 王太子が杯を床へ叩きつける。


 それでも傷一つ付かなかった。


 同時に、ユリアナの左腕へ金色の文字が駆け上がる。


『立会人は証言せよ』


「私、ユリアナ・アストレアは――」


「ユリアナ!」


「カサンドラ・ヴェルレーヌが、自らの意思で……毒を……」


 彼女の口が、偽りの証言を完成させようとしている。


「殿下! 杯を王家のものじゃなくしてください!」


 俺が叫んだ。


「何?」


「守られてるなら、守るのをやめれば壊せるだろ!」


 王太子は一瞬だけ目を見開き、すぐに杯へ手を置いた。


「王太子エリアスの名において宣言する!」


 王家の紋章が強く輝く。


「太陽紋の杯を、王家の至宝より除外する! 今この時より、これはただの器だ!」


 黄金の光が消えた。


「レティシア!」


「壊す!」


 銀色の氷が杯の内部まで入り込む。


 だが、砕けるより先に、紫色の鎖がレティシアの腕へ絡みついた。


『原本破壊を拒絶』


「まだ守る気か!」


 俺は近くにあった鉄製の茶器台を持ち上げた。


「アルト、待って!」


「待ってたらユリアナが嘘を言わされる!」


 凍りついた杯へ、茶器台を振り下ろす。


 一度目。


 腕がしびれただけだった。


 二度目。


 亀裂が少し広がる。


「カサンドラは、自らの意思で、王太子殿下を――」


「言わせるかよ!」


 三度目。


 手の傷が開き、布が赤く染まった。


「アルト様!」


「こんな契約で、お前の気持ちを決めつけさせるな!」


 四度目。


 太陽紋の杯が、真っ二つに割れた。


 紫と金の文字が、音もなく弾ける。


 カサンドラの腕から契約が消えた。


 ユリアナの唇も止まる。


「私は……」


 彼女は血のにじむ左手を押さえ、自分の意思で使節たちへ向き直った。


「今の証言を撤回します。カサンドラは毒を注いでいません。私たちは契約によって、偽りの罪を作られようとしていました」


 南方の検査官が、割れた杯と残った水を調べる。


「毒性反応なし」


「紫瓶も無害です!」


 ドミニク公が立ち上がった。


「我々三名は、カサンドラ嬢による毒殺行為がなかったことを確認した」


 会場が静まり返る。


 それでも、誰かが呟いた。


「仕組まれた芝居では?」


「紫扇なら、それくらい……」


 十年かけて作られた悪評は、一日では消えない。


 カサンドラの手が扇子せんすへ伸びる。


「今日、全部変わらなくてもいいだろ」


 俺が言うと、その手が止まった。


「少なくとも俺たちは、お前が何をしたか見てた」


「……はい」


 カサンドラは扇子を開かなかった。


「それなら今は、十分でございます」


 壊れた杯の間から、白百合の形をした黒い紙片が現れる。


 そこには、短い一文が残されていた。


『第三の悪女――処分失敗』


 世界大戦へ続く三つ目の道が、その瞬間、確かに途切れた。

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