第九十四話 毒杯を壊す計画
茶会まで、残り二時間。
俺たちは王宮の控え室で、王太子エリアス殿下と向き合っていた。
「君がアルトか」
金色の髪をした王太子が俺を見る。
「はい」
「先ほど馬車の前へ飛び出したそうだな」
「はい」
「死ぬかもしれないとは考えなかったのか?」
「ちょっとは考えました」
「ちょっとなのね、アルト」
ヴィオレッタが呆れる。
「アルトは、いつもそう」
レティシアまで頷いた。
「褒められてないよな?」
「少なくとも、賢明な行動ではありません」
ユリアナが言い切った。
「なんで全員で俺を責めるんだよ!」
王太子が吹き出す。
「なるほど。報告より面白い男だ」
「殿下、アルト様を気に入られまして?」
カサンドラの扇子が、わずかに揺れた。
「不満そうだな」
「まさか。少々、見る目がおありになると思っただけでございます」
言葉は丁寧なのに、声が妙に冷たい。
王太子は笑みを収め、太陽紋の杯へ視線を移した。
「事情は理解した。茶会は中止できず、カサンドラ嬢は第三の鐘に合わせて、この杯へ紫瓶の中身を注がなければならない」
「その後、殿下へ直接お渡しいたします」
「だが、私は飲まない。それでよいのだな?」
ユリアナが頷く。
「契約文には、殿下が飲むという条項はございません」
「なら、受け取った直後に杯を壊す」
「王家の至宝だぞ?」
俺が思わず聞くと、王太子は肩をすくめた。
「自分の命と三国の平和より高い杯など、我が国にはない」
「破壊の許可を、正式に記録します」
ユリアナが宣言書を用意する。
計画は単純だった。
第三の鐘と同時に、カサンドラが無毒化した瓶の中身を注ぐ。
王太子が杯を受け取った瞬間、給仕に関する契約は完了する。
その直後、レティシアが杯を凍らせて砕く。
ヴィオレッタが破片を黒薔薇で封じ、ユリアナへの偽証の強制が完成する前に原本を消す。
「失敗すれば?」
カサンドラの問いに、ユリアナは隠さず答えた。
「あなたか私、あるいは両方の心臓が止まる可能性があります」
「随分と危険な賭けでございますね」
「怖いか?」
俺が聞くと、カサンドラは反射的に扇子を開こうとした。
けれど途中で止める。
「……はい。怖うございます」
「そっか」
「それだけですか?」
「怖くないって言われるより、分かりやすくていい」
俺は彼女の右手を見る。
今も紫文字が刻まれている。
「契約が勝手に動かしたら、また俺が止める」
「アルト様の手は、すでに傷だらけですが?」
「増えても一緒だろ」
「一緒ではございません」
カサンドラは、俺の手に巻かれた布へ触れた。
「あなたが傷つけば、わたくしが……嫌なのです」
最後の言葉だけ、ひどく小さかった。
「では、アルトをカサンドラ嬢の補助役に任命しよう」
王太子が言った。
「俺が?」
「契約の強制を二度止めた実績がある。彼女の隣に立て」
「殿下、それは必要な役目ですか?」
ヴィオレッタが尋ねる。
「私でも可能」
レティシアも一歩出る。
「二人は毒と襲撃への対処を頼む。彼にしかできない役目だ」
「どうして皆様、不満そうなのでしょうね?」
カサンドラだけが、どこか嬉しそうだった。
◇
茶会場には、王族、大貴族、三人の南方使節が集まっていた。
学園から招かれた生徒たちもいる。
俺の簡素な制服を見た貴族たちが、ざわめいた。
「なぜ市民枠が殿下の茶会に?」
「しかも、紫扇侯女の隣だぞ」
「身の程を知らないにもほどがある」
続いて、もっと冷たい声がカサンドラへ向けられる。
「本当に来たのか」
「毒扇が殿下へ給仕するらしい」
「正気とは思えない」
カサンドラの足が止まった。
胸元の扇子が、かすかに震えている。
「手、握るか?」
「公衆の面前でございますよ」
「嫌ならいい」
「嫌とは申しておりません」
彼女の左手が、俺の手をつかんだ。
ほんの数秒だけ。
それでも、震えは少し収まった。
「もう大丈夫でございます」
「本当か?」
「いいえ」
カサンドラは正直に答え、手を離した。
「ですが、独りではございませんので」
王太子が席へ着く。
三人の使節が見守る。
無毒化された紫瓶と、太陽紋の杯が運び込まれた。
そして――第三の鐘が、鳴り始めた。




