第九十話 毒の嫌うもの
「毒の名と除去法を答えなさい」
ユリアナが銀の天秤をベルナールへ向ける。
「黙秘いたします」
「このままでは四人が死ぬのよ!」
ヴィオレッタが声を荒らげても、老執事は笑みを崩さない。
「私は先ほど、取引を提示いたしました。お嬢様が署名なされば、お教えいたします」
「その契約には、あんたが教えるって書いてなかっただろ」
「口約束でございます」
「契約を信じろって言う奴が、そこだけ口約束なのかよ」
「……余計なところで勘が働きますな」
「余計って言うな!」
レティシアが灰色の膜へ手をかざす。
「凍らせても変化しない。削れば杯を傷つける」
「飲まなきゃいいんじゃないか?」
「熱い茶を注いだ際、毒気が発生する可能性があるわ」
ヴィオレッタの言葉に、俺は杯から離れた。
「先に言ってくれ!」
「まだ可能性の話よ」
「だからって近くで試せないだろ!」
カサンドラだけは、杯ではなくベルナールを見ていた。
老執事の手。
立つ位置。
閉ざされた玻璃温室の天窓。
「ベルナール」
「何でございましょう?」
「あなたは以前、わたくしへ教えましたわね。価値ある品を見つけたければ、何から守られているかを見ろ、と」
「よく覚えておいでです」
「では、なぜ太陽紋の杯を、日の差さない場所へ移したのです?」
ベルナールの笑みが止まった。
夜は明けている。
それなのに、温室の天窓には黒い幕が張られていた。
「レティシア。あの幕を開けてくださいませ」
「お嬢様、それは――」
「どうかなさいました?」
「……結露を防ぐためでございます」
ユリアナの天秤が鳴った。
「今の発言は虚偽です」
「幕を開ける」
レティシアが氷の刃で留め具を切る。
黒い幕が落ち、朝日が玻璃を通って差し込んだ。
ベルナールが初めて身を乗り出す。
「杯を日陰へ!」
カサンドラは太陽紋の杯を両手で持ち、光の中へ進んだ。
灰色の膜が煙を上げる。
「ヴィオレッタ!」
「毒気は薔薇で吸うわ!」
黒薔薇が杯を囲み、立ち上った煙を花弁へ閉じ込める。
やがて灰色の膜は白い粉となり、さらさらと崩れた。
ユリアナが天秤で調べる。
「毒性反応、消失しました」
「なぜ分かった?」
俺が尋ねると、カサンドラは杯を見つめたまま答えた。
「幼い頃、ベルナールの書斎で灰色の薬瓶に触れ、ひどく叱られたことがございます。決して日光へ当ててはならない、と」
「毒の名前を知ってたのか?」
「いいえ。忘れていた記憶と、あの方の嘘を繋げただけですわ」
「すごいじゃないか!」
「これくらいは当然で――」
カサンドラの手が扇子へ向かう。
けれど、開く前に止まった。
「……いいえ。今は、素直に受け取るべきなのでしょうね」
彼女は俺を見て、少し照れたように微笑む。
「ありがとうございます、アルト様」
「おう!」
「アルト。近いわ」
「アルト、笑いすぎ」
ヴィオレッタとレティシアの声が同時に飛んできた。
「褒めただけだろ!?」
「その程度で喜ぶとは、安い男ですね」
ユリアナまで真顔で言う。
「なんで俺が責められるんだよ!」
皆の声を聞きながら、カサンドラはもう一度笑った。
今度の笑顔は、誰かを操るためのものではなかった。
「まだ終わっておりませんぞ」
拘束されたベルナールが低く告げる。
「毒を消しても、契約原本は杯に残っております。お嬢様は茶会へ出席し、殿下へ杯を差し出す。天秤の聖女は、お嬢様の罪を証言する」
杯には今も、紫と金の文字が絡みついている。
「そして、南方使節はすでに疑っております」
「どういう意味です?」
ユリアナが問う。
「昨夜、三人の使節へ証拠書類をお送りしました。カサンドラお嬢様が、彼らの暗殺を計画しているという証拠を」
「偽造したのか!」
「真偽など関係ありません。彼らが信じれば、外交上は事実となる」
そのとき、温室の扉が激しく開いた。
王宮の伝令が、息を切らして駆け込んでくる。
「ユリアナ様! 三人の南方使節が、茶会への出席を拒否しております!」
さらに伝令は、青ざめた顔で続けた。
「カサンドラ・ヴェルレーヌ嬢を引き渡さなければ、直ちに帰国すると――!」
毒は消えた。
けれど、彼女へ向けられた疑いが、今度は戦争へ火をつけようとしていた。




