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第八十九話 笑顔を教えた男

「ベルナール・モロー。太陽紋の杯から離れ、投降しなさい」


 ユリアナの天秤から金の鎖が伸びる。


 だが、ベルナールへ届く直前、紫色の壁に弾かれた。


『指定代理人への危害は、担保への危害とみなす』


 カサンドラの胸元に紫文字が浮かぶ。


「攻撃すれば、カサンドラが傷つく……」


 ヴィオレッタがいばらを止めた。


「左様でございます」


 ベルナールは穏やかに笑う。


「契約とは、剣より優れた盾となります」


「なぜだ、ベルナール」


 後ろから来た侯爵が問う。


「二十年、我が家へ仕えたはずだ」


「ええ。十分な報酬を頂き、十分な働きをお返しいたしました。良好な取引でございました」


「カサンドラを育てたことも、取引だったと?」


「もちろんでございます」


 カサンドラの肩が震える。


「泣けば、あなたが慰めてくださいました」


「泣きやませることも教育でしたので」


「誕生日に、菓子をくださったことは?」


「労働意欲を維持するための投資です」


「熱を出した夜、朝までそばにいてくださったのも……?」


「将来価値の高い商品を失わぬためでございます」


 カサンドラは扇子せんすへ手を伸ばした。


 だが途中で止め、唇を噛む。


「では、わたくしの悪評を広めたのは?」


「今日のためです」


 ベルナールは、白百合の印が入った黒い契約書を取り出した。


「人は事実よりも、分かりやすい物語を信じます。聖女が指さし、悪女が笑えば、それだけで犯人は完成する」


 彼はユリアナを見る。


「嘘を許さぬ天秤の聖女。その証言であれば、王侯貴族も民衆も疑わない」


「私の正義を、偽証ぎしょうに利用するために……」


「あなたは正しくあるだけでよいのです。何が正しいかは、こちらが用意いたします」


「それは正義ではありません」


「世間には区別できませんよ」


 ベルナールが契約書をカサンドラへ差し出す。


「署名してくださいませ、お嬢様。すべて自分の意思で行ったと認めれば、あなた以外の命は助かります」


「信用できるものか!」


 俺が叫ぶと、ベルナールは杯を持ち上げた。


「紫瓶を無毒にした程度で、計画を防いだとお考えでしたか?」


 杯の内側に、薄い灰色の膜が浮かんでいる。


「杯にも毒を……!」


「王太子殿下は最初の一口を飲み、その後、友好の証として三人の南方使節へ杯を回されます」


 王太子と、三人の使節。


 焼け焦げた本に記されていた、四人の犠牲者だ。


「この毒の除去法を知るのは、私だけ。お嬢様一人と、四人の命。計算は簡単でしょう?」


 カサンドラの指が、差し出された契約書へ伸びる。


「駄目だ!」


「しかし、アルト様。このままでは――」


「そいつは助けるなんて書いてない!」


 黒い紙には、カサンドラが罪を認める条件しかない。


 ベルナールが何を返すのか、一文字も記されていなかった。


「お前が教わったんだろ。条件の分からない契約には署名するなって!」


 カサンドラの指が止まる。


 ベルナールの笑みが、わずかに消えた。


「お嬢様。感情に惑わされてはなりません」


「そうですわね」


 カサンドラは涙を拭う。


 そして今度は、自分の意思で微笑んだ。


「ですから、あなたとの取引はお断りいたします」


「四人を見殺しになさると?」


「いいえ。四人も、わたくし自身も助けます」


「そのような利益だけの契約は存在しません」


「これは契約ではございませんもの」


 カサンドラは俺たちを見る。


「皆様を、信じてみるだけですわ」


 ベルナールの顔から、初めて余裕が消えた。


「当主代行者として命じます。ベルナール・モロー、あなたを執事長から解任かいにんいたします」


「その命令は当主の承認がなければ――」


「承認する」


 侯爵が答えた。


 紫色の壁に亀裂きれつが走る。


「レティシア!」


「了解」


 銀色の影が床を駆けた。


 カサンドラが閉じた扇子でベルナールの手首を打ち、杯を奪う。


 ヴィオレッタの茨が両腕を縛り、ユリアナの金鎖が身体を拘束した。


 ベルナールは床へ膝をついても、笑っていた。


「私を捕らえても、毒は消えません」


 ユリアナの天秤が、杯の毒を調べる。


「既知の毒物と一致しません。成分が分からなければ、除去もできない」


 ベルナールは答えない。


 毒の茶会まで、残り四時間。


 俺たちは犯人を捕らえた。


 それでも、四人を殺す毒だけが、杯の中に残されていた。

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