第八十七話 選ばないという選択
「家か、その者たちか。選べ」
父親に迫られ、カサンドラは動けずにいた。
床へ落ちた扇子を拾おうともしない。
「カサンドラ」
「……分かりません」
か細い声だった。
「何だと?」
「わたくしは、自分が何を選びたいのか……分かりません」
「それなら、今は選ばなくていいだろ」
俺が言うと、侯爵は冷たい目を向けた。
「決断できない者に、ヴェルレーヌ家の後継者は務まらん」
「違う!」
カサンドラが顔を上げる。
声は震えていたが、もう笑ってはいなかった。
「お父様は、条件も対価も分からない契約へ署名するなと、わたくしに教えました」
「それがどうした」
「この選択には、何も示されておりません。家を選べば何を失うのか。この方々を選べば誰が傷つくのか」
カサンドラは胸元を強く握った。
「ですから、わたくしは今、どちらも選びません。すべてを確かめてから、自分で決めます」
「それを優柔不断と言う」
「いいえ」
ユリアナが静かに割り込む。
「不十分な情報で判断しないことは、司法における基本です」
「これは我が家の問題だ」
「王族毒殺未遂の捜査です。もはや侯爵家だけの問題ではありません」
父親と天秤の聖女が睨み合う。
やがて侯爵は、机の引き出しから一本の鍵を取り出した。
「契約文書庫を調べろ」
カサンドラが目を見開く。
「よろしいのですか?」
「第三の鐘までに、私の判断が誤りだと証明してみせろ」
侯爵は鍵を机へ置いた。
「できなければ、お前は家を守る責任を果たせ」
「……承知いたしました」
「それ、勝手に罪をかぶるって約束じゃないよな?」
「もちろんでございます」
カサンドラは扇子を拾い上げる。
けれど、すぐには開かなかった。
「お父様の判断が間違いだと、証明する約束ですわ」
◇
文書庫には、天井まで届く棚が何十列も並んでいた。
「全部、契約書かよ……」
「ヴェルレーヌ家が百年以上にわたり結んできたものです」
「探すのに何日かかるんだ?」
「目録を使えば、四半刻ほどで」
「目録ってどれだ?」
「アルト。それは請求書」
レティシアに取り上げられた。
「こっちか?」
「それは百年前の婚約破棄証明よ」
ヴィオレッタが溜息をつく。
「アルト様は、何も触らず立っていてくださるのが最も有益かと」
「俺だけ扱いひどくないか?」
カサンドラは少しだけ笑った。
作り物ではない、小さな笑顔だった。
彼女とユリアナが目録を調べ、ほどなく警備契約の保管箱を見つけ出す。
中には、白百合商会と結んだ契約書の控えがあった。
「父親が説明した通りだな」
「いいえ。おかしいです」
ユリアナが末尾を指さす。
『契約上の危機が生じた場合、ヴェルレーヌ家は担保の管理権限を指定代理人へ預託する』
「担保って何だ?」
「この頁には書かれておりませんわ」
カサンドラが紙を光へ透かす。
「本来なら、別紙に定義されているはずです」
だが、別紙だけが箱から抜き取られていた。
「指定代理人の名はあります」
ヴィオレッタが署名欄を読む。
『ヴェルレーヌ侯爵家執事長――ベルナール・モロー』
その名前を見た途端、カサンドラの指が止まった。
「知ってる人か?」
「わたくしが幼い頃から仕えている執事長です」
「家の印を使える?」
「お父様とわたくしに次いで、契約へ触れる権限を持っています」
カサンドラは唇を噛んだ。
「扇子で感情を隠すことも、笑顔で相手の本心を探ることも……すべてベルナールから教わりました」
そのとき、文書庫の扉が開いた。
侯爵家の使用人が、青ざめた顔で立っていた。
「お嬢様! 執事長の姿が見当たりません!」
「いつからです?」
「昨夜からです。部屋には、王宮の通行証だけがなく……」
使用人は息を整え、続けた。
「今朝の王太子殿下の茶会準備へ向かうと、書き置きがございました」
毒の茶会まで、残り五時間。
カサンドラに笑顔を教えた男は、王太子の待つ場所へ先回りしていた。




