第八十六話 娘の値段
「この署名は、本当にお父様のものです」
カサンドラは紫色の契約書を見つめていた。
「お父様の魔力印は、本人と当主代行者しか使えません」
「当主代行者は?」
ユリアナが問う。
「わたくしですわ」
つまり、署名を刻めるのは父親か、カサンドラだけ。
どちらが犯人でも、ヴェルレーヌ家は逃げられない。
「屋敷へ戻ります」
カサンドラが扇子を開く。
「わたくし一人で、お父様に確認いたしますわ」
「俺たちも行く」
「これは我が家の問題です」
「王太子とユリアナとヴィオレッタまで巻き込まれてる。もうお前の家だけの問題じゃないだろ」
「もし、お父様が命じていたら?」
カサンドラの金色の瞳が俺を見た。
「あなたは、どちらの味方をなさいます?」
「お前の味方だ」
「……迷わないのですね」
「お前の親父さんが無実なら一緒に助ける。犯人なら止める。それだけだろ」
「家と娘は、切り離せるものではございません」
「じゃあ、今から切り離せばいい」
「本当に簡単におっしゃいますこと」
呆れたような声だった。
けれどカサンドラは、もう一人で行くとは言わなかった。
◇
ヴェルレーヌ侯爵邸には、夜明け前とは思えないほど多くの使用人が並んでいた。
俺の簡素な制服を見た執事が眉をひそめる。
「市民枠の学生を、正面玄関からお通しすることは――」
「彼はわたくしの客人です」
カサンドラが遮った。
「ですが、お嬢様」
「同じことを二度申し上げる必要が?」
「……失礼いたしました」
扉は開いた。
屋敷の中には、豪華な絵画も花もない。
代わりに壁一面を、契約書の入った銀箱が埋めていた。
「変わった家だな」
「我が家では、肖像画より契約書の方が価値を持ちますので」
「家族の思い出とかは?」
「価値を証明できないものは、飾りませんわ」
カサンドラは笑っていた。
でも、その笑顔がひどく寂しく見えた。
応接室には、一人の男が待っていた。
濃い紫の髪に、冷たい金色の瞳。
カサンドラの父、オーギュスト・ヴェルレーヌ侯爵だった。
「遅かったな、カサンドラ」
「申し訳ございません、お父様」
侯爵は娘の傷ついた手首を見る。
一瞬だけ指が動いたが、心配の言葉はなかった。
「説明しろ」
ユリアナが契約書を机へ置く。
侯爵は署名を確認し、すぐに答えた。
「私のものだ」
「黒薔薇の根を破壊するよう命じたのですか?」
「命じていない」
「では、なぜ署名が?」
「三か月前、王太子殿下の茶会に関する警備契約を結んだ。相手は白百合商会。南方使節の安全を保証する代わりに、新たな交易路の優先権を得る契約だった」
「その署名が転用された……」
ヴィオレッタが呟く。
「そのようだ」
「随分と冷静ですわね、お父様」
「動揺して契約が消えるのなら、いくらでも取り乱そう」
父と娘は、よく似た笑い方をした。
どちらも、何も感じていないふりをしている。
「茶会は中止できないそうだな」
侯爵がカサンドラへ尋ねる。
「はい。欠席すれば、わたくしとユリアナ様の心臓が停止いたします」
「ならば出席しろ」
「お父様?」
「毒を無力化したのであれば、王太子殿下は死なない。だが、契約書と毒瓶が公になれば、南方諸国は我が家を疑う」
侯爵は娘をまっすぐ見た。
「その場合、お前一人の独断だったと証言しろ」
部屋の空気が凍った。
「一人を差し出せば、侯爵家と交易に関わる数万人を守れる」
カサンドラの唇が動く。
「承知――」
「ふざけんな!」
俺は机を叩いた。
「平民には理解できまい。これは一人と数万人を天秤に載せる判断だ」
「嘘で娘を罪人にして、何が平和だ!」
「感情で民は養えない」
「娘を捨てるのは、判断じゃないだろ!」
侯爵の目が細められる。
「では、お前が責任を負えるのか?」
「負えない!」
俺は即答した。
「俺一人じゃ数万人なんて守れない。でも、だからってこいつ一人に全部押しつけていい理由にはならない!」
「理想論だ」
「なら、みんなで別の方法を探せばいい!」
「そんな都合のよい――」
「私も、虚偽の自白は認めません」
ユリアナが俺の隣へ立った。
「一人へ偽りの罪を着せれば、南方諸国との信頼は必ず崩れます。それこそ戦争の種になります」
「私もカサンドラを渡さないわ」
「同意する」
ヴィオレッタとレティシアも並ぶ。
カサンドラは、信じられないように俺たちを見ていた。
「カサンドラ」
侯爵が冷たく告げる。
「家を選ぶか、その者たちを選ぶか。今ここで答えろ」
彼女の手が、いつもの扇子へ伸びる。
「答えなくていい」
俺はその手を止めた。
「今、笑わなくてもいいんだ」
扇子が、床へ落ちた。
カサンドラの顔には、笑顔の代わりに。
ずっと隠してきた、泣きそうな少女の表情があった。




