第八十五話 毒を吸う黒薔薇
「始めるわ」
ヴィオレッタが黒薔薇の根を井戸水へ浸した。
レティシアは耐魔箱から紫瓶を取り出し、薄い氷で包む。
「瓶は凍らせた。割れても毒気は外へ出ない」
「封を開ければ、契約がカサンドラの手を動かす可能性があります」
ユリアナの言葉に、カサンドラの右指が震えた。
「では、アルト様。お願いできますか?」
「何を?」
「わたくしの手を、押さえていてくださいませ」
カサンドラが右手を差し出す。
「触っていいのか?」
「いちいちお尋ねになるのですね」
「嫌がるかもしれないだろ」
彼女は一瞬だけ目を伏せた。
「……どうぞ。今だけは、あなたにお預けいたします」
俺はカサンドラの手首を両手でつかんだ。
「痛かったら言えよ」
「その場合、離してくださるのですか?」
「いや。毒をつかもうとするなら離さない」
「では、尋ねる意味がございませんわね」
「痛いのが分かれば、少し弱くできるだろ」
カサンドラは答えなかった。
ただ、俺に預けた手から力が抜けた。
「開ける」
レティシアが氷の針で瓶の封を貫く。
ヴィオレッタの黒薔薇から細い根が伸び、針穴を通って瓶の中へ入った。
紫色の液体が激しく泡立つ。
「くっ……!」
カサンドラの腕に紫文字が浮かんだ。
『毒薬を保護せよ』
彼女の身体が瓶へ飛びつこうとする。
「アルト様、離して!」
「嫌だ!」
「命令ではございません! わたくしがあなたを傷つける前に――」
「俺の心配するくらいなら、一緒に踏ん張れ!」
細い腕から信じられない力が伝わってくる。
俺の靴が地面を滑った。
ヴィオレッタの根は、毒を吸うたび紫黒色に染まっていく。
「あと少しよ!」
突然、カサンドラの爪が俺の手の甲へ食い込んだ。
血が流れる。
「アルト様……!」
「これくらい平気だ!」
「平気な顔をなさらないで!」
カサンドラが叫んだ。
扇子も、笑顔もない。
「痛いなら、痛いとおっしゃってくださいませ!」
「……痛い!」
「でしたら、なぜ!」
「お前の方が痛そうだからだよ!」
カサンドラの瞳が揺れた。
その瞬間、彼女の手から力が抜ける。
まるで契約よりも先に、自分の意思で俺の手を握り返したようだった。
「吸収完了!」
ヴィオレッタが根を引き抜く。
瓶の中に残っていたのは、色のない水だけだった。
ユリアナが銀の天秤をかざす。
「毒性反応なし。王太子殿下が口にしても害はありません」
カサンドラの腕に刻まれた文字が書き換わる。
『登録瓶の内容物――無毒』
「成功した……」
全身の力が抜け、俺はその場へ座り込んだ。
毒を吸った黒薔薇の根は、紫の結晶となって崩れていく。
ヴィオレッタは最後に残った一輪を切り離し、黒い箱へ封じた。
「これで、この根はもう使えないわ」
「大切なものを、失わせてしまいましたわね」
カサンドラが呟く。
「お支払いできる金額を――」
「いらないと言ったでしょう」
「ですが!」
「なら、いつか誰かを助けて」
ヴィオレッタは空になった井戸端へ土を戻した。
「これは契約ではないわ。私の願いよ」
「願い……」
カサンドラは、その言葉を知らないような顔をした。
◇
夜明け前。
ユリアナは拘束した襲撃者を銀の天秤の前へ座らせた。
「あなた方へ、黒薔薇の根を破壊するよう命じた者は誰ですか?」
「答えれば、俺が殺される」
「黙っていても、あなたを罪人とは決めつけません。命を守ることを優先します」
男は迷った末、懐から紫色の契約書を差し出した。
「俺たちは、正式な依頼を受けただけだ」
依頼主の欄には、見慣れない紋章が押されている。
絡み合う二匹の蛇と、紫の扇。
それを見たカサンドラの顔から、すべての色が消えた。
「この紋章は?」
俺が尋ねる。
「ヴェルレーヌ侯爵家の正式印です」
ユリアナが答えた。
契約書の末尾には、依頼主の署名があった。
『オーギュスト・ヴェルレーヌ』
「お父様……」
カサンドラの声が、初めて幼い少女のように震えた。
白百合へ続く手がかりは、彼女自身の家へ繋がっていた。




