第八十三話 毒でなくせばいい
王太子専用の太陽紋の杯は、王宮東棟の儀礼宝物庫に保管されていた。
黄金の台座に置かれた杯は、夜だというのに淡い光を放っている。
「勝手に持ち出せば、王家への反逆罪です」
ユリアナが告げた。
「壊したら?」
「国家反逆罪に加えて、王家の至宝損壊です」
「どっちにしても重いな……」
「アルトなら、壊しかねない」
レティシアが俺の腕をつかむ。
「壊さないって!」
「今、壊せるか考えたでしょう?」
ヴィオレッタにまで見抜かれた。
カサンドラだけが扇子の奥で楽しそうに笑っている。
「アルト様でしたら、王家の至宝にも体当たりなさりそうですもの」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「考えるより先に動く、善良な破壊者でしょうか」
否定しづらかった。
ユリアナが銀の天秤を杯へ近づける。
「二人の契約を反応させます。カサンドラ、右手を」
「触れれば、毒を注いだことにされる可能性もございますが?」
「私も同時に触れます。異常があれば、責任は二人で負います」
「あら。聖女様が悪女と共犯に?」
「真実を確かめるためです」
二人の指先が杯へ触れた。
紫と金の文字が浮かび、杯の表面を鎖のように巡る。
『第三の鐘とともに、署名者は登録された紫瓶の内容物を、太陽紋の杯へ残さず注ぐこと』
ユリアナが文字を一つずつ読み上げた。
「これが実行条項です」
「内容物って、毒のことだよな?」
「現在の中身は、紫睡蓮の涙です」
カサンドラが答える。
「一滴で成人を死に至らしめる猛毒。熱にも冷気にも強く、茶へ混ぜれば色も香りも消えますわ」
「でも、毒を注げとは書いてない」
「……何ですって?」
「紫瓶の中身を注げって書いてあるだけだろ」
全員が俺を見る。
「だったら、先に毒じゃなくせばいい」
しばらく沈黙が流れた。
カサンドラの扇子が、ゆっくりと下がる。
「そのような単純な抜け道を、仕掛けた者が見落とすと?」
「知らない。でも試す前から無理って決めるよりいいだろ」
「紫睡蓮の涙に解毒薬はありません」
ユリアナが言った。
「飲んだあとで助けるんじゃない」
ヴィオレッタが杯を見つめた。
「飲む前に、毒だけを吸い出せばいいのよ」
「可能なのですか?」
「私の黒薔薇なら」
ヴィオレッタは自分の指先に、小さな黒い蕾を咲かせた。
「以前、井戸へ流された毒を吸わせたことがあるわ。ただし、これほど強い毒なら普通の薔薇では耐えられない」
井戸。
ヴィオレッタが独りで守ろうとしていた、あの古い井戸だ。
「今なら、あそこに一本だけある」
「何が?」
「浄化された水で育て続けた、黒薔薇の根よ。いつかまた井戸が狙われたときのために残しておいたの」
「それを使えば?」
「毒を根へ封じ込められるかもしれない。ただ、三時間は必要ね」
毒の茶会まで、残り十一時間余り。
学園との往復を考えても、間に合う。
「では、すぐに向かいましょう」
ユリアナが杯から手を離す。
だが、カサンドラは動かなかった。
ヴィオレッタを見つめている。
「大切な備えなのでしょう? なぜ、わたくしのために使うのです?」
「あなたのためだけではないわ。王太子殿下も、ユリアナも、戦争に巻き込まれる人々も守るためよ」
「対価は?」
「いらない」
ヴィオレッタは迷わず答えた。
「あの井戸も、多くの人が見返りを求めず守ってくれた。そこで育った薔薇なら、同じように誰かを守るために使いたい」
カサンドラは何も返せなかった。
取引では説明できない答えを、まだ受け止められないのだ。
そのとき、彼女の右腕に紫文字が走った。
『署名者は、登録された紫瓶より三十歩以上離れてはならない』
カサンドラが苦痛に顔を歪める。
「毒瓶も一緒に運べということか」
「王都の中を、猛毒とともに移動することになります」
ユリアナが厳しい顔で言う。
レティシアは耐魔箱を持ち上げた。
「私が運ぶ。凍らせ続ければ、割れても毒気は広がらない」
「危ないぞ」
「だから私が持つ。アルトには任せられない」
「なんでだよ!」
「転ぶから」
即答だった。
俺たちは猛毒を抱えたまま、真夜中の王都を抜けることになった。
目指すのは、すべての始まりだった黒薔薇の井戸。
だが、宝物庫を出た瞬間。
廊下の窓の向こうで、白い百合の印を付けた影が走り去った。




