第八十二話 消えた契約原本
毒瓶は、ヴィオレッタの黒薔薇で幾重にも包まれ、王宮の耐魔箱へ収められた。
それでも、カサンドラの右手は箱へ向かおうと震えている。
「原本を見つければ、この強制を止められるのか?」
俺が尋ねると、カサンドラは扇子を開いた。
「契約術の根は、必ず原本にございます。燃やすか、正しい手順で破棄すれば、あるいは」
「曖昧ですね」
ユリアナが冷静に指摘する。
「我が家の契約術ではございませんので」
「ヴェルレーヌ侯爵家以上の契約術師が、王都にいると?」
「いないはずの者ほど、悪事には向いておりますわ」
にこりと笑った直後、カサンドラの膝が崩れた。
「おい!」
俺は慌てて肩を支えた。
「お気遣いなく、アルト様。こちらの貸しは、少々お高く――」
「倒れられる方が困る。歩けないなら肩を貸す。それだけだ」
「……本当に、取引になさいませんのね」
カサンドラが俺の肩へ体重を預ける。
右から冷たい視線を感じた。
「アルト。随分と自然に抱き留めるようになったわね」
「必要な行動。でも、近い」
ヴィオレッタとレティシアが同時に言う。
「今そこ気にするとこか!?」
「お三方は、随分と複雑な契約を結ばれているのですね」
ユリアナまで妙な誤解をしている。
「結んでない!」
俺の声が、深夜の廊下に響いた。
◇
誓約法廷は、王宮地下にあった。
ユリアナが銀の天秤を扉へ当てると、分厚い石扉が音もなく開く。
「保管庫への入室者は、私たち五人のみ。衛兵は外で待機してください」
「しかし、アストレア様」
「この中に裏切り者がいない保証はありません」
衛兵たちの顔が強張る。
疑っているから遠ざける。
けれど、罪人とは決めつけない。
ユリアナは、冷たいんじゃない。
間違った正しさを口にするのが怖いのだ。
保管庫の最奥には、金色の鎖で封じられた白い箱があった。
「封印に異常はありません」
ユリアナが天秤の飾りを差し込む。
鎖が解け、蓋が開いた。
中は空だった。
「ない……?」
初めて、ユリアナの声から冷静さが消えた。
箱の底には、持ち出し記録が一枚だけ残されている。
『本日、第二十一刻。カサンドラ・ヴェルレーヌへ原本を返却』
『承認者――ユリアナ・アストレア』
「私は承認していません!」
「わたくしも受け取っておりませんわ」
だが、記録には二人の魔力署名が刻まれていた。
ユリアナが触れて確認する。
「偽物ではありません。私の署名です」
「俺たちが会う前、カサンドラはどこにいた?」
「自室に。侍女たちが証明いたします」
「私もその時刻は司法講義に出席していました」
二人とも、その場にはいなかった。
なのに署名だけは本物。
カサンドラの笑みが消えた。
「偽造ではございません。わたくしたちが別の書類へ記した署名を、隠し条項によって持ち出し承認へ転用したのでしょう」
「本人が気づかないうちに、勝手に約束させたってことか?」
「ええ。正しさも、信頼も、すべて契約の材料にされたのでございます」
そのとき、空箱の底に新たな文字が浮かんだ。
『原本転写完了』
『最終契約媒体――王太子専用、太陽紋の杯』
「杯そのものが、原本……?」
ヴィオレッタが息を呑む。
続いて、俺たちが最も見たくなかった一文が現れた。
『署名者または立会人が茶会を欠席した場合、両名の心臓を停止する』
ユリアナの顔が青ざめる。
「茶会を中止できません」
「欠席もできない。毒瓶だけ奪っても終わらない」
レティシアが拳を握った。
カサンドラは扇子で口元を隠した。
「アルト様。どうやら、わたくし一人を助けるより、随分とお高くなったようですわ」
「じゃあ菓子を二個にする」
「……はい?」
「お前とユリアナ。二人分だ」
俺は空箱に浮かぶ文字を睨んだ。
「二人とも助ける。王太子も、絶対に死なせない」
夜明けまで、あと六時間。
毒の茶会まで、あと十二時間だった。




