第七十九話 笑顔の下の契約
「毒殺したことにされるって、どういう意味だ?」
カサンドラは扇子を机へ置いた。
「説明する前に、一つ約束していただけますか?」
「内容を聞く前に約束はできない」
「……本当に、契約が嫌いな方」
「普通はそうじゃないのか?」
「私の周囲では、契約なしに交わされる言葉などございません」
彼女が右手の手袋を外す。
手首から指先まで、紫色の文字が刻まれていた。
「王太子殿下の誕生茶会を運営するため、私は式次第へ署名しました」
「それが何で毒殺になるんだ?」
「表面上は、料理や給仕の順番を定めたものです。ですが署名後、隠されていた条項が現れました」
カサンドラが文章を書き写す。
『第三の鐘が鳴ったとき、署名者は紫の小瓶を太陽紋の杯へ注ぐ』
『署名者はその杯を王太子へ直接差し出す』
『この契約について権力者、教師、衛兵へ知らせることを禁ずる』
『違反した場合、署名者の心臓を停止させる』
「そんなもの、最初から断ればよかっただろ」
「隠し条項は、署名するまで見えない特殊な魔法で覆われていました」
「署名を消せないのか?」
「契約の原本を破棄しない限り、不可能です」
「明日、茶会へ行かなければ?」
「契約に逆らえば心臓が止まります」
彼女の口元から、また血が流れた。
「話すだけでも傷つくのか?」
「契約が、警告しているのです。アルト様は権力者でも教師でもないため、お話しできますが……完全な抜け道ではないようです」
「それで扇子を?」
カサンドラは反射的に口元を隠した。
「見苦しいものを、他人へ見せるべきではありませんから」
「痛いなら、痛い顔をすればいいだろ」
「そのような顔を見せて、何になるのです?」
「少なくとも、笑ってるより分かりやすい」
扇子の奥で、笑みが止まった。
「第三の鐘は、いつ鳴る?」
「明日の正午です」
「毒は?」
「ヴェルレーヌ家が管理する『紫睡蓮の涙』。一滴で人を死なせる毒が、昨夜保管庫から盗まれました」
「犯人が、それを小瓶に入れて持ってくるのか?」
「おそらく。契約には、受け取る相手も場所も記されておりません」
カサンドラは金貨の詰まった袋を机へ置いた。
「前金です。残りは成功後に」
「いらない」
「足りませんか?」
「そうじゃなくて、困ってるなら助ける」
「対価もなく?」
「お前、金を払わないと助けてもらえないと思ってるのか?」
「当然でしょう」
迷いのない返事だった。
「好意も友情も、いずれ何かを求めるための投資です。無償の親切など、最も信用できません」
「じゃあ、あとで菓子を一個くれ」
「……それだけ?」
「今出てるやつは、毒が怖いからいらない」
カサンドラは目を見開いたあと、初めて少しだけ自然に笑った。
「でも、頼み方は変えてくれ」
「何が問題でしょう?」
「お前を止めるために、お前を殴ったり腕を折ったりするのは嫌だ」
「最も確実な方法ですわ」
「そんなの、助けたことにならないだろ」
俺は席を立ち、扉へ向かった。
「どちらへ?」
「ヴィオレッタたちを呼ぶ」
「お待ちください!」
カサンドラの笑顔が崩れた。
「あの方々は高位貴族です。契約について聞かせれば、違反と判断される可能性が――」
「なら、お前が説明しなくていい。俺が話す」
「信じられるのですか?」
「あの二人も、やってない罪を着せられた。力になってくれる」
「悪女同士が、助け合うと?」
「呼び名は関係ないだろ」
扉を開ける。
ヴィオレッタとレティシアが、左右から同時に倒れ込んできた。
「盗み聞きしてたのか?」
「毒殺という言葉が聞こえたのよ!」
「壁が薄すぎる」
「お前たちが耳を押しつけてたからだろ!」
◇
事情を聞いたヴィオレッタは、カサンドラの腕へ刻まれた文字を調べた。
「かなり古い契約魔法ね。上書きは難しいわ」
「なら、右腕を折ればいい」
レティシアが言った。
「お前も同じこと言うのか!」
「確実だ」
「こちらの銀狼様とは、気が合いそうですわ」
「お前まで乗るな!」
ヴィオレッタが机を叩く。
「腕を折るのは最後の手段よ。原本を見つけて破棄すればいいのでしょう?」
「原本は王太子殿下の茶会準備室に保管されています」
「なら、今夜中に調べるわ」
「なぜ、私を助けるのですか?」
カサンドラが尋ねる。
「勘違いしないで」
ヴィオレッタは冷たく答えた。
「あなたのためだけではないわ。王太子が殺されれば国が割れるもの」
カサンドラの瞳に、やはりという色が浮かぶ。
「それに――」
ヴィオレッタが続けた。
「身に覚えのない罪で、誰かが独りになるのを見たくないだけよ」
レティシアもうなずく。
「借りだと思うなら、あとで返せ」
「対価を求めるのですね」
「違う。次に私たちが困ったとき、助けろ」
カサンドラは、言葉を失った。
契約ではない約束を、どう受け取ればいいのか分からない顔だった。
第三の鐘まで、あと十八時間。
俺たちは紫扇の腕ではなく、彼女を縛る契約そのものを壊すことにした。




