第七十六話 銀狼、学園へ帰る
北部を離れる朝。
オスヴァルト侯爵が、駅まで見送りに来た。
「レティシア。後継者として戻るつもりはあるか?」
「今は、分かりません」
「そうか」
以前なら、迷うことさえ許されなかった。
けれど侯爵は、答えを急がせなかった。
「決めるまで、時間をかけるといい」
「よろしいのですか?」
「お前の人生だ。私が決めるべきではなかった」
侯爵は一本の剣を差し出した。
ガルム教官に預けられていた、レティシア自身の剣だ。
「これは返す。だが、抜くかどうかは自分で決めろ」
「ありがとうございます」
「命令ではなく、帰りたいと思ったときに帰ってきてくれ」
「……はい、お父様」
ナディアは、王都で白百合について証言するため、俺たちと一緒に学園へ向かう。
「証言が終わったら、北部へ戻ります」
ナディアが侯爵へ告げた。
「ですが、元の暮らしへ戻るかは、話し合ってから決めます」
「分かっている」
「手紙を送ります」
「今度は、必ず返事を書く」
九年ぶりの夫婦も、すぐには元へ戻れない。
それでも今度の手紙は、誰にも止められないだろう。
◇
学園へ戻った日の午後。
正門には、大勢の学生が集まっていた。
「銀狼侯女だ……」
「和平使節を襲ったというのは?」
「偽物だったらしいぞ」
「本当に信じていいのか?」
疑いの視線は、まだ消えていない。
正門前の掲示板には、刺激的な見出しの新聞が貼られていた。
『銀狼、和平会談を血に染める』
その上から、別の新聞が重ねられている。
『真犯人は擬態魔法を用いた工作員』
『レティシア・ヴァルハルト嬢、五百名の避難民を救出』
「都合のいいものね」
ヴィオレッタが新聞を見上げる。
「上の記事だけ読んで、下の記事を読まない者もいるでしょう」
「構わない」
レティシアは、逃げずに学生たちの間を歩く。
「呼び名や噂が消えるまで待っていたら、何もできない」
「強くなったな」
「最初から強い」
「痛いって言えるようになっただろ」
「それは今、関係ない!」
以前と同じ鋭い声。
けれど、その横顔は少しだけ赤かった。
◇
全校集会で、グレイ先生が調査結果を発表した。
「魔狼を放ち、氷狼石を盗んだのは、ガルム・ハーケン教官と白百合の工作員です」
捕らえたガルム本人も、血統と過去の軍歴から本物だと確認された。
擬態用に保存されていた姿は、逃走や追加の工作へ使う予定だったらしい。
「よって、レティシアへの嫌疑および指揮権停止を撤回します」
拍手は、まばらだった。
すぐに全員から受け入れられるわけではない。
そのとき、魔狼に襲われかけた男子生徒が立ち上がった。
「俺は、レティシア様に助けられました」
震えながらも、頭を下げる。
「なのに、犯人だという噂を信じました。申し訳ありません」
続いて、魔獣管理の教師が立つ。
「噛まれながら魔狼を殺さず、押さえてくださったことも事実です」
一人。
また一人。
実際に見た者が、自分の言葉で証言する。
拍手が少しずつ増えていった。
レティシアは、どうすればいいか分からないように立っていた。
「こういうときは、頭を下げるんだよ」
「知っている」
俺にだけ聞こえる声で答え、全校生徒へ向き直る。
「感謝する」
短い言葉だった。
それでも、銀狼が人の好意を受け取った瞬間だった。
◇
「指揮役への復帰を希望しますか?」
集会後、軍事科の教師が尋ねた。
「希望します。ただし、条件があります」
「伺いましょう」
「負傷した学生には、本人の意思を確認して治療を行うこと。痛みや恐怖を申告した者を、評価で不利にしないこと」
レティシアはミレーヌを見る。
「救護係にも、危険だと判断した場合の演習停止権を与えてください」
「武器を捨てろとは言いません」
ミレーヌが微笑む。
「ですが、傷ついたまま戦わせることには反対します」
「その意見なら聞く」
「では、提案書は一通で済みそうですね」
「三十七通も送るな」
二人は、もう互いを敵として見ていなかった。
帰り際、レティシアが俺の袖をつかむ。
「今日は、同じ食卓で昼食を取る」
「それ、誘ってるのか?」
「そうだ」
ヴィオレッタが反対側の袖をつかんだ。
「アルトは私の相棒よ」
「食事をするだけだ、黒薔薇」
「なら、私も行くわ」
「私もご一緒してよろしいですか?」
ミレーヌまで加わった。
食堂へ向かう俺たちを、学生たちが驚いて見ている。
銀狼は学園へ戻った。
疑いの中へ一人で戻ったのではない。
自分で選んだ仲間たちと、一緒に帰ってきたのだ。




