第七十二話 銀狼を引き渡せ
「レティシアを引き渡すことはできん」
オスヴァルト侯爵が、隣国から届いた要求書を机へ置いた。
「だが拒めば、和平会談は中止されます」
外交官の声が震える。
「隣国軍は、すでに国境付近へ集結を始めています。こちらも兵を動かせば、戦争です」
白百合の狙いどおりだった。
偽物が一人を刺しただけで、二つの国が武器を向け合おうとしている。
「私が行きます」
レティシアが告げた。
「駄目だ!」
俺と侯爵の声が重なった。
「隠れていれば、偽物の罪が私の罪になる」
「身柄を渡されたら、何をされるか分からないぞ!」
「罪を認めるつもりはない。自分の名前を取り戻しに行く」
レティシアは俺を見た。
「アルト。一緒に来てくれ」
「え?」
「一人にはしないと言っただろう」
「ああ。行く」
「答えるのが速すぎるわ!」
ヴィオレッタが怒鳴った。
「私も同行します。あなたたち二人だけでは、会談が始まる前に問題を起こすでしょうから」
「私も参ります」
ミレーヌも立ち上がる。
「負傷した使節を治療できれば、本人から証言を得られます」
「私も証人として行きます」
ナディアが命令書を抱えた。
「擬態魔法と白百合の施設を、両国へ説明します」
侯爵は娘を止めようとして――言葉をのみ込んだ。
「何が必要だ、レティシア」
「安全な通行許可を。それから、王国軍を動かさないでください」
「隣国軍が動いてもか?」
「私たちが戻るまで待ってください」
侯爵は目を閉じた。
指揮官なら、娘を危険へ送らない。
父親なら、もっと止めたいはずだ。
それでも最後には、うなずいた。
「分かった。お前を信じる」
◇
和平会談の会場は、中立地帯に建つ氷冠館だった。
到着した俺たちを、隣国兵が取り囲む。
「武器を捨てろ、銀狼!」
レティシアは二本の剣を雪の上へ置いた。
兵士が拘束具を持って近づく。
手首へ触れられた瞬間、彼女の身体が震えた。
「レティシア」
「大丈夫ではない」
以前の彼女なら、平気だと嘘をついただろう。
「でも、自分で決めて来た。耐えられる」
「俺はここにいるからな」
「ああ」
両手を拘束されたレティシアが、会談場へ入る。
隣国の外交官たちは、憎しみの目を向けていた。
「この女が、我が国の使節を!」
「即刻処刑しろ!」
「まず、負傷者へ会わせてください!」
ミレーヌが前へ出る。
「命を救えれば、犯人の姿について証言を得られます」
「王国の聖女を信用しろと?」
「国ではなく、治療師として参りました」
長い協議の末、十分間だけ治療を許された。
◇
負傷した使節は、氷冠館の医務室にいた。
胸には深い刺し傷。
傷口の周囲が灰色に凍りつき、通常の治癒魔法を拒んでいる。
「灰氷晶の毒です」
ナディアが傷を調べる。
「採掘場で作られていたものと同じです。魔力を吸い取って、治療を妨げます」
「取り除けますか?」
「私が結晶を抑えます。ミレーヌ、合図に合わせて治癒を」
二人の魔法が、傷口を包む。
灰色の結晶が少しずつ砕け、使節の呼吸が安定していく。
「見てくれ」
俺は、使節の右手が何かを握っていることに気づいた。
指を開くと、破れた白い布が出てきた。
「白い手袋……」
裏地には、七枚の花弁を持つ白百合の印。
襲われたとき、犯人から引きちぎったのだ。
「証拠になります」
ミレーヌが言ったとき、使節の目が開いた。
「銀……髪の……少女……」
「私はここにいます」
レティシアが拘束された両手を見せる。
「あなたを襲ったのは、私ですか?」
使節は彼女の顔を見つめ、弱く首を横に振った。
「顔は……同じ……だが……手が……灰色の石に……」
偽物だ。
本人の証言が得られた。
その瞬間、会談場から悲鳴が響いた。
「何が起きた!」
兵士が扉を開ける。
大広間には、もう一人のレティシアが立っていた。
銀色の髪。
軍服に似た制服。
血に濡れた二本の剣。
「そちらの女は偽物だ!」
もう一人の銀狼が、拘束されたレティシアを指差す。
「白百合に化けられている! 今すぐ殺せ!」
本物と偽物。
二人の銀狼が、両国の使節を前に向かい合った。




