第六十七話 母が残した氷の狼
ミレーヌが緊急許可を取り付けたのは、その日の夕方だった。
中立地帯へ入れるのは、五人まで。
グレイ先生。
ヴィオレッタ。
ミレーヌ。
俺。
そしてレティシアだ。
「正規軍は国境を越えられない」
出発前、オスヴァルト侯爵が娘へ告げた。
「ここから先は、お前たちだけで行くことになる」
「承知しています」
侯爵は、二つに分かれていた銀狼の首飾りをレティシアへ渡した。
「ナディアを連れ戻してくれ」
「命令ですか?」
「違う」
侯爵はしばらく言葉を探した。
「……頼む、レティシア」
彼女は父親をすぐには許せない。
それでも首飾りは受け取った。
「母様を見つけたら、お父様が自分で謝ってください」
「ああ。何度でも謝る」
◇
灰氷谷までは、雪狼に乗って向かうことになった。
北部で飼い慣らされた、大きな白い狼だ。
「俺、これに乗るのか?」
「馬より賢い。お前よりもな」
「初対面で負けたくないんだけど」
雪狼へ近づくと、牙を見せて唸られた。
「やっぱり嫌われてるぞ!」
「怯えているのが伝わっている」
「怖がるなって言われても無理だろ!」
レティシアが雪狼の耳の後ろを撫でる。
狼は目を細め、喉を鳴らした。
以前聞いたとおりだ。
「私と同じ雪狼へ乗れ」
「二人で?」
「お前一人では谷へ着く前に落ちる」
「でしたら、アルトは私の雪狼へ」
ヴィオレッタが割り込む。
「黒薔薇。雪上騎乗の経験は?」
「……ありません」
「なら、二人で落ちるだけだ」
「練習すれば乗れるわ!」
「出発は今だ」
結局、俺はレティシアの後ろへ乗ることになった。
「どこにつかまればいい?」
「私の腰だ」
「触っていいのか?」
レティシアの耳がわずかに赤くなる。
「今回は許可する。落ちて死なれる方が迷惑だ」
「では、私も同じ雪狼に乗ります」
「三人は無理だ、黒薔薇」
ヴィオレッタの機嫌が、出発前から悪くなった。
◇
日が沈む前に、灰氷谷へ到着した。
灰色の氷で覆われた崖の底に、古い採掘場が口を開けている。
入り口の周囲には、軍靴の跡。
何人もの人間が出入りしている。
「母様も、この中に……」
レティシアが進もうとしたとき、俺は氷壁に小さな傷を見つけた。
「これ、何だ?」
彫られていたのは、一匹の不格好な狼だった。
右耳だけが折れている。
「母様の狼……」
「知ってるのか?」
「幼いころ、眠れない私のために氷で作ってくれた」
レティシアが狼へ触れる。
氷像から淡い光が広がり、女性の声が流れた。
『レティ。あなたがこれを見つけたなら、私は連れ去られたあとでしょう』
レティシアが息を呑む。
『正面の坑道へ入ってはいけません。白百合は、人の顔と声を盗みます』
『たとえ私の声で助けを求められても、信じないで』
『右耳の折れた狼を追いなさい』
光が消える。
採掘場の正面から、悲鳴が響いた。
「レティシア! 助けて!」
母親と同じ声だった。
レティシアの足が正面へ向きかける。
だが、自分で止まった。
「母様は、正面へ入るなと言った」
「でも、本物かもしれないぞ」
「本物なら、私を罠へ呼ばない」
彼女は右側の岩陰を探す。
そこには、小さな狼の足跡が氷へ刻まれていた。
「こちらだ」
足跡を追い、狭い横穴へ入る。
その瞬間、正面坑道にナディアらしき女性が現れた。
「どうして来てくれないの、レティ!」
「幻影です!」
ミレーヌが叫ぶ。
女の身体が白く輝く。
「伏せろ!」
爆発とともに、坑道全体が崩れた。
ヴィオレッタの黒薔薇が俺たちを包む。
けれど、落ちてきた岩が通路を二つに分断した。
「アルト!」
瓦礫の向こうから、ヴィオレッタの声が聞こえる。
「俺は無事だ! レティシアもいる!」
こちら側にいるのは、俺とレティシアだけ。
ヴィオレッタたちとは完全に分断されていた。
「母様の足跡は、奥へ続いている」
レティシアが暗い坑道を見つめる。
「戻る道は?」
「塞がれた」
「じゃあ、進むしかないな」
「怖くないのか?」
「怖い。でも、お前一人で行かせる方が嫌だ」
レティシアは首飾りを握り、暗闇へ一歩踏み出した。
母親が残した小さな狼だけを道標に、俺たちは白百合の採掘場の奥へ進んだ。




