第六十六話 死んだはずの母
老女は、外套の内側から銀色の飾りを取り出した。
半分に割れた、狼の首飾りだった。
「連れ去られる直前、ナディア様から預かりました。これを見せれば、ご家族が信じると」
オスヴァルト侯爵が、自分の軍服へ手を入れる。
取り出したのは、同じ形をした首飾りの半分。
二つを合わせると、寄り添う二頭の銀狼になった。
「ナディア……」
侯爵の声が、初めて大きく揺れた。
「母様が持っていたものです」
レティシアも覚えているらしい。
「何があったのか、すべて話してください」
「九年前、ナディア様は村の近くで倒れていました」
老女が語り始める。
「大きな怪我を負い、ご自分の名前も分からない状態でした。覚えていたのは、小さな娘がいるということだけ」
「記憶を失っていた?」
「はい。私たちはナディア様を、村の治療師としてお迎えしました。記憶が少しずつ戻り始めたのは、三年ほど前です」
「なぜ、戻ってこなかった」
侯爵が尋ねる。
「何度も手紙を出されました。けれど、一度も返事はありませんでした」
レティシアの顔が強張る。
「手紙……」
「白牙砦を通る商人へ預けたそうです」
「当時、砦の連絡監督をしていたのはガルムだ」
侯爵が、拘束された教官を見る。
「手紙を止めたのか?」
「記憶を失った女の戯言だと判断した」
ガルム教官は悪びれもしない。
「北部へ混乱を持ち込む必要はない」
「母様が生きていると、知っていたのか!」
レティシアが掴みかかろうとする。
俺は止めようと手を伸ばし――途中で止めた。
「レティシア。止めていいか?」
彼女は荒い息を繰り返し、やがて小さくうなずいた。
俺は、その肩を後ろから支えた。
「なぜ隠した!」
「兵器に母親は不要だ」
ガルム教官の頬を、侯爵が殴った。
「私は、妻を捜した」
侯爵の拳も震えている。
「襲撃現場には大量の血と、隣国側へ続く足跡があった。三年間捜索したが、見つからなかった」
「それで、死んだと?」
「ああ」
「遺体も見つかっていないのに、私には死んだと言い切った」
「帰るか分からない母親を待ち続けさせるより、忘れさせるべきだと思った」
「私は忘れていません!」
レティシアの叫びが避難所へ響く。
「夜になるたび、母様が戻る夢を見た! 私が弱かったから置いていかれたのだと思って、強くなろうとした!」
「……すまない」
「今は、その言葉を聞けません」
レティシアは父親から顔を背けた。
許せなくて当然だ。
心配したから嘘をついた。
強くするために苦しみを見なかった。
理由があっても、傷つけられた時間は消えない。
◇
「ナディア様は、なぜ連れ去られたのですか?」
ミレーヌが老女へ尋ねる。
「村を襲った魔獣について調べておられました」
「何か見つけたの?」
ヴィオレッタの問いに、老女がうなずく。
「魔獣の首に、白い百合が刻まれた首輪が付いていたそうです」
白百合が魔獣を操り、村を襲わせた。
避難民を白牙門へ追い込むために。
「ナディア様は、首輪を作っている場所を突き止めました」
「どこだ」
「灰氷谷の旧採掘場です。白い手袋の兵士たちも、ナディア様を連れてそちらへ向かいました」
灰氷谷は、王国と隣国の間にある中立地帯。
両国の軍隊が入れば、条約違反になる。
「正規軍は動かせない」
侯爵が苦しげに言った。
「ですが、外交調査団なら入れます」
ミレーヌが立ち上がる。
「魔獣被害の共同調査として申請します。エヴァレット家の権限で、少人数なら許可を得られます」
「時間がかかるのでは?」
「緊急条項を使えば、今日中に」
レティシアが剣を拾った。
「私は先に行く」
「一人では行かせないと言ったでしょう」
ヴィオレッタも立ち上がる。
「今度は母親を助けるんだろ?」
俺が尋ねると、レティシアは首飾りを握った。
「ああ。任務ではない」
その瞳には、もう命令を待つ色はなかった。
「娘として、母様を連れ戻す」
銀狼は初めて、自分自身の願いのために剣を取った。




