第六十五話 後継者ではなく娘として
吹雪が弱まったのは、翌朝だった。
黒薔薇と氷の避難所は、一晩中、四百人以上の命を守り抜いた。
捕らえた敵兵は二十三人。
避難民に死者はいない。
壊された昇降機の修理も始まり、身元を確認できた者から城内へ移されている。
「レティシア。治療を始めてもよろしいですか?」
ミレーヌが尋ねた。
避難所の壁にもたれていたレティシアは、少しだけ迷う。
「……頼む」
「はい」
ミレーヌの手が、傷だらけの腕へ触れる。
レティシアの身体は震えたが、拒まなかった。
「痛みますか?」
「痛い」
それも、以前なら決して口にしなかった言葉だ。
「では、ゆっくり治しますね」
「ああ」
二人を見ていると、隣のヴィオレッタが俺の脇腹をつついた。
「何を笑っているの?」
「別に」
「気味が悪いわ」
「お前、最近俺への扱いが雑じゃないか?」
「最初からよ」
◇
昼前、オスヴァルト侯爵が白牙砦へ到着した。
修復された昇降台で城壁の外へ降り、避難所と捕らえられた敵兵を確認する。
「よく門を守った、後継者」
「お父様」
レティシアは父親の前へ立った。
「私の名前は、レティシアです」
侯爵の眉が動く。
「何が言いたい」
「後継者でも、候補生でも、兵器でもない。まず、娘の名前を呼んでください」
ガルム教官が拘束されたまま、近くへ連れてこられた。
侯爵が教官を睨む。
「私は娘を鍛えろと命じた。殺人に加担させろとは命じていない」
「痛みを捨てさせろとは言った」
ガルム教官が笑う。
「情を持たぬ後継者にしろと。私は命令を果たしただけだ」
「嘘をつくな!」
「では、吹雪の中へ縛ったことを、一度でも尋ねたか?」
侯爵は答えなかった。
「食事を与えず、魔獣と戦わせたことは? 泣けば夜通し立たせたことは?」
「それは……」
「お父様は知ろうとしなかった」
レティシアの声は静かだった。
「私が強くなりさえすれば、何をされているかはどうでもよかったのでしょう?」
「北部を継ぐには、強さが必要だった」
「だから耐えるべきだったと、私も思っていました」
彼女は傷痕の残る手首を見せる。
「でも、生き残れたからといって、痛くなかったことにはならない」
俺が言った言葉。
今度はレティシアが、自分の言葉として父親へ告げた。
「私は、すぐにお父様を許せません」
「……ああ」
「学園へ戻ります。剣も捨てません。けれど、誰かの命令だけで振るうつもりもありません」
「それが、お前の望みか」
「まだ分かりません」
レティシアは正直に答えた。
「兵士ではない私が何を望むのか、これから探します」
侯爵は長い間、娘を見つめていた。
「分かった、レティシア」
初めて、名前を呼んだ。
「今まで知ろうとしなかったことを、今から尋ねてもいいだろうか」
「一度にすべては話せません」
「構わない」
「では……少しずつなら」
すぐに親子が元へ戻るわけではない。
それでも、命令ではない会話がようやく始まった。
◇
そのとき、一人の老女が兵士に支えられて近づいてきた。
避難民の代表だという。
「銀髪のお嬢さん」
老女はレティシアの顔を見つめ、目を潤ませた。
「あなたは、ナディア様の娘ではありませんか?」
レティシアだけでなく、侯爵まで動きを止めた。
「母をご存じなのですか?」
「ええ。ナディア様は、私たちの村で九年間暮らしておられました」
「母様は……生きているの?」
「三日前までは」
老女が震える声で答える。
「魔獣が村を襲った夜、白い手袋の兵士たちに連れ去られました」
九年前に死んだと聞かされていた母親。
その母親が、白百合の手によって再び消えた。
避難民を白牙門へ追いやった本当の目的は、まだ終わっていなかった。




