第五十五話 銀狼の偽物
事件のあと、レティシアは治療室へ運ばれた。
右腕は魔狼に噛まれた傷が開き、左腕にも新しい牙の痕が残っている。
「治療のため、腕に触れてもよろしいですか?」
治療師が尋ねた。
レティシアは一瞬だけ俺を見る。
「……許可する」
治療師の手が触れても、今度は払い除けなかった。
小さなことかもしれない。
それでも彼女が、自分の意思で誰かの手を受け入れた。
「子供から、詳しい話を聞けました」
グレイ先生が治療室へ入ってくる。
「レティシアの姿をした者が魔獣舎を訪れたのは、昨夜八時ごろ。その時間、本物のレティシアは治療師と一緒にいました」
治療師もうなずく。
「昨夜七時半から九時まで、私が治療していました」
「なら、レティシアが薬を打ったんじゃないって証明できるな」
「ええ。少なくとも本人ではありません」
グレイ先生は、子供が描いた絵を机に置いた。
銀色の髪。
軍服に似た制服。
そして、両手を覆う白い手袋。
「鏡写しの術かもしれません」
ミレーヌが絵を見つめる。
「知ってるのか?」
「外交官へ注意喚起されている、擬態魔法です。他人の血液や髪を使い、顔と声を一時的に写し取ります」
「そんな魔法があるなら、誰にでも化けられるじゃないか」
「完全ではありません。手に宿る家系固有の魔力までは再現できないため、手袋で隠す必要があります」
白い手袋。
交流会でミレーヌの鍵を預かった女も、同じものを着けていた。
「同一人物の可能性が高いわね」
ヴィオレッタが言う。
「姿を変えて鍵の型を取り、今度はレティシアへ化けた」
「でも、どうやってこいつの血を?」
答えた者はいなかった。
魔狼に噛まれたあと、レティシアの血は訓練場にも、包帯にも付いていた。
触れられた人間もいる。
「ガルム教官の手袋にも、血が付いてた」
俺が言うと、レティシアの身体が強張った。
「教官を疑うのか?」
「可能性の話だ」
「あの方が卑怯な擬態魔法を使うはずがない」
「どうして言い切れる?」
「教官は私を強くした!」
レティシアが治療台から立ち上がる。
「罰するなら正面から罰する。弱いと判断すれば、その場で切り捨てる方だ。偽物の顔など必要ない!」
「それ、信じる理由になってないだろ」
「お前に何が分かる!」
怒鳴った拍子に傷が痛んだのか、彼女が顔を歪める。
「落ち着きなさい。教官が犯人だと決まったわけではないわ」
ヴィオレッタが止める。
「けれど、最初から疑うなと決めるのも間違いよ」
レティシアは黙り込んだ。
「もう一つ、子供が聞いた言葉があります」
グレイ先生が証言書を読み上げる。
「偽物は魔狼へ薬を打ちながら、こう言ったそうです」
『痛みを捨てろ。銀狼は命令だけを聞けばいい』
レティシアの顔から血の気が引いた。
「知っている言葉なのか?」
「幼いころ、何度も教官から言われた」
俺に刃を向けたときよりも、彼女は怯えていた。
「でも、あの方だけが知る言葉ではない。北方軍の訓練兵なら――」
「本人へ確認しましょう」
ヴィオレッタが立ち上がる。
「証拠もなく疑い続けるより、話を聞く方がいいわ」
◇
俺たちは、演習本部にあるガルム教官の部屋へ向かった。
扉は開いたまま。
机も棚も空になっている。
「ガルム・ハーケン教官なら、演習終了直後に学園を出ました」
廊下にいた兵士が答えた。
「どこへ?」
「北部から緊急命令が届いた、とだけ」
レティシアが机の引き出しを開ける。
中に残されていたのは、血の付いた包帯だった。
彼女の右腕へ、最初に巻かれていたものだ。
その下には、白百合の水印が入った手紙。
『銀狼に心は不要』
『不要な繋がりを断ち、北部へ連れ戻せ』
レティシアの手が震える。
「教官が、私を……?」
彼女を育てた男は、答えを残さないまま学園から姿を消していた。




