第四十七話 笑わない銀狼
中央井戸が再開してから、三日。
市民寮の壊れた鍵は、すべて新しくなった。
浴室からは湯まで出る。
初めて湯気を見た寮生の一人が、「公爵家って神様なのか」と泣いていた。
「大げさね。必要な補修をしただけでしょう」
寮の前まで迎えに来たヴィオレッタが言う。
「その必要な補修を、今まで誰もしてくれなかったんだよ」
「なら、これからは不満があれば言いなさい」
「お前に?」
「私以外に、誰が聞くの?」
当たり前のように答える彼女を見て、少し笑ってしまった。
「何がおかしいの?」
「人に頼れなかったやつが、頼れって言ってるなと思って」
「……置いていくわよ」
◇
教室へ入ると、グレイ先生が一枚の名簿を掲げた。
「来週から、全学年合同の国境防衛演習が始まります」
「戦争の訓練ですか?」
俺の声が、思ったより大きく響いた。
「いいえ。魔獣や災害から住民を避難させる訓練です。戦闘より、救助と連携が評価されます」
少しだけ息を吐く。
「各班の指揮役は、軍事科の上位学生が担当します。アルトとヴィオレッタの班を率いるのは――」
教室の扉が開いた。
「紹介は不要です」
銀色の髪を短く切り揃えた少女が入ってきた。
青灰色の瞳。
軍服に似た制服は襟元を開き、両袖を肘までまくっている。だらしなく着崩しているというより、いつでも剣を抜けるよう動きやすさを優先していた。
入学式で見た七人のうち、軍服に似た制服を着崩していた少女だ。
腰には二本の剣。
背筋はまっすぐなのに、誰かに狙われているように周囲を警戒している。
「レティシア・ヴァルハルト。北方軍事科、一年」
教室が静まり返った。
「銀狼侯女……」
「訓練で上級生を十二人倒したという、あの方か」
「婚約を申し込んだ子爵令息の腕を折ったらしいぞ」
北部国境を守るヴァルハルト侯爵家の令嬢。
七人の悪女の一人。
未来の本、その第二章に記されていた少女だった。
『銀狼レティシアは国境の門を開き、敵軍を招き入れた』
『味方の兵士と避難民を斬り捨て、北方戦争を引き起こした』
処刑台へ連れていかれる銀髪の女の挿絵を、俺は覚えている。
「よりによって、あなたと同じ班とはね」
ヴィオレッタが冷たく言った。
「こちらの台詞だ、温室育ちの黒薔薇」
「井戸に毒を入れたという噂を信じていた方に、言われたくないわ」
「噂ではない。公爵家の管理責任を指摘しただけだ」
「同じでしょう」
「違う」
二人の視線がぶつかり、空気が凍る。
「お前たち、仲悪いのか?」
「見れば分かるでしょう!」
「見れば分かる」
そこだけは意見が合った。
◇
顔合わせのため、俺たちは訓練場へ移動した。
レティシアが避難経路を説明していたとき、獣の咆哮が響いた。
訓練用の檻から、白い魔狼が飛び出してくる。
魔狼は近くにいた男子生徒へ襲いかかった。
銀色の影が、俺の横を駆け抜ける。
レティシアだった。
抜いた剣で牙を受け止め、魔狼の身体を地面へ投げ飛ばす。
もう一本の剣を、その喉元へ突きつけた。
「殺す気だ……」
誰かが呟いた。
だが、レティシアは剣を刺さなかった。
「鎮静術式を! 早く!」
教師が魔法をかけるまで、自分の腕を噛ませたまま魔狼を押さえ続けた。
やがて魔狼が眠る。
レティシアは血まみれの腕を引き抜き、小さく囁いた。
「怖かったな。もう大丈夫だ」
その声を聞いたのは、近くにいた俺だけだった。
「治療室へ」
駆け寄った教師の手を、彼女は反射的に払い落とした。
「触るな」
「ですが、その傷は――」
「必要ない」
周囲の学生が後ずさる。
「助けようとした教師まで睨んだぞ」
「やはり獣と同じだ」
レティシアは血を流したまま、一人で訓練場を出ていこうとする。
「おい、待てよ」
俺が追いかけると、ざわめきが広がった。
「あの市民、今度は銀狼侯女に話しかけたぞ」
「相手が誰か分かっているのか?」
「怖いもの知らずにも程がある……」
レティシアが振り返る。
「何だ、市民」
「腕を見せろ。包帯を巻く」
「命令のつもりか?」
「頼んでるんだよ。血が出てると気になる」
「私は、お前より大きな魔獣を何頭も殺している」
「だから怪我しても平気なのか?」
「……近づくな」
一歩踏み出した瞬間、彼女の短剣が俺の喉元へ突きつけられた。
怖い。
足が震えた。
けれど、短剣を握る彼女の手は、それ以上に震えていた。
「怖くないのか?」
「怖いよ」
「なら、下がれ」
「でも、お前の方が怖そうな顔してる」
レティシアの瞳が揺れた。
未来の記録では、銀狼は血も涙もない女と呼ばれていた。
けれど俺の前にいたのは、誰かに触れられることを恐れる、傷だらけの少女だった。




