第四十六話 黒薔薇はもう一人ではない
東側と南側の井戸が再開してから、一週間が過ぎた。
旧エレオノーラ慈善院で回収された二つの魔法核は、その二か所の浄化装置に使われた。
しかし、三つの被害井戸のうち、中央井戸だけは封鎖されたままだった。
あの男の子が倒れた、最初の井戸。
毒物や壊された装置が重要な証拠だったため、王国捜査局の調査が終わるまで触れることを禁じられていたのだ。
さらに、盗まれた三つ目の魔法核も見つかっていない。
そして今日。
ようやく捜査が終わり、王都水道局から新しい魔法核が支給された。
中央井戸を囲む広場には、大勢の住民が集まっている。
「王国評議会の決定を発表します」
壇上で、グレイ先生が書状を読み上げた。
「西部兵器工廠の建設計画を正式に破棄する。また、第七街区にある七つの井戸は、公爵家単独ではなく、住民代表を含む水道管理組合によって運営するものとする」
広場に歓声が上がった。
今後、帳簿は住民にも公開される。
魔法鍵は三つに分け、一つは公爵家、一つは王都水道局、最後の一つは住民代表が管理する。
もう誰か一人の判断だけで、井戸を閉じたり、魔法核を持ち出したりすることはできない。
「ヴィオレッタ様」
住民代表の老人が、新しい魔法核を彼女へ差し出した。
「最後の井戸を、開いていただけますか」
以前なら、彼女と目を合わせることさえ恐れていた人だ。
ヴィオレッタは黒い手袋を外し、傷痕の残る左手で魔法核を受け取った。
「私一人では開けません」
住民たちの間に、不安が広がる。
「三つの鍵を、同時に使う必要があります。これからは、公爵家だけの井戸ではありませんから」
公爵家の鍵をヴィオレッタが。
水道局の鍵を職員が。
住民側の鍵を老人が握る。
三人が魔法核へ触れると、黒、青、緑の光が重なった。
新しい魔法核が浄化装置へ収まり、井戸の底から水音が響く。
次の瞬間、澄んだ水が噴き上がった。
「開いた!」
「中央井戸が戻ったぞ!」
子供たちが歓声を上げ、水場へ駆け寄る。
あのとき倒れた男の子もいた。
「ヴィオレッタお姉ちゃん!」
少年は彼女のもとへ走ると、黒い薔薇の形をした布飾りを差し出した。
「母ちゃんと作ったんだ。ありがとう!」
「私の名前を、覚えたの?」
「うん! 井戸を開けてくれた人だもん!」
悪女でも、黒薔薇公女でもない。
ただの、ヴィオレッタ。
彼女は布飾りを左手で受け取った。
「ありがとう。大切にするわ」
少年が笑い、再び井戸へ走っていく。
ヴィオレッタはその背中を、眩しそうに見送った。
◇
未来の本には、こう記されていた。
『黒薔薇公女は西部の井戸を奪い、その地に兵器工廠を築いた』
『抗議した市民を武力で鎮圧し、三千人を死なせた』
その事件が反乱を生み、王国と隣国の対立を深めた。
世界大戦へ続く、最初の道だった。
けれど、兵器工廠の建設は正式に中止された。
七つの井戸を守る仕組みもできた。
ヴィオレッタが市民を弾圧する未来は、もう始まらない。
「アルト?」
隣に来たヴィオレッタが、俺の顔を覗き込んだ。
「なぜ泣いているの?」
「泣いてない。井戸の水が飛んできただけだ」
「中央井戸から、ずいぶん離れているけれど」
「風が強かったんだよ」
「今日は無風よ」
「細かいな!」
彼女はそれ以上追及せず、俺と並んで井戸を見た。
「終わったのね」
「白百合のことは残ってる」
「ええ。でも、お母様の井戸は守れたわ」
ヴィオレッタは自分の左手を見つめる。
「私はあなたに救われた、と言うつもりはないわ」
「うん」
「そこは少しくらい否定しなさい」
「だって、自分で立ったのはお前だろ」
彼女は驚いたあと、穏やかに笑った。
「そうね。私は自分で立った」
その左手が、俺の手に重なる。
「でも、立ち上がるまで手を離さなかったのは、あなたよ」
彼女の指が、俺の指へ絡んだ。
「だから、これからも離さないで」
「分かった」
「簡単に答えるのね」
「難しく考えても、答えは変わらないからな」
ヴィオレッタは布飾りの黒薔薇を、俺の胸元へ結びつけた。
「それは、あなたが持っていて」
「もらったのはお前だろ?」
「私が大切にしたいものを、あなたに預けるの」
周囲には、セシリアも、リゼットも、ニールもいる。
父親と話すヴィオレッタの姿を、住民たちはもう恐れずに見ていた。
彼女を救ったのは、俺一人ではない。
そしてきっと、俺が救ったのでもない。
俺はただ、彼女が自分で扉を開くまで、孤独の中へ踏み込んだだけだ。
焼け焦げた本の第一章は、その日、未来ではなくなった。




