第四十五話 公爵家の晩餐
「違うわ! それは魚料理用よ!」
「どれも同じ銀の棒だろ!」
「フォークよ!」
晩餐まで、あと一時間。
俺は応接室の机に並べられた七本の銀器と戦っていた。
「外側から順番に使えばいいのです」
セシリアが優しく教えてくれる。
「料理を食べるたびに武器を変えるのか?」
「食事よ。戦争ではないわ」
ヴィオレッタが頭を抱えた。
「スープの皿は持ち上げない。パンを浸さない。肉を刺したまま齧らない」
「面倒だな、貴族って」
「公爵家の食卓で絶対に言わないでちょうだい」
◇
日が沈むころ、俺はローゼンベルク公爵邸へ到着した。
門から屋敷までが遠い。
玄関だけで、市民寮の食堂より広かった。
通されたのは、意外にも小さな食堂だった。
レオポルト公爵とヴィオレッタ、そして俺。
三人だけの食卓だ。
「来てくれたことに感謝する、アルト・レイン」
「いえ。こちらこそ、晩飯に呼んでもらって……ありがとうございます」
危ない。
今、『飯』と言いかけた。
ヴィオレッタの目が、言い直して正解だと告げている。
「堅くならなくていい」
「無理です」
「正直だな」
公爵が苦笑した。
料理が運ばれてくる。
俺は教わったとおり、一番外側のフォークを取った。
ヴィオレッタが小さくうなずく。
どうやら最初の罠は突破したらしい。
「まず、礼を言わせてほしい」
公爵が口を開いた。
「娘を救ってくれたこと。そして、ローゼンベルク家の罪を止めてくれたことに」
「俺一人でやったわけじゃありません」
「それでも、最初に娘を信じたのは君だ」
公爵の視線が、ヴィオレッタの左手へ向く。
今夜の彼女は、手袋をしていなかった。
「望む褒美があれば言ってほしい。金でも、将来の職でも構わない」
「じゃあ、市民寮の鍵を直してください」
「……鍵?」
「ほとんど壊れてるんです。俺みたいに何かを入れられたら、また同じことが起きます。それと、冬までに風呂の湯が出るようになると助かります」
ヴィオレッタが額を押さえる。
「自分のために何か頼みなさい」
「俺も市民寮に住んでるから、自分のためでもあるぞ」
「そういう意味ではないわ」
公爵は声を上げて笑った。
「分かった。学園へ補修費を寄付しよう」
「ありがとうございます!」
「ただし、もう一つ確認したい」
公爵の表情が真剣になる。
「君は、娘をどう思っている?」
口に入れた水が、変なところに入った。
「お、お父様!」
「学園では様々な噂が流れている。父親として聞いておく必要がある」
「噂はすべて誤解です!」
「ヴィオレッタではなく、彼に聞いている」
公爵とヴィオレッタが、同時に俺を見る。
逃げたい。
試験不正の審問より、ずっと怖い。
「好きか嫌いかなら、好きです」
ヴィオレッタが固まった。
「でも、恋とかはよく分かりません」
固まったまま、今度は眉が動いた。
答えを間違えたらしい。
「ただ、ヴィオレッタが一人で泣いてるのは嫌です。いなくなったら困るし、できれば隣で笑っててほしい」
「それは恋情ではないのか?」
「そうなんですか?」
「私に聞かれても困る」
公爵が初めて、父親らしい顔で困惑した。
「身分の違う娘の隣に立ち続ければ、今後も敵を作ることになる。それでも残る覚悟はあるか?」
「覚悟って言われても、まだ分かりません」
「では、離れるのか?」
「それは嫌です」
考えるより先に答えていた。
「怖くなったら、そのときヴィオレッタに言います。でも、怖いからって何も言わずに消えるのは、もっと嫌です」
食卓の下で、ヴィオレッタの指が俺の袖をつかんだ。
「そうか」
公爵はゆっくりとうなずく。
「ならば、今はそれでいい」
「お父様。勝手に話を進めないでください」
「嫌なのか?」
「嫌とは言っていません!」
今日一番大きな声だった。
◇
最後に、木苺のタルトが運ばれてきた。
「これは、エレオノーラが残した作り方で焼かせた」
公爵の言葉に、ヴィオレッタが目を見開く。
「なぜ、今日これを?」
「私は、娘の好きなものさえ知らなかった」
公爵は不器用に視線を伏せた。
「今から知ろうとすることを、許してくれるだろうか」
ヴィオレッタはすぐには答えなかった。
タルトを一口食べてから、静かに言う。
「一度の食事で、六年は埋まりません」
「ああ」
「だから……また食事に呼んでください」
公爵の目が、わずかに潤んだ。
「もちろんだ」
失った時間は戻らない。
それでも、止まっていた親子の時間は、もう一度動き始めた。
俺が嬉しくなってタルトを頬張ると、ヴィオレッタが小声で囁いた。
「アルト。デザート用のフォークは右隣よ」
「……最後まで罠があるのか」
「次の食事までに、また教えてあげるわ」
その約束があるなら、作法を覚えるのも悪くない気がした。




