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第三十五話 呼び名よりも

 翌朝、校舎の壁に何十枚もの紙が貼られていた。


『黒薔薇公女の自作自演』


『井戸を壊し、自ら直して民衆の支持を得た』


『公爵家の罪を、叔父一人に押しつけた悪女』


「なんだよ、これ……!」


 俺が紙を剥がす横で、ヴィオレッタは静かに立っていた。


 廊下を通る学生たちは、見て見ぬふりをする。中には紙の内容を信じて、ひそひそ話す者もいた。


「全部剥がして、書いたやつを捜そう」


「放っておきなさい」


「でも、嘘だろ!」


「嘘を一つ消しても、私を嫌いたい人間は次の嘘を作るわ」


 彼女の声は冷静だった。


 けれど、机の下で握られた左手は震えている。


「平気なふりするなよ」


「……していないわ」


「してる」


 俺が最後の一枚を剥がすと、ヴィオレッタは小さく息を吐いた。


「以前なら、書いた者を全員退学にしていたでしょうね」


「今はしないのか?」


「ええ。そんなことをすれば、噂が事実に変わるもの」


「じゃあ、我慢するのか?」


「違うわ」


 ヴィオレッタは紙を俺から受け取った。


「井戸を守り続ける。帳簿を公開する。住民の声を聞く。噂より長く、正しいことを続けるのよ」


 強い答えだった。


 だが、その目は少しだけ寂しそうだった。


     ◇


 放課後、ヴィオレッタに連れてこられたのは、校舎裏の温室おんしつだった。


 黒い薔薇が咲く小さな机に、二人分の紅茶と木苺きいちごのタルトが並んでいる。


「報告書完成の慰労いろうよ」


「先生に誤字を十四個も見つけられたのに?」


「だから慰めてあげるの」


「それなら、肉がよかった」


「帰っていいわよ」


「嘘です。タルト大好きです」


 向かいに座ると、彼女は呆れながら紅茶を注いだ。


 その左手に、黒い手袋はなかった。


「今日は隠さないんだな」


「あなたしかいないもの」


 ヴィオレッタは傷痕きずあとの残る指で、カップを持ち上げた。


 しばらく、温室には食器の触れ合う音だけが響いた。


「アルト」


「ん?」


「どうして、私を信じたの?」


「証拠があったからだろ」


「証拠を見つける前の話よ」


 彼女の紫色の瞳が、まっすぐ俺を見る。


「皆が私を疑った。父も、住民も、学園の生徒たちも。けれど、あなたは最初から私が井戸を壊していないと思っていた」


「最初からじゃないぞ。怖いやつだとは思った」


「……そう」


「睨むなよ。今もたまに怖い」


 テーブルの下で、靴を蹴られた。


 少し考えてから、俺は答えた。


「子供が倒れたとき、お前は服が汚れるのも気にせず抱きかかえただろ」


「それは当然よ」


「石を投げられたときも、衛兵に剣を抜くなって命令した」


「住民を傷つければ、騒ぎが大きくなるから――」


「そういう言い訳ばっかりだな」


「言い訳?」


「ああ。誰かを助けるたびに、別の理由をつける」


 ヴィオレッタが言葉を失う。


「悪いやつは、そんな顔しねえよ」


「……どんな顔?」


「自分が傷つくより、誰かが傷つく方を怖がってる顔」


 彼女の指が、カップの持ち手から離れた。


「今朝の紙を見ても、そう思う?」


「紙に何を書かれても、お前がやったことは変わらないだろ」


「私が、悪女と呼ばれていても?」


「呼び名なんてどうでもいい」


 俺はタルトの最後の一口を飲み込んだ。


「俺はヴィオレッタを見てる。それじゃ駄目か?」


 彼女はうつむいた。


 長い黒髪の間から見える耳が、真っ赤になっている。


「……駄目ではないわ」


 小さな声だった。


「なら、明日も私を見ていなさい」


「明日だけ?」


「明後日も。その次の日も」


「ずっとってことか?」


「そこまで言っていないわ!」


 また蹴られた。さっきより強かった。


 けれど、顔を上げた彼女は笑っていた。


 焼け焦げた本に記されていた、黒薔薇公女の最初の罪。


『民の井戸を奪い、戦争のための工廠こうしょうを築いた』


 その未来は、もう始まらない。


 俺には確かめる方法なんてない。


 それでも今、目の前で笑う彼女だけは――あの本に書かれた孤独な女とは、もう違っていた。

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