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第二話 黒薔薇の少女

「遅い!」


 寮を飛び出した瞬間、茶色い髪の少年に怒鳴られた。


「悪い。それと……お前、誰だ?」


「そこから!? 同室のニールだよ! 三日前から一緒に暮らしてるだろ!」


「そうだったのか」


「寝ぼけすぎだ!」


 ニールは呆れながら走り出した。


 俺もその背中を追う。


 市民枠の寮は、学園の敷地内でも最も端に建てられていた。石壁はひび割れ、庭には雑草が伸びている。戦後の避難所よりはましだが、遠くに見える貴族寮とは別世界だった。


 あちらには噴水まである。


「同じ学生なのに、ずいぶん違うな」


「当たり前だろ。俺たちは市民枠だぞ」


「学生は学生じゃないのか?」


「お前、それを貴族の前で言うなよ」


 ニールの顔が青くなる。


 どうやら俺が思っている以上に、市民枠の立場は弱いらしい。


 とはいえ、砲弾が飛んでこないだけで十分だった。


 俺たちは坂道を駆け上がり、王立アステリア学園の正門へ向かった。


 白亜の校舎を囲むように、いくつもの尖塔が並んでいる。正門だけでも、市民街にある家が丸ごと入りそうな大きさだった。


 門前には、豪華な馬車が列を作っていた。


 降りてくる生徒たちの制服には、金や銀の刺繍が施されている。俺たちの灰色一色の制服とは、生地からして違っていた。


「市民枠って、本当に導入されたのね」


「王家も何を考えているのかしら」


「せめて正門は分けてほしいものだ」


 聞こえるように言っている。


 ニールはうつむいたが、俺はそのまま歩き続けた。


「お、おい。少しは気にしろよ」


「殴られるわけじゃないんだろ?」


「言い返したら殴られるかもしれない!」


「じゃあ、言い返さなければいい」


「お前、鈍いのか強いのか分からないな……」


 そのとき、正門前の空気が変わった。


 貴族たちの馬車が、一斉に道を譲り始めたのだ。


 近づいてきたのは、漆黒の車体に黒い薔薇の紋章を刻んだ馬車だった。


「まずい。端に寄れ、アルト」


「どうしてだ?」


「あの紋章を知らないのか? ローゼンベルク公爵家だ」


 御者が馬車を止め、従者が扉を開く。


 最初に見えたのは、黒い靴だった。


 続いて、深い紫色の髪を持つ少女が降りてくる。


 同じ十五歳とは思えないほど整った顔立ちをしていた。背筋を真っすぐ伸ばし、銀色の瞳で周囲を見渡している。


 誰も彼女に話しかけない。


 それどころか、目が合わないように顔を伏せていた。


「《黒薔薇公女》だ」


「本当に入学されたのか……」


「幼い頃、気に入らない侍女の顔を鞭で打ったそうよ」


「婚約候補だった子息を、決闘で半殺しにしたとも聞いたぞ」


 小声で交わされる噂を、少女が聞いていないはずはなかった。


 それでも彼女は、何も感じていないような顔で歩いていく。


 その足元に、何かが落ちた。


 黒い手袋だった。


 風に飛ばされ、馬車の車輪の下へ入りそうになる。


 俺は反射的に駆け出し、車輪に踏まれる直前で拾い上げた。


「おい、落としたぞ!」


 少女の足が止まった。


 周囲から、息を呑む音が聞こえる。


「今、あの市民が公女様を呼び止めたのか?」


「相手が誰か分かっているのか?」


「身の程を知らないにも程があるぞ……」


 ニールが後ろで頭を抱えていた。


 少女がゆっくりと振り返る。


 冷たい銀色の瞳が、真っすぐに俺を捉えた。


「あなた」


「なんだ?」


「わたくしが誰か、知らないのですか?」


「知らない。でも、これ、お前のだろ?」


 手袋を差し出すと、少女はすぐには受け取らなかった。


「拾った礼に、何を望みますの?」


「別に何も」


「……何も?」


「落とし物を返すだけだろ」


 少女の瞳が、わずかに揺れた。


 やがて彼女は手袋を受け取り、俺に背を向ける。


「わたくしは、ヴィオレッタ・ローゼンベルクです」


 その名前を聞いた瞬間、背筋が凍った。


 忘れるはずがない。


 焼け焦げた本の第一章に、その名は記されていた。


 世界を戦争へ導いたとされる、七人の悪女。


 ヴィオレッタは、その最初の一人だった。

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