第十六話 笑顔の財務局長
「グレゴール叔父様……なぜ、こちらへ?」
「姪が公爵家の命令に逆らったと聞いてね。心配になって来たんだよ」
グレゴールは穏やかに笑っていた。
怒鳴りもせず、住民たちへも丁寧に頭を下げる。
「皆さん、不安を与えてしまい申し訳ない。今回の移動は、皆さんの安全を守るためのものです」
「安全を守るため?」
住民の一人が聞き返す。
「井戸から毒が見つかった以上、街全体が汚染されている可能性があります。財務局としては、一刻も早く皆さんを安全な場所へ移したいのです」
「では、なぜ三日も待たず、今日から退去を始めようとしたのです?」
ヴィオレッタが問い詰める。
「危険な場所へ住民を残す方が、無責任ではないかね?」
「王国評議会は、事実確認が終わるまで執行を停止するよう命じています」
「もちろん、その命令には従うよ」
グレゴールの笑顔は崩れない。
「ただし三日後、街の危険性が認められれば、移動は予定どおり行われる。君がしたことは、問題を三日先へ延ばしただけだ」
住民たちの間に、再び不安が広がった。
「井戸の修理が終われば、移動の必要はありません」
「修理できれば、の話だね」
「できます」
「その根拠は?」
ヴィオレッタが言葉に詰まる。
グレゴールは悲しそうに首を振った。
「ヴィオレッタ。民を助けたいという気持ちは立派だ。だが、感情だけで国の仕事を動かしてはならない」
「わたくしは、感情だけで動いているのではありません」
「では、財務局による調査結果が間違っていると証明できるのかね?」
「その調査結果を見せてください」
「機密情報だ。学生に見せることはできない」
「住民の生活に関わる情報を、なぜ隠すのです?」
グレゴールの目が、わずかに細くなった。
「言葉に気をつけなさい。まるで私が、何か不正をしているようではないか」
「叔父様が潔白なら、記録を公開できるはずです」
「それは公爵家当主が判断することだ。君ではない」
笑顔のままなのに、空気が冷たくなった。
「それに、壊された浄化装置についても疑問がある」
グレゴールが住民たちへ聞こえる声で続ける。
「封印を開けられる鍵は、二つだけ。一つは私が保管している。そして、もう一つは――」
グレゴールの視線が、ヴィオレッタの黒い手袋へ向けられた。
「亡きエレオノーラ義姉さんから、ヴィオレッタへ受け継がれた」
「何が言いたいのです?」
「君にも、装置を壊すことは可能だったということだよ」
住民たちがざわつく。
「公女様が、自分で毒を……?」
「それを自分で見つけたことにしたのか?」
「違います!」
セシリアが声を上げた。
グレゴールは、今気づいたように彼女を見た。
「これはセシリア嬢。七聖女のお一人が、なぜこのような場所に?」
「学園の調査です。ヴィオレッタ様は、毒があることを知らずに井戸を訪れました」
「君はその場にいたのかね?」
「それは……」
「いなかったのであれば、事実とは言い切れない」
セシリアは悔しそうに唇を結んだ。
「俺はいた」
グレゴールの前へ出る。
「ヴィオレッタは、倒れた子供を助けた。毒を見つけて、水を用意しようとした。井戸を壊した本人じゃない」
「君は?」
「アルト・レイン。ヴィオレッタの相棒だ」
「なるほど。君が、変更申請への署名を拒んだ市民か」
「俺のことを知ってるのか?」
「かわいい姪に近づく者について、調べるのは当然だろう?」
グレゴールは俺の額の傷を見る。
「勇敢なのだね。だが、勇気と無謀を間違えれば、家族まで不幸にすることになる」
「家族はいない」
「それは失礼した。ならば、失うものは学園での立場だけか」
俺を心配しているような口調だった。
けれど、言っていることは脅しだった。
「叔父様。アルトへ手を出せば、わたくしが許しません」
ヴィオレッタが俺の前へ立つ。
グレゴールの笑顔が、初めて消えた。
「その市民を守るために、家へ逆らうのか?」
「彼は学園の正式な学生です。公爵家が不当に傷つけていい相手ではありません」
「……屋敷へ戻りなさい。兄上から、謹慎を命じられている」
「わたくしには、学園の課題が残っています」
「従わなければ、その学園にも通えなくなるよ」
ヴィオレッタの顔が青ざめる。
それでも彼女は俺たちへ振り返り、小さな声で言った。
「アルト。契約書は先生へ預けてください」
「ヴィオレッタ?」
「わたくしは屋敷の中を調べます。あなたたちは、外から財務局の記録を調べて」
震えていた銀色の瞳に、もう迷いはなかった。
「三日以内に、必ず証拠を見つけます」




