第十五話 黒薔薇公女の命令
グレイ先生は、契約書を確認するとすぐに動いてくれた。
学園長の許可を取り、原本と同じ内容であることを証明する認証写しを作る。
さらにセシリアの署名を加え、王国評議会へ緊急の異議申し立てを送った。
返事が届いたのは、日が沈み始めた頃だった。
『西部市民区に対する強制退去について、事実確認が終わるまで三日間の執行停止を命じる』
「三日だけか?」
「今は、それで十分です」
ヴィオレッタは評議会の印が押された書面を握った。
「この三日で井戸を直し、毒を入れた者を見つけます」
「住民の水はどうするんだ?」
「すでに手配しました」
「公爵家からの命令は取り消されたんだろ?」
「わたくし個人の名で買いました」
ヴィオレッタは、当然のように答えた。
「代金は?」
「わたくしの装飾品を売れば足ります」
「それ、家の人に怒られないか?」
「今さら一つや二つ、怒られる理由が増えても変わりません」
そう言って歩き出す。
強がっているのは分かったが、止めても聞かないことも分かってきた。
◇
西部市民区へ着くと、街の入口に武装した男たちが集まっていた。
公爵家財務局の腕章をつけている。
住民の家には、赤い印が次々と描かれていた。
「この印は何だ?」
「退去を確認した建物につける印だ」
役人の一人が答えた。
「まだ誰も出ていってないぞ」
「明日の朝から移動を始める。従わない者は強制的に連れ出す」
「三日以内って書いてあっただろ!」
「予定が早まった」
「その執行を停止しなさい!」
ヴィオレッタの声が街に響いた。
役人たちが一斉に振り返る。
「これは公女様。お父上から、屋敷へ戻るよう命じられているはずですが」
「今は西部市民区の調査が優先です」
「我々は財務局長の命令に従っております。いくら公女様でも――」
ヴィオレッタは、評議会から届いた書面を突きつけた。
「王国評議会による執行停止命令です」
役人の顔色が変わった。
「本日から三日間、住民へ退去を求めることは認められません。家につけた印も、全て消しなさい」
「しかし、財務局長の許可がなければ――」
「王国評議会と財務局長。どちらの命令が上か、あなたには説明が必要ですか?」
「……いいえ」
「では、直ちに作業を中止しなさい」
役人たちは不満そうにしながら、武器を収めた。
住民たちは、驚いた顔でヴィオレッタを見ている。
「黒薔薇公女が、退去を止めた……?」
「どういうことだ?」
「俺たちを追い出したいんじゃなかったのか?」
戸惑いの声が広がる。
ヴィオレッタは住民たちの前へ進んだ。
「皆さんへ、お伝えします」
周囲が静まり返った。
「井戸から毒が見つかったことは事実です。しかし、その責任が皆さんにあるとは考えていません」
何十人もの視線が集まっている。
ヴィオレッタの左手が、わずかに震え始めた。
俺はその隣へ立った。
「アルト?」
「一人で平気なんだろ?」
「当然です」
「じゃあ、俺が隣にいても問題ないな」
「……好きになさい」
震えが少しだけ止まった。
「井戸を直し、安全な水を取り戻すまで、皆さんをこの街から追い出させません」
一人の男性が声を上げた。
「信じられるか! 公爵家が出した命令じゃないか!」
「その命令が間違っているから、わたくしは止めました」
「自分の家に逆らうっていうのか?」
「必要であれば」
迷いのない答えだった。
「ローゼンベルク家の役目は、民を苦しめることではありません。守ることです」
街の入口から、荷車の音が聞こえてきた。
大量の水を積んだ荷車が、何台もこちらへ向かってくる。
「安全な水は、各家庭へ無償で配ります。受け取るための条件も、後から代金を求めることもありません」
住民たちの表情が、少しずつ変わっていく。
先日倒れた男の子が、人混みの中から走ってきた。
「お姉ちゃん!」
その手には、小さな林檎が握られている。
「これ、あげる」
「わたくしに?」
「お水を持ってきてくれたお礼!」
ヴィオレッタは戸惑いながら、林檎を受け取った。
「……ありがとうございます」
初めて住民から向けられた笑顔に、彼女もかすかに笑った。
その直後だった。
黒薔薇の紋章を刻んだ馬車が、街の入口で止まる。
「ずいぶん勝手なことをしてくれたね、ヴィオレッタ」
馬車から降りてきたのは、細身の中年男性だった。
ヴィオレッタの表情が凍りつく。
「グレゴール叔父様……」
公爵家財務局長。
もう一つの封印鍵を持つ男が、笑顔でこちらを見ていた。




