第十二話 署名はしない
「先生。この申請書、俺が断ることはできますか?」
俺は相棒の変更申請書を持ち上げた。
「制度上は可能だ」
グレイ先生が答える。
「身分交流制度は王命によって始められたものだ。保護者の都合だけで相棒を替えることはできん。お前とヴィオレッタ、双方の署名が必要になる」
「なら、俺は署名しません」
教室がざわついた。
「公爵家の決定に逆らうつもりか?」
「たかが市民一人に、何ができるんだ」
そんな声が聞こえてくる。
先生は気にした様子もなく、俺を見た。
「理由を聞こう」
「まだ、あいつのことを五つも知ってないからです」
「それだけか?」
「市民区の調査も終わってません。それに――」
俺は空っぽの隣席を見る。
「本人が替わりたいって、一度も聞いてません」
「分かった。お前の意思は受理する」
先生が変更申請書を受け取ろうとした、そのときだった。
教室の扉が開く。
「その必要はありません」
入ってきたのは、ヴィオレッタだった。
昨日と同じ制服を着ている。
けれど顔色が悪く、銀色の瞳からも力が失われていた。
「本日は欠席と聞いていたが?」
「予定が変わりました」
ヴィオレッタは教壇まで歩き、先生へ一礼する。
「相棒の変更は、わたくし自身も希望しています」
胸の奥が重くなった。
先生はヴィオレッタを見つめたあと、申請書を彼女へ差し出した。
「ならば、アルト本人を納得させろ」
「承知しました」
ヴィオレッタは申請書を持って俺の前まで来た。
「署名なさい」
「嫌だ」
「これはお願いではありません」
「だったら、もっと嫌だ」
「あなたは……!」
ヴィオレッタが声を荒らげかけ、周囲の視線に気づいて口を閉じる。
「先生。廊下で話してもよろしいでしょうか」
「五分だけ認める」
◇
教室を出ると、ヴィオレッタは申請書を俺の胸へ押しつけた。
「今すぐ署名してください」
「水が届いてなかった」
ヴィオレッタの手が止まる。
「公爵家からの水は来なかった。代わりに、三日以内に街から出ていけって命令が張られてた」
「……そうですか」
「知ってたのか?」
「ええ」
「何で黙ってるんだよ」
「公爵家が決めたことだからです」
「お前が決めたことじゃないだろ」
「同じです。わたくしはローゼンベルク家の人間なのですから」
ヴィオレッタは俺を見ない。
「井戸の閉鎖も、住民の移動も、全て公爵家の判断です。わたくしも正しいと考えています」
「嘘だ」
ヴィオレッタが顔を上げた。
「なぜ、そう言い切れるのです?」
「昨日のお前は、あの街の人たちを守ろうとしてた」
「あなたの前で、そう見せただけかもしれません」
「子供が倒れたとき、真っ先に走ったのも?」
「住民の信用を得るためです」
「そのあとで水を送らなかったら、信用なんかなくなるだろ」
「それは……」
ヴィオレッタが言葉に詰まる。
「俺は頭がよくない。でも、それくらいは分かる」
「あなたは、わたくしと出会って二日しかたっていないでしょう」
「ああ」
「わたくしが何を考えているのかも、どんな人間なのかも知らない」
「だから、これから知るんだろ」
ヴィオレッタの唇が震えた。
「知って、どうするのです?」
「困ってたら助ける」
「公爵家を敵に回しても?」
「それは怖い」
「でしたら、関わらないでください!」
「怖いけど、放っておく方が気分悪い」
考えて出した言葉ではなかった。
ただ、本当にそう思った。
ヴィオレッタは何も言わず、俺を見つめている。
「どうして……」
かすかな声が漏れた。
「どうして、そこまでわたくしに関わろうとするのですか」
「一人で平気な顔してるけど、全然平気じゃないだろ」
ヴィオレッタが息を呑む。
俺は申請書を裏返し、空いている場所に文字を書いた。
『相棒の変更を希望しない』
その下に自分の名前を署名する。
「これが俺の答えだ」
「取り消しなさい」
「嫌だ」
「後悔しますわよ」
「逃げたあとで後悔するよりましだ」
ヴィオレッタは申請書を握りしめた。
怒って破るのかと思った。
けれど彼女は、うつむいたまま動かなかった。
床へ一粒だけ、透明な雫が落ちた。
「……本当に、馬鹿な人」
その声は、泣いているように震えていた。




