第十一話 届かなかった水
放課後になると、ヴィオレッタは迎えに来た従者とともに教室を出ていった。
俺の方を一度も見なかった。
「追いかけるなよ」
ニールが隣から釘を刺してくる。
「何も言ってないぞ」
「今にも窓から飛び出しそうな顔をしてる」
「普通に扉から出る」
「行くことは否定しないのかよ!」
ヴィオレッタから、公爵家には近づくなと言われた。
だから屋敷へ行くつもりはない。
その代わり、俺は西部市民区へ向かうことにした。
「調査の続きが残ってるからな」
「一人で行く気か?」
「ああ」
「絶対に何か起こすだろ。俺も行く」
「来てくれるのか?」
「お前を一人で行かせる方が怖いんだよ!」
ニールと二人で学園を出た。
◇
西部市民区へ入ると、昨日よりも街が静かだった。
共同井戸は木の板で塞がれ、周囲には水を求める住民たちが集まっている。
だが、公爵家から届くはずだった水は、どこにも見当たらない。
「水が来てないのか?」
街の代表を務める老人に尋ねる。
「今朝、公爵家の使いが来ました」
「だったら、もうすぐ届くんじゃないのか?」
「いえ……公女様による備蓄水の提供命令は、正式な許可を得ていないとして撤回されたそうです」
「そんな……」
ヴィオレッタは、代金を取らずに水を運ばせると約束した。
約束を破るようなやつには見えなかった。
「代わりに、これが張り出されました」
老人が、井戸のそばにある掲示板を指した。
そこには黒薔薇の紋章が押された書面がある。
『西部市民区の全井戸を、安全が確認されるまで閉鎖する』
そこまでは分かる。
問題は、その下に書かれている内容だった。
『住民は三日以内に指定された仮設居住区へ移動すること。従わない場合は、強制退去の対象とする』
「三日で出ていけってことか?」
「私たちが街を離れたあと、建物を全て取り壊すそうです」
「戻ってこられるんだろ?」
「それについては、何も……」
老人が力なく首を振る。
住民たちは不安そうに書面を見ていた。
「やっぱり、最初から俺たちを追い出すつもりだったんだ」
「公女様が井戸を閉じた直後に、これだぞ」
「毒を見つけたという話も、本当なのか?」
ヴィオレッタへの疑いが、昨日よりも強くなっている。
あいつが助けた男の子も、母親と一緒に井戸の近くにいた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「どうした?」
「黒薔薇のお姉ちゃん、嘘をついたの?」
男の子の問いに、俺は首を横に振った。
「ヴィオレッタは嘘をついてない」
「でも、お水が来ないよ」
「約束を邪魔したやつがいるんだ。あいつのせいじゃない」
そう答えたものの、それを証明する方法は分からない。
「アルト、こっちを見ろ」
ニールが、掲示板の隅を指した。
書面の発行者は、ローゼンベルク公爵家財務局となっている。
「井戸の管理費を扱っているのも、公爵家の財務局じゃなかったか?」
「ああ。昨日の老人がそう言ってた」
「じゃあ、井戸を修理せずに金を集めていたところと、この強制退去を命じたところは同じだ」
「どういうことだ?」
「俺にも分からない。でも、偶然とは思えない」
ニールの顔が険しくなる。
住民を追い出したい誰かが、井戸を壊した。
ヴィオレッタが毒に気づいたため、予定より早く井戸を閉じることになった。
そして今、彼女が出した水の提供命令まで取り消された。
「ヴィオレッタは、これを知ってるのか?」
「知っていたら、黙って帰るとは思えないな」
俺も同じ考えだった。
あいつは、公爵家の人間だからこそ市民の暮らしを知る必要があると言った。
民を守ることが自分の役目だと、本気で信じていた。
◇
翌朝。
教室へ入ると、隣の席は空いていた。
机の上には、一枚の書類が置かれている。
『身分交流制度における相棒の変更申請書』
申請者の欄には、ローゼンベルク公爵家当主の名前が記されていた。
「ヴィオレッタは?」
先生へ尋ねる。
「本日は欠席すると連絡があった」
「いつ戻ってくるんですか?」
「分からん」
机の横には、彼女の鞄もない。
昨日まで使っていた本も、筆記具も、全て消えていた。
まるで最初から、この教室にいなかったように。
けれど俺の机には、ヴィオレッタが額の傷へ当ててくれた白い布が残っていた。
「勝手にいなくなるなよ……」
俺は変更申請書を握りしめた。




