第十話 公爵家からの呼び出し
翌朝、教室へ入った瞬間、全員の視線が俺の額に集まった。
「本当に怪我をしているぞ」
「黒薔薇公女が、市民区の井戸を封鎖したらしい」
「毒まで見つかったそうよ」
「やっぱり、公爵家が市民を追い出そうとしているんじゃないの?」
一日もたっていないのに、噂が広がっている。
「違うぞ。ヴィオレッタが毒を見つけたから、井戸を閉じたんだ」
思わず言い返した。
だが、生徒たちは気まずそうに目をそらすだけだった。
「アルト、無駄だ」
ニールが自分の席から小声で言う。
「みんな、自分が信じたい話しか聞かない」
「間違ってるのに?」
「間違ってるかどうかは、どうでもいいんだよ」
俺には、その考え方が理解できなかった。
隣の席には、すでにヴィオレッタが座っていた。
周囲の声など聞こえていないような顔で、本を読んでいる。
「何で黙ってるんだ?」
「何のお話です?」
「井戸に毒を入れたって疑われてるぞ」
「聞こえています」
「だったら違うって言えよ」
ヴィオレッタは本から目を上げた。
「わたくしが否定すれば、彼らは信じるのですか?」
「言わないよりはいいだろ」
「証拠もなく無実を訴えても、弁明だと思われるだけです」
「でも、腹が立たないのか?」
「慣れていますので」
何でもないことのように答え、再び本へ目を落とす。
慣れている。
その一言が、妙に胸に引っかかった。
「アルトさん!」
セシリアが心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「その怪我、どうされたのですか?」
「昨日、市民区で石を投げられた」
「石を?」
「ヴィオレッタをかばったら、当たった」
セシリアが驚いたように、ヴィオレッタを見る。
「公女様は、お怪我をされていませんか?」
「見てのとおりです」
「井戸の調査へ行かれたと聞きました。毒が見つかったというのは、本当なのですか?」
「ええ」
「では、あの浄化装置が……」
セシリアの表情が曇った。
「あの井戸について、何か知ってるのか?」
俺が尋ねると、セシリアは迷いながら口を開いた。
「西部市民区の井戸は、エレオノーラ様が始められた慈善事業によって造られたものです」
「エレオノーラ?」
「ヴィオレッタ様のお母様です」
ヴィオレッタが本を閉じた。
乾いた音が教室に響く。
「セシリア」
「はい」
「母の名を、軽々しく口にしないでください」
「ですが、アルトさんも調査を――」
「あなたには関係のないことです」
セシリアの顔から笑顔が消えた。
「……申し訳ありません」
まただ。
周囲の生徒たちが、ヴィオレッタを責めるような目で見ている。
けれど俺は、机の下で握られた彼女の左手を見ていた。
黒い手袋が、かすかに震えている。
「その手袋、母親の物なのか?」
ヴィオレッタが勢いよく俺を見た。
「なぜ、そう思うのです?」
「母親の話が出てから、ずっと握ってるから」
「……あなたは、本当に余計なところばかり見ていますわね」
否定はしなかった。
教室の扉が開き、学園の職員が入ってきた。
「ヴィオレッタ・ローゼンベルク様。ご実家から書状が届いております」
差し出された封筒には、黒い薔薇の封蝋が押されていた。
ヴィオレッタは受け取ると、すぐに中を確認する。
その顔から、わずかに血の気が引いた。
「何て書いてあるんだ?」
「あなたには関係ありません」
「またそれか」
ヴィオレッタは書状を折り畳み、鞄へ入れた。
「西部市民区の調査から、わたくしは外れます」
「どうしてだよ」
「父が、昨日の件について説明を求めています。本日の授業が終わり次第、帰邸するようにと」
「説明すればいいだろ。井戸の毒を見つけたって」
「それで済む方なら、わたくしも苦労はしていません」
声は小さかった。
だが、確かにそう聞こえた。
「じゃあ、俺も一緒に行く」
「なぜそうなるのです!」
「俺も現場にいた。説明できる」
「市民であるあなたが、公爵家へ乗り込んで何を説明するというのですか?」
「見たことを、そのまま話す」
「絶対に来てはなりません」
ヴィオレッタが、これまでにないほど強い声で言った。
怒っているのではない。
その銀色の瞳には、はっきりと恐れが浮かんでいた。
「公爵家へ近づけば、次は額の怪我程度では済みません」
それは拒絶ではなかった。
俺を危険から遠ざけようとする言葉だった。




