第九話 黒薔薇の紋章
「公爵家が毒を入れたんじゃないのか?」
誰かが発した言葉に、住民たちが騒ぎ始めた。
「この辺りを立ち退かせるために、水を使えなくしたって噂があるぞ!」
「その女の家なら、やりかねない!」
ヴィオレッタは、黒薔薇の紋章が刻まれた魔石を見つめていた。
「この紋章は、浄化装置がローゼンベルク家から提供されたことを示すものです」
「だったら、やっぱり公爵家の仕業じゃないか!」
「そうとは限りません」
ヴィオレッタが住民たちへ向き直る。
「壊した者を調べます。それまでは、わたくしの責任で安全な水を――」
「偉そうにするな!」
人混みの中から、小さな石が投げられた。
考えるより先に体が動いた。
俺はヴィオレッタの前へ飛び出す。
「アルト!」
石が額に当たり、鈍い痛みが走った。
「痛っ……」
「何をしていますの!」
「飛んできたから」
「だからといって、なぜわたくしの前に出るのです!」
「お前に当たるだろ」
護衛たちが剣へ手をかける。
住民たちの間から悲鳴が上がった。
「剣を抜いてはなりません!」
ヴィオレッタの命令で、護衛の動きが止まった。
「しかし、公女様に危害を加えた者が!」
「彼らは突然、生活に必要な水を失ったのです。不安になっているだけでしょう」
「ですが――」
「剣を収めなさい。これは命令です」
護衛たちは不満そうにしながらも、剣から手を離した。
俺は額を押さえながら、住民たちを見る。
「難しいことは俺にも分からない。でも、この井戸で子供が倒れたとき、一番に助けたのはヴィオレッタだ」
誰も答えない。
「毒を入れた本人なら、わざわざ井戸を閉じたり、自分の家から水を運ばせたりしないだろ」
「アルト、もう結構です」
「よくない。何もしてないのに、疑われてるじゃないか」
「それを決めるのは、調査が終わってからです」
ヴィオレッタは自分の無実を叫ばなかった。
言葉だけでは、住民たちの不安を消せないと分かっているのだ。
遠くから、医師を呼びに行った男性が戻ってきた。
医師は男の子の胸へ手を当て、治癒魔法の光を流し込む。
「幸い、飲んだ量が少なかった。すぐに処置すれば助かる」
母親が泣きながら、男の子の手を握る。
しばらくすると、男の子がゆっくりと目を開いた。
「お母さん……」
「よかった……本当によかった……!」
男の子は周囲を見回し、ヴィオレッタを見つけた。
「お姉ちゃんが、助けてくれたの?」
ヴィオレッタが言葉に詰まる。
「……わたくしは、倒れたあなたを受け止めただけです」
「ありがとう」
男の子が笑った。
ヴィオレッタは目を見開き、握っていた左手を緩める。
「無事で……何よりです」
それだけ答え、すぐに顔をそらしてしまった。
けれど、横顔から先ほどまでの険しさが消えていた。
◇
壊れた魔石は、街の代表者と護衛、双方の立ち会いで箱へ収められた。
封印を施し、誰かが勝手に持ち出せないよう、ひとまず街の集会所で保管することになった。
調査を終えた俺たちは、人通りの少ない路地へ入った。
「額を見せなさい」
ヴィオレッタが俺の顔をのぞき込む。
「これくらい平気だ」
「血が出ています」
「戦場では、このくらい――」
言いかけて、慌てて口を閉じた。
「戦場?」
「いや、何でもない」
「あなたは時々、おかしなことを言いますわね」
ヴィオレッタは疑いながらも、白い布を取り出して俺の額へ当てた。
「先ほどの魔石ですが」
「ああ」
「あの紋章は本物です」
「じゃあ、お前の家が井戸を壊したのか?」
「分かりません。ただし、浄化装置の内部には封印があります。ローゼンベルク家が管理する鍵がなければ、警報を鳴らさず壊すことはできません」
「つまり?」
「鍵を盗まれたのでなければ――」
ヴィオレッタの声が震えた。
「ローゼンベルク家の中に、井戸を壊した者がいます」
「だったら、そいつを見つけよう」
「……今、何と?」
「一緒に調べればいいだろ」
「これは、わたくしの家の問題です」
「俺たちは相棒なんだろ?」
ヴィオレッタは、呆れたように俺を見つめた。
「家の事情も知らない市民が、公爵家の問題へ首を突っ込むつもりですか?」
「困ってるならな」
「本当に、あなたは馬鹿ですわ」
「よく言われる」
ヴィオレッタは小さく息を吐いた。
その口元が、ほんの少しだけ笑ったように見えた。




