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第百四話 祈りは、優しくない

「手、ほどくぞ」


 俺はセラフィーナの返事を待ってから、血に濡れた指へ力を込めた。


 その瞬間。


 頭の中へ、何百もの声が流れ込んできた。


『病気の母を助けてください』


『試験に合格させて』


『あの人が私だけを愛しますように』


『嫌いな女が不幸になりますように』


『お金が欲しい』


『戦争で死んだ兄を返して』


「うっ……!」


 優しい願いだけじゃない。


 誰かを助けたい祈り。


 誰かを自分のものにしたい祈り。


 憎い相手を傷つけてほしい祈り。


 すべてが命令のように身体へ突き刺さる。


「離してください!」


 セラフィーナが叫んだ。


「あなたまで、声に壊されてしまいます!」


「お前は、これをずっと聞いてたのか?」


「わたくしは、祈りの器ですから!」


「そんなの答えになってない!」


 彼女の指は、見えない糸で縫い合わされたように動かない。


 てのひらには、白い円形の焼き印があった。


『すべての祈りを拒むな』


「これが手を縛ってるのか!」


「それは、アウレリア家の祈願印きがんいんです。決して壊しては――」


「壊れそうなら、壊す!」


「簡単におっしゃらないでください!」


「難しく言ってる間に、お前が死ぬだろ!」


 再び鐘が鳴る。


 白い光がセラフィーナへ流れ込み、細い身体が大きく震えた。


「アルト!」


 ヴィオレッタたちが鐘楼しょうろうへ駆け込んできた。


「祈りの流れを止められないのか!?」


「祭壇の契約を崩します!」


 カサンドラが扇子せんすを構える。


「ですが、集まった祈りには行き先が必要です。無理に切れば、下にいる生徒たちへ逆流いたしますわ!」


「私の黒薔薇で地面へ逃がす!」


 ヴィオレッタのいばらが鐘楼の柱を伝い、セラフィーナの足元を囲む。


「鐘は止める」


 レティシアが鎖を凍らせる。


 巨大な鐘が氷に覆われ、音が途切れた。


「私が全生徒へ、中止命令を出します!」


 ユリアナの金色の天秤が輝く。


『現在の祈願譲渡は、本人の同意なき不正契約です! 全員、祈りを中断してください!』


 声が大聖堂の隅々まで響いた。


 白い光が少しずつ弱くなる。


「今です、アルト様!」


 カサンドラが祭壇の契約文字を切り裂いた。


 俺はセラフィーナの指を、一本ずつ開いていく。


 掌の祈願印が焼け、俺の手まで焦げる。


「痛いだろ!」


「慣れております……」


「嘘つけ! 痛いから泣いてるんだろ!」


「これは、皆様の悲しみが流れ込んでいるだけです!」


「じゃあ、お前の涙はどこにあるんだよ!」


 セラフィーナが息を止める。


 最後の指を引き離した瞬間、祈願印が砕けた。


 溜め込まれていた白い光が爆発する。


「アルト!」


 黒薔薇が俺たちを包み、光を地面へ逃がす。


 レティシアの氷が熱を抑え、カサンドラの紫文字が祈りの流れを分けた。


 ユリアナの金鎖が、最後の光を封じる。


 やがて鐘楼に、静けさが戻った。


 セラフィーナの身体が倒れる。


 俺は慌てて抱き留めた。


「大丈夫か?」


「どうして……」


 白い睫毛まつげの奥から、淡い灰色の瞳が俺を見る。


「どうして、まだ手を離さないのです?」


「離したら倒れるだろ」


「わたくしへ触れていれば、あなたの願いまで聞こえてしまいます」


「別にいい」


「よくありません……」


 彼女の瞳に、白い光が宿る。


 俺の中に残る記憶を、見ているようだった。


「焼けた街……崩れた大聖堂……誰もいない王都……」


「何が見えてる?」


「あなたの中で、たくさんの方が泣いています」


 セラフィーナが、俺の胸元をつかんだ。


「あなたは、いったい何を失ったのですか?」


 答えられなかった。


 そこへ、白い法衣ほうえを着た聖堂教師たちが駆け込んでくる。


「セラフィーナ公女!」


 彼らは彼女の傷ではなく、砕けた祈願印を見て青ざめた。


「何ということを! 大祈念祭の前に器を壊すとは!」


「器じゃない! こいつは人間だ!」


「平民は黙れ!」


 年長の司祭が、セラフィーナへ命じる。


「ただちに祈りの間へ戻りなさい。祭までに印を刻み直さねばならん」


 俺の腕の中で、セラフィーナがおびえた。


 それでも彼女は、立ち上がろうとする。


「申し訳、ございません……すぐに戻ります」


「戻らなくていい」


「ですが、皆様の祈りが――」


「お前が謝ることじゃないだろ」


 その言葉に。


 白葬公女は、自分のための涙を初めて流した。

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