67話 トラウマの元凶からの一方的な要求。モブ男と毒親による地獄の共演に立ち向かう件
「さて、そろそろ帰るか。暦深」
「うん。あ、みーくん。送ってくれるついでにさ、ウチ来る? 今ならパパいないから、ふたりっきりでやりたいほーだいだよ?」
「……親友宣言してから急にオープンになったな」
「ふふふ」
「まあいい。それより、鋭理たちにメッセージだけでも送っておいたほうがいいぞ。スマホの電源、切ってただろ? ふたりとも心配してたぞ」
「あ、そうだね。そうする」
湊の腕に自分の腕を絡めようとしていた暦深は、スマホを取り出して電源を入れた。
その直後、無機質な着信音が響く。
暦深は、親しい相手ごとに着信音を設定するマメさがある。だが、聞こえてくるのはデフォルトの音だった。
暦深の表情が強張る。
「この番号、こーへーくんだ」
「俺が代わりに話そう」
「ううん。大丈夫、あたしが出る。その代わりみーくん、そばにいて」
無機質な着信音が苛立たしげに響く中、暦深は湊のジャージの裾を握った。大きく深呼吸してから、スマホの通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
『やっと出た。おい、暦深。無視すんじゃねえよ。俺も美沙子さんも心配したじゃないか』
「ママが、そこにいるの?」
『感謝しろよ。俺が呼んだんだ。娘の晴れ姿を見たいって親心を無下にするわけにはいかないだろ?』
「頼んでない」と暦深は声に出さず、口だけを動かした。
『今どこだよ、暦深?』
「ちょっと具合が悪くて。早退させてもらったの。先生から聞かなかった?」
『そんな面倒なことするかよ。仕方ないな、ビデオ通話で話そうぜ』
「え……」
『まさか断るわけないよな? せっかくの母娘対面だぜ? それとも、このあと一緒にお前んち乗り込んだほうがいいか?』
体調が悪いと言った暦深を無視して、航平が話を進める。ほとんど脅迫であった。
暦深の眉間に皺が寄った。呼吸がわずかに荒くなる。
湊が肩に手を置いた。暦深は湊の顔を見つめ、表情を緩めた。「ありがと」と小声で呟いたあと、彼女はベランダに座った。
深呼吸して、ビデオ通話を開始する。
湊は画面に映り込まない程度に間を開けて座る。
画面に映ったのは、ジャージ姿の航平と、やつれた顔に派手な格好をした女性だった。
暦深の母、美沙子である。
美沙子は化粧をして顔色の悪さを隠していたが、髪に艶がなく、歯のケアも怠っているように見えた。
アクセサリーはいかにも高級品と映ったが、眼鏡は安物のようだった。
そんなちぐはぐな装いが、美沙子の経済状況を間接的に表している。
『暦深ちゃん、久しぶりね! 画面越しだけど、会えて嬉しいわ』
「ママ……」
『美人さんに育ったわねぇ。昔の私を見てるみたい!』
やつれた顔をしているのに、美沙子の声は大きく、耳によく響いた。
確かに、目元や鼻筋は親子で似ていると湊は思った。
(それに、あの笑み。内心を押し殺したときの乾いた暦深とそっくりだ。こうやって暦深は、母親に染められていったんだな)
暦深は大丈夫だろうかと、横顔を見る。
彼女は真剣な目をしていた。口を閉ざし、慎重に言葉を探している。
すると、ふいに美沙子が目を見開き、口に手を当て、驚いた表情になった。
『あら、ちょっと待って。後ろに映ってるの、前に住んでた家じゃない?』
「……うん」
『なぁんだ。暦深ちゃん、あなたも昔に戻りたいのね。ママと同じ。暦深ちゃんがあの人に言いくるめられているんじゃないかって、心配して損したわあ』
あの人、とは誠一のことだろうと湊は思った。
一方的に誰かを悪者に仕立てる。なるほど、航平と気が合うはずである。
暦深が反論する間も与えず、美沙子は自分のことをまくしたて始めた。
誠一と離婚してから生活が困窮していること。
それによって自分がどれほど苦労してきたかということ。
今になって離婚を後悔したこと。
『暦深ちゃんは気遣いのできるいい子だから、ママのことをわかってくれるよね?』
「……」
『ねえ暦深ちゃん。また一緒になりましょう。小さいあなたを育ててきたのはママなの。だから、今度は暦深ちゃんがママを助けて。ねえ、お願いよ』
両手を合わせ、眉を下げて懇願する美沙子。
暦深の肩が震えている。
『おい、暦深。何とか言ったらどうなんだ?』
航平が割り込んできた。鋭理や福音の件があったにもかかわらず、強気だった。美沙子がついているためだろう。
『俺は暦深のことを誰よりも知ってる。なんたって幼馴染だからな』
「……昔から知ってるってだけだよね?」
暦深のささやかな、しかし精一杯の抗議を、航平はあっさりと無視した。もう彼は、自分の思いを一方的に垂れ流すことしか頭にない。
『暦深はさ、こんなときに親を放っておける人間じゃないんだ。人助けはお前にとって何よりも大事だろ? 大事どころか、生きがいみたいなもんじゃないか』
航平の言葉は事実を含んでいる。だがそれは、暦深が母親の呪縛に囚われてきたからだ。
トラウマを乗り越えようとしている『ホクロの君』を、今まさに航平は地獄へと引きずり戻そうとしていた。
『俺だって競技そっちのけにして、連絡したんだ。リスクを取ってるんだよ。それなのに、暦深は自分の本心に逆らうのか? 困っている他人――美沙子さんや俺を助けるのが暦深だろう? お前、母親を見捨てるのか?』
暦深が俯いた。画面に映らないようにしながら、唇を噛んでいる。
その横顔は、タイムリープ前に湊が出会ったボロボロの少女のように青ざめている。
せっかく、立ち直ろうとしているのに。
せっかく、人生をやり直そうとしているのに。
せっかく、湊と暦深は本当の親友になれたのに。
(もう我慢できない)
湊は距離を詰め、暦深の隣に座った。彼女の肩を力強く抱き寄せる。
暦深は驚きと困惑と、そして恍惚の感情が混ざり合った表情で、『親友』の横顔を見上げた。
画面の航平と美沙子を睨み付け、湊ははっきりと告げた。
「俺の大事な親友を苦しめるのは、やめてもらおうか」




