9話 旅へ
しばらく歩くと小さな農村が見えてきた
「フィリー、ここの村にしばらく滞在しよう」
村の人達に困り事を聞いてまわった。フィリーは不思議そうな顔で見ていた。
「困り事を聞いて回る…? 大樹、何してるの?」
首をかしげながらも、彼女は大樹の後ろをひょこひょことついて歩いた。
村人たちは最初、見慣れない旅人の姿に警戒の色を見せたが、学生服姿の若者と風を纏った少女という奇妙な組み合わせに、少しずつ口を開き始めた。
「最近、畑の作物が夜になると枯れちまうんだ。獣かと思ったが足跡もねえ」
「井戸の水が急に濁るようになったんだよ。前は綺麗だったのに」
「うちの子が昨夜から熱が下がらなくて…薬師も匙を投げちまった」
聞けば聞くほど、この小さな農村は問題を抱えていた。
不作、水質汚染、原因不明の疫病。どれも王都に届くような話ではないが、住人にとっては死活問題である。
フィリーは腕を組んで、村の広場に腰掛けた大樹を見下ろした。
「ねえ大樹。まさかとは思うけど、これ全部解決する気?」
「井戸水からはドブのような臭いと硫化水素のような臭いと濁り。作物は根元から枯れ、葉がブヨブヨになっている。原因不明の体調不良……。」
「フィリー、上流へ行こう。」
「上流って…井戸水の?」
問い返しながらも、もう足は動いている。好奇心には勝てない性分だ。
二人は村人から井戸の場所を聞き出し、そこから伸びる水路を辿って村の裏手にある小川へ出た。
水は澄んで見えるが、確かに下流に行くほど僅かに濁りが出ている。
川沿いを上流へ歩くこと半刻ほど。木々が徐々に密度を増し、やがて二人は開けた場所に出た。
そこにあったのは――崩れた石造りの構造物。苔むした表面にはかつて何らかの紋様が刻まれていた痕跡がある。
そしてその崩壊した遺構の隙間から、濁った水がとろりと滲み出していた。周囲の草木は枯れ、虫の気配すらない。
「なにこれ…遺跡? でもこの水、なんか変。精霊たちが近づきたがらない」
風の精霊がフィリーの周囲で不安げに渦を巻いている。
濁った水は微かに脈動するように泡立ち、腐臭とも違う、嗅いだことのない異質な臭いを放っていた。
「これが原因だ。」
上流には大型の魔獣の死骸が横たわっていた
「魔獣の…死骸?」
フィリーは顔をしかめながら一歩後退った。
横たわるそれは、全長十メートルはある甲殻類に似た魔獣だった。体表は黒ずみ、肉は半ば溶け落ちている。死後かなりの時間が経っているようだが、問題はそこではない。
「この魔力汚染…かなり濃いよ。こいつの体液が水脈に流れ込んだんだ」
精霊たちはフィリーの髪の影に隠れるようにして震えている。
硫化水素とドブの臭いは、腐敗した魔力が水に溶け込んだ結果だろう。作物の根がやられたのも、葉がブヨブヨに膨れたのも、すべてこの汚染が原因だ。
「でもこれ、普通の浄化魔法じゃ追いつかないかも。死んだ魔獣から出た瘴気って、時間が経つほど根が深くなるんだ」
魔獣討伐の経験は豊富なフィリーだが、こういった環境汚染への対処は専門外だった。
彼女は困った顔で大樹を振り返る。
「濾過してみるか。石、砂利、砂、木炭、布……
これを通せばもしかしたら飲めるかもしれない。」
「濾過…って、水を通すだけで?」
半信半疑の顔をしつつも、フィリーはすぐに周囲を見回して素材を探し始めた。
石は川辺にいくらでも転がっている。砂利も砂も。木炭は――と考えかけて、足元に目をやると朽ちた倒木があった。風魔法で薄くスライスすれば代用できる。
布は村に戻れば手に入るだろう。
「要するに、層を作ればいいってこと? 不純物を段階的に取り除くみたいな」
戦闘では天才的な判断力を発揮するフィリーだが、こういう地道な作業の組み立ては新鮮らしく、目をきらきらさせている。
二人は手分けして材料を集め始めた。
フィリーが風刃で木材を裁断し、布を裂いて濾過層の芯にする。大樹が石と砂利を積み上げて簡易的な濾過槽の形を整える。
小一時間もかからず、即席の装置が完成した。川の清流を上から流し込み、濁った水を下から取り出す仕組みだ。
「さて、効果はどんなもんかな」
水が流れ始めた。濁った濁流が層を通過するたび、少しずつ色が薄くなっていく。
「まだ飲んじゃだめだよ。一旦瓶に入れて数日日に当てる。その後煮沸させる。
これで俺が毒味して問題なければ解決かな。」
「ちょ、毒味!? 大樹魔力ないんだから毒に対する耐性も普通の人と同じでしょ!? 危ないって!」
フィリーは慌てて大樹の肩を掴んだ。本気で心配している顔だったが、すぐに「あ」と何かに気づいたように口を閉じた。
魔力がない。つまり毒物や病原に対する身体の防衛機構も最低限ということだ。
「……いや、むしろ逆? 毒を見抜くのに都合がいいってこと?」
複雑な表情で呟くフィリー。便利なのか不便なのか、ますます分からない少年だった。
結局、濾過した水は瓶に詰められ、木漏れ日の中で数日間の日光消毒を待つことになった。
その間に二人は村に戻り、熱を出した子供の看病と、残った魔獣の死骸の処理にも手をつけた。
村人たちは驚いた。
たかが旅の学生が、半ば諦めかけていた問題を次々と解決していくのだから。
熱に伏せっていた子供は大樹の指示で水分を多めに摂らせると翌日には熱が引き、井戸水も数日後には透明さを取り戻した。
「……これが原因と講じた対策です。」
村人たちは食い入るように大樹の話を聞いていた。
上流の魔獣死骸、そこから流れ出した魔力汚染、濾過による水質改善、今後の管理方法。
専門用語を噛み砕いて、誰にでも分かる言葉で説明するその語り口に、老人も若者も頷きながら耳を傾けていた。
最後の説明が終わると、しばしの沈黙が落ちた。
「……あんた、本当にただの学生さんか?」
「うちの婆さんが言ってた『知恵の神様』ってのはあんたのことだったんじゃないかね」
「ありがとう、ありがとうよ…! これで畑もきっと元に――」
年配の女性が目元を拭いながら深々と頭を下げた。それを皮切りに、あちこちから感謝の声が上がる。
数日分の食事と寝床を提供してくれた村人たちの態度は、最初のよそ者を見る目とはまるで別物だった。
夕暮れの村に、温かい空気が流れた。
少し離れた場所からその様子を見ていたフィリーは、柱に背を預けて静かに微笑んでいた。
――この子は、剣を振るうより人の暮らしを救う方がずっと似合うのかもしれない。
そんな考えがふと頭をよぎって、彼女は小さく首を振った。
「なんか神様扱いされちゃった。宿も食事もタダにしてくれたし申し訳ないね。」
「あはは、いいじゃん。それだけのことをしたんだから」
村に一軒だけの小さな宿屋で、二人は並んで質素だが温かい食事を囲んでいた。
硬いパンと根菜の煮込み、それに村で採れた果実。王都の高級料理とは比べるべくもないが、不思議と満たされる味だった。
フィリーはパンをちぎりながら、ふと思い出したように口を開いた。
「ねえ大樹。これってさ、もしかして商会の『仕事』?」
その問いは鋭かった。ここ数日の大樹の動きを見ていれば、答えは明白だ。
困り事の聞き取り、原因の特定、解決策の提示、そして村人へのフィードバック。すべてが商会で叩き込まれた業務の流れそのものだった。
だがフィリーの口調に咎めるような色はない。むしろ、どこか納得したような顔をしている。
「困ってる人を助けて、信頼を得て、対価を得る。商会の基本だよね。――でもさ」
彼女はスープの皿を両手で包みながら、窓の外の星空を見上げた。
「あの人たち、お金払うなんて言ってなかったよ。笑顔だけだった」
「商人っぽいかな?別に金儲けが目的じゃないよ。
どんな生活をしててどんな問題が起こるのか知りたかっただけ。」
「知りたかった、かぁ」
フィリーはスプーンをくわえたまま、しばらく何かを考えているようだった。
やがて、ぽつりと。
「それ、すごく商人っぽいけど――同時にすごく大樹っぽいよね」
矛盾しているようで、していない。彼女なりの最大級の褒め言葉だった。
金儲けが目的ではない。けれど得た知見は商会に持ち帰れば確実に価値を持つ。そしてその過程で村人を救っている。
打算と善意が自然に同居するその在り方を、フィリーは嫌いではなかった。むしろ――。
「あたしもさ、風の吹くまま気の向くまま生きてきたけど。こうして誰かの役に立ってるの見るの、なんかいいなって」
照れくさそうに頬を掻いて、ごまかすようにパンの残りを口に押し込んだ。
宿の窓から見える星空は、明日も晴れることを約束するように澄み渡っていた。
旅の序盤、たった数日の出来事。だがこの先に待つ道のりはまだ果てしなく長い。
朝靄の中、宿を発つ二人の背中に、村人たちが総出で手を振っていた。
「また来てくれ」「あんたらは村の恩人だ」――口々に投げかけられる感謝の言葉を背に、街道は再び北へ伸びていく。
そこから先、三日間は平穏な旅路が続いた。
小規模な集落をいくつか通り過ぎ、時に足を止め、時に素通りする。
大樹は通過するすべての場所で、さりげなく観察の目を走らせていた。人の数、活気、物の流通、問題の有無。その視線はあまりに自然で、隣を歩くフィリーですら最初は気づかなかったほどだ。
「ねえ大樹、次の町が見えてきたよ。――あ、でもなんか様子が変じゃない?」
丘の向こうに姿を現した町の入口には、武装した兵士が数人立っていた。
関所というわけでもないのに、物々しい雰囲気だ。町に入ろうとする旅商人が兵士と言葉を交わしているのが遠目に見えた。
「検問、かな。この辺りは治安が悪いって話は聞かないけど」
兵士の説明によれば、ここ数ヶ月、町の備蓄食糧が底を突きかけているとのことだった。
旅人に配給できる余裕はなく、むしろ町に留まられると食い扶持が増えて困る――そういう切実な事情らしい。
「すまんな、旅人さん。悪いが北回りの迂回路を行ってくれ。三日も歩けば次の町がある」
申し訳なさそうな顔をしつつも、職務に忠実な対応だった。
町の中を覗くと、通りを行く人々の足取りは重く、店先には品物がほとんど並んでいない。
「……三日間、携行食だけかぁ」
二人の背嚢にある食料は村で多めに分けてもらった分を含めても心許ない量だった。
だがそれ以上に、フィリーは町の中を見つめる目が少し翳っていた。
「行こ、大樹」
明るい声で促したが、その横顔にはいつもの快活さがほんの少し欠けていた。
「兵士さん、物流のルートを教えてください。」
「物流ルートか。街道沿いに東へ行って山間の峠を越えりゃ隣町に着くんだがな」
兵士は槍を地面に立てかけ、ため息混じりに続けた。
「最近あの辺りに魔物が異常発生しててな。商隊が二つ立て続けに襲われた。護衛付きでも危うい有様で、誰も通らなくなっちまったんだ」
つまり物流が途絶えた原因は食糧不足ではなく、流通路の遮断だった。
いくら商人が来たくても来られない。来たところで荷を守れない。
兵士の話では、領主に討伐の嘆願は出しているが返答は芳しくないらしい。辺境の小領主には兵を割く余力がないのだ。
黙って聞いていたフィリーは、ちらりと大樹を見た。
この目は知っている。あの村で見せたのと同じ目だ。
面倒事に首を突っ込む気満々の、静かな決意を湛えた目。
「……大樹。まさかとは思うけどさ」
「行こう。フィリー。街道沿いに東だよ。」
「だよねぇ」
呆れたように笑って、けれどその足はもう東へ向いていた。
迷いはない。この数日で、彼がこういう人間だということは十分に分かっていた。
「おい、あんたら正気か!? 若い二人であの峠道は無茶だ――」
背中にかかる制止の声を置き去りに、街道を東へ歩き出す。
三十分も進むと、道の両脇に木々が増え始め、やがて森の中の一本道になった。
木漏れ日が地面をまだらに染め、鳥のさえずりが響く。穏やかな景色――だが。
「大樹、止まって」
不意にフィリーが手を上げて大樹を止めた。
風の流れを読むように目を閉じ、数秒。再び開いたその瞳には鋭い光が宿っている。
「右の茂み、三体。いや四体かな。何かいる。人間じゃない」
低く囁くような声。彼女が指差す方向から、がさり、と枝を踏む音がした。
「何がいるかまで分かる?」
「狼型。でも普通の狼より二回りは大きい。魔獣化してるね、あれ」
風の精霊から伝わる情報を即座に読み取り、小声で伝える。
四体はじわじわと距離を詰めてきていた。獲物を囲い込む狩りの動線。知能がある証拠だ。
「どうする? あたしが風で吹き飛ばす?」
腰を落として構えながら問う。だがその目はちらりと大樹に向いていた。
戦えないと分かっている相手を前にして、エリートとしての本能が前に出たがっている。
けれど同時に、彼の判断を聞きたがっている自分もいた。
「狼タイプは敵わないと分かった相手には刃向かってこない。吹き飛ばせる?」
「了解っ」
にっと笑うと、フィリーは右手をすっと横に薙いだ。
指向性を持たせた風の壁が茂みごと四体をまとめて吹き飛ばす。悲鳴とも遠吠えともつかない声を上げながら、魔獣狼たちは森の奥へと転がっていった。
追撃はしない。威力は加減してあるが、格の違いは十分に伝わったはずだ。
案の定、森の奥でしばらく唸り声が聞こえた後――気配は急速に遠ざかっていった。
「ね、逃げた。やっぱ頭いいねあいつら」
ぱんぱんと手を払いながら振り返る。息一つ乱れていない。
これが、この旅の形だった。
戦闘はフィリーが担い、判断は大樹が下す。役割分担は明確で、それが妙に噛み合っていた。
「ありがとう。助かった。」
「どういたしまして。でも大樹もよく冷静に対応できるよね。普通びびるよ?」
感心したように肩をすくめながら、再び歩き始める。
その後も二度、三度と魔獣の襲撃はあった。
いずれもフィリーの風で追い払うか、威嚇だけで済ませた。
峠に差し掛かる頃には日が傾き、二人は木陰で野営することにした。
焚き火を囲み、干し肉とパンで簡素な夕食を済ませる。
夜の森は昼とは別の顔を見せ、虫の音と時折響く獣の遠吠えが闇の中に溶けていく。
交代で見張りをしようという話になったが――。
「あたし寝なくても平気だから、大樹先に寝ていいよ。精霊が見ててくれるし」
実際、風の精霊が周囲に薄い警戒網を張っている。
索敵を精霊に任せられるフィリーにとって、夜番など散歩のようなものだった。
ぱちぱちと爆ぜる火を眺めながら、彼女は小さな声で言った。
「ねえ。あの町、助けたい?」
「もちろん。もう解決策は見つけた。」
「はっや」
思わず吹き出した。まだ町にすら辿り着いていないのに、もう解決策があるという。
フィリーは焚き火越しに身を乗り出して、目を輝かせた。
「聞きたい。教えて?」
まるで子供が新しいおもちゃを見つけた時のような顔だった。
大樹はこれまでの道中で得た情報を組み合わせながら、淡々とその策を語り始めた。
「襲ってくる魔獣は狼タイプが多かった。
原因は恐らく繁殖期、ただそれだけじゃない。
野生にはない加工食品の屑が落ちていた。
商人が道中で食べた食事や食べ残しの味を覚えて集まってきた可能性が高い。」
「加工食品の匂い……」
フィリーは眉をひそめて記憶を辿るように目を上に向けた。
「あー、確かに。吹き飛ばした時にちらっと見えたけど、赤黒い何かの塊が毛にくっついてた。あれ干し肉の屑か」
人間の食べ物の味を覚えた獣は執着する。しかも繁殖期で食料が足りないとなれば、なおさら街道沿いに居座る理由になる。
「じゃあ、餌付けされちゃったようなもんってこと? 人間が原因じゃん」
少し不機嫌そうに唇を尖らせる。
自然の摂理を乱したのは人間側だったという事実が、野生を愛する彼女には引っかかったらしい。
「で、解決策っていうのは?」
「増えていたのは狼タイプが多かった。
彼らは自分より強い者には手を出さない。
嗅覚も鋭いので近くにも寄らない。
その習性を使う。
自分より強い者の匂いがする物。
これを布に包んで杭に吊るす。」
「あー、なるほど。縄張り宣言か!」
ぽんと手のひらを打った。合点がいったという顔だ。
狼系の魔獣は強者の存在を匂いで認識する。自分より上位の個体がいる場所には近づかない。それは野生の鉄則だ。
ならば、それを人工的に作り出してしまえばいい。
「でも待って。強い者の匂いって、具体的に誰のを使うの? あたしの?」
自分を指差して首をかしげる。
確かに彼女の魔力残滓がついた物を杭に吊るせば、相当な抑止力になるだろう。しかし――。
「それだとあたしがずっとここにいるみたいな話になるよね? あたしたち明日には町を通り過ぎちゃうし、効果が切れたら元に戻っちゃわない?」
核心を突く問いだった。
匂いはやがて薄れる。一時的な対処では根本的な解決にはならない。
フィリーは焚き火の明かりに照らされながら、じっと大樹の次の言葉を待った。
「…ちょっと散髪してみない?」
「散髪?」
一瞬きょとんとして、自分の髪に手が伸びた。
風に揺れる亜麻色の髪。それは、彼女のトレードマークのひとつだ。
ぱちくりと瞬きを繰り返した後、ようやくその意味を理解したらしい。
「えっ、あたしの髪を布に包んで杭打ちするってこと!?」
素っ頓狂な声が森に響いた。夜行性の鳥がばさばさと飛び立つ。
「いやいやいや、それあたし的にはすっごい複雑なんだけど!?」
両手で髪をかばうように握りしめながら、顔が赤くなったり青くなったりと忙しい。
だがすぐに、はたと気づいたように動きが止まった。
「……でも、毛束ひとつで半年くらいは持つ、よね?」
魔力を帯びた髪は通常の毛髪より長く効果を保つ。それは彼女の常識でもあった。
つまり自分の一部があの町を守り続けるということで――。
フィリーはしばらく唸った後、観念したように大きく息を吐いた。
「……どのくらい切ればいい?」
街から街まで数メートル置きに毛の束置けるくらい?
「数メートル置きって……何束いるのそれ!?」
目を丸くして指折り数え始めた。街から街までの距離、峠道の長さ、往復の日数。
計算が進むにつれ、顔色がどんどん悪くなっていく。
「ちょ、ちょっと待って。あたしの髪ばっさりなくなるんだけど!?」
今の腰まで届く長さを維持するのにどれだけ手入れしてきたか、本人以外には分からない苦労がある。
風呂上がりの手入らずっとやってきた。戦闘中にたなびくのだって気に入っていた。
それがごっそり失われる。
「うぅ……」
しばらく膝を抱えて唸っていたが、やがてのそりと顔を上げた。
目が据わっている。覚悟を決めた目だった。
「切っていいよ。その代わり」
びしっと大樹を指差した。
「帰ったら最高級の髪用オイル買って。絶対。約束ね」
「……ごめん、嘘。冗談。」
「前の村で水質汚染の原因になってた巨大な魔獣の鱗を剥ぎ取ってきた。それを吊るそう。」
「…………は?」
固まった。完全に。
指を突きつけた格好のまま、まばたきを三回。
「嘘? 冗談?」
じわりと顔が紅潮していく。恥ずかしさと怒りが混ざった、実に分かりやすい表情だった。
切る覚悟まで決めて、条件まで提示して、全部冗談。
「ひどくない!? あたし本気で悩んだんだけど!? オイルの話までしたんだけど!?」
ばしばしと大樹の腕を叩く。力加減はしているが、感情は十分乗っている。
「もーーー! 大樹って時々すっごい意地悪だよね!?」
ぷくっと頬を膨らませて焚き火に背を向けた。が、すぐにちらりと振り返る。
その口元は――笑っていた。
「……でもよかった。うん。よかった」
小さく呟いて、膝に顔を埋めた。
でもね、まだ足りないんだ。
それを補う分は明日調達しようと思う。
「まだ足りない?」
膨れっ面を解いて振り返った。
鱗だけでは不十分という意味だろうか。確かにあの巨大魔獣の鱗は強力だが、広範囲の峠道全体をカバーするには面積が限られる。
「明日調達って――まさか」
嫌な予感がしたのか、じとっとした目で大樹を見る。
この男が「明日やる」と言って普通のことをした試しがない。今日だってフィリーの毛を切るとか言い出したばかりだ。
「ねぇ、今度こそ本当のこと言ってよ? あたしに何か切らせるとか、剥がすとか」
疑いの眼差し全開で詰め寄る。
焚き火がぱちりと爆ぜて、夜風がフィリーの短くなった毛先を揺らした。
大樹は少し間を置いてから、明日やろうとしていることを口にした。
「バブーンの爪切り。フィリーに頼みたい。」
「バブーンの爪切り……って、あの子の?」
拍子抜けしたような、ほっとしたような複雑な顔。
少なくとも自分が何かを失う話ではなかったことに安堵しつつ、すぐに別の疑問が浮かぶ。
「でもあの子、爪切らせてくれるかなぁ。前にあたしが触ろうとした時めちゃくちゃ威嚇してきたよ?」
人慣れしているとはいえ、特にバブーンは気性が荒いことで知られていた。
普通の方法では爪など切らせてもらえないだろう。
「ていうか、あの爪ってそんなに強力なの?」
バブーンの爪。それは大地を砕くほどの膂力を支える部位だ。
確かに魔力を含んだ素材としては申し分ない。だが加工するのも一苦労のはずだった。
素朴な疑問を投げるフィリーに、大樹はいつもの調子で答えるのだろう。
――いや、もしかしたら明日見せてくれるのかもしれない。
「とりあえず明日作業に入ろっか。」
「うん、そうだね。もう結構遅いし」
焚き火の勢いが落ちてきている。フィリーが枯れ枝を一本くべて、火を整えた。
「大樹ほんとに先寝ていいよ。見張りはあたしがやるから」
ぽすっと大樹に外套を渡すと、自分は木の幹に背を預けて夜空を見上げた。
満天の星が広がっている。学園の結界の中では見えない、本物の星空だ。
ふと、ここ数日のことが頭をよぎる。
商人の真似事をして、村を助けて、魔獣を追い払って。
全部、目の前で眠りにつこうとしているこの少年が始めたことだ。
学園にいた頃は、こんなふうに誰かと旅をするなんて想像もしなかった。
「……変なの」
誰に言うでもなく小さく笑った。
風の精霊たちがさわさわと囁きを返す。周囲に異常なし。
目を閉じて、風の声を聴く。それだけで十分だった。
――やがて大樹から寝息が聞こえ始めた頃、フィリーはそっと彼の方に目を向けて、独り言のように呟いた。
「おやすみ、大樹」




