第45話 しらせ
雨が、降っていた。
珍しくもないエリュ・トリの雨。
けれどその雨は、心にはあまりに冷たく
そしてどうしようもないほど悲しかった。
「…………」
借宿のベッドの上。しとしとという雨の音を聞くのも拒んで、シルヴィはベッドの上に座って、心を失った表情で項垂れていた。
シルヴィの意識にとって、ラーゾの最期の行動の意図はもはやどうでもよかった。あの時ラーゾが、窓の外を一瞬見て、不穏な気配を察知して、シルヴィを窓際から引き剥がしたという行動の真意は、もうシルヴィの心には何の慰めにもならなかった。今はラーゾの死の翌日。ツイードの時と同じように葬儀が行われ、そしてヴェルールの家に戻ったような気もする。そして同じように深く悲しんだヴェルールとザムトに「少し一人になりたい」とうわごとの様に呟いた気もする。
ベッドの上で項垂れるようになった過程の全てが、シルヴィの記憶の中から抜け落ちて、今のシルヴィの記憶にあるのは、ツイードの『二つの死』とラーゾの死の記憶。
――病床のベッドの上で、ただ無心に最後の凶刃に貫かれる死
――家の中で枯れ行く自分を押し殺して、静かに笑顔でもたらされる死
ラーゾの死も、シルヴィの中には二つあった。だがツイードのそれとは違い、ラーゾの死は同じような寝床の上で違う光景で繰り返される。
本来ならその違いはシルヴィにとっては疑うべきところだったが、ツイードとラーゾの死が自分の目に焼き付く感触に、既に冷静さは消失していた。
「……私が」
シルヴィは、あの日ザムトに言われていたという事すら手からすり抜けて、これまで言わなかった一言で自分を責めた。
私の、せいだ。
言いたくても言えなかった言葉。それで済めばと縋ってしまう言葉。ザムトに厳しく諫められたのに、今の自分を、その言葉と呵責だけが落ち着かせる。それが茨の冠である事は分かっているのに、その痛みでも感じていないと、二人の死に報いることが出来ないと思ってしまう。
「ツイード……ラーゾ……」
何を間違えたのだろう。何が原因だったのだろう。そんな自分へのトゲが無数に刺さっていき、シルヴィは、その痛みを感じることで倒錯的に自分が生きていることを実感した。
…………
「……違う」
雨音の中、シルヴィは自分の置かれている状況に対する不信感を抱いた。これまで何度も出てくる二つの死のビジョン。シルヴィはそれらを不安定な記憶としていたが、心がすり切れている今、あのビジョンに集中することが出来た。
ツイードの死、それは自分がこの目で見た剣による惨殺と、どこかで見たような穏やかな病死。なぜ二つの死を見たのか、記憶の混濁? それは誰の記憶の混濁か。自分を置いて他にいない。
そしてラーゾの死、黒い影によって病床で刺された死と、自宅のベッドで穏やかに衰弱を迎えた死。なぜ二つの死を見たのか、勘違い? なぜ勘違いする必要があるのか、自分の記憶なのに。
「……どっちが、本物の死なの」
それはこれまでの混乱から吐露した感情とは違う、冷静な疑問の言葉だった。そしてその疑問は、やがてこれまでの道のりに対する漠然とした不信感につながる。誰が何のためにこんな記憶を見せているのか。
――未開拓の森林には、記憶に影響を及ぼすものが存在してるんだ。
ザムトの言葉。自分はその言葉に誘われるように生きている。それならつまり、この混乱した映像は、あの未開拓の森が起こしているのではないか。思考を巡らせていく事で、シルヴィはその速度になじむように、これまでのふさぎ込んでいた心を整えた。
「行かなきゃ」
急き立てられるようにベッドから降りて、シルヴィはすぐに窓から借宿を出ていった。雨の降るエリュ・トリに、彼女の濡れる音が残っていく。
未開拓の森周辺にたどり着き、身体を濡らすほどの雨はやや収まり、シルヴィは鬱蒼とした森を見つめる。自分はどうしてここから出てきたのか。それを逆順で数える事で、何かがつかめるかもしれない。そういう淡い期待の元、シルヴィは一歩を踏み出す。だが、
「っ…………!?」
森との境目に入った途端、身体に強い拒絶が走る。森とその外を分ける場所が明確に分かる程に、足先から感じる感触がここから先の侵入を拒絶していた。
手を伸ばす。薄いカーテンを押し出すような感触が指先に伝わり、そこからゆっくりと、木々のざわめきのような音が……
――天球の明かりが隠れ〸、未開拓の桃は暧闇フ沈んでい摟。絃空のれザほス廻か鋳いそ縛遜颯で、シゾヴラ姿わずネな典を乖壕惙森林丿鶯紇冠ぱ候・ラ。来開扁鶫ーの榊申がは罫突りしな然僥上鼬英上望滞るのは危⑺と8断し、柳攺ぐホノ喜虞堯や躾み爾洒洩埜窪傃徝垃――
「な、なにっこの音はっ……!?」
薄膜のようなものを押し出す感触に訝しがっていた時、木々のざわめきのような何かはシルヴィの耳に金属が擦れ合うような、歪な音となって飛び込んできた。明らかに何かを拒むような現象。ここが今の自分の疑問の中心である事は確信できた。
だが、確信とは裏腹にそこに入る事は出来ずにいた。シルヴィが感じた強烈な音は、彼女が未開拓の森に侵入しようとすると訪れる。二回だけ、その境界線に触れたが、必ずシルヴィの耳に、指先に、そして全身に怖気が走り、数秒も立っていられない程の感触を与えてくる。
「はぁ……はぁ……」
静々と降る雨の中で、向こうの見えない木々の障壁を作り出す未開拓の森、シルヴィは、不快な雑音に身を震わせつつ、その雑音が何か意味のあるものを吐き出しているような微かな感覚だけを感じて、諦めてエリュ・トリに戻った。
窓から戻ってきて、暗い部屋で自分の身の振りを考えていた時、シルヴィはドアが開いており、一枚のメモが挟まっていることを確認した。そんな様子を見て、自分は今までザムトとヴェルールを置いてしばらくラーゾの死を悼んでいたことをはっきりと思い出した。
「手紙……?」
扉に挟まるように差し込まれた手紙。いや、手紙というのはあまりに粗雑な、シワのよった紙だった。
「……なに」
シルヴィは、その紙を取り出すのをためらった。この状況に覚えがあるわけではない。だが、この光景が、自分にとって耐え難い事態を予告しているような感覚がした。そんな感覚と共に、シルヴィはおそるおそるその手紙を取った。
――ヴェルールが
何処で書いたのか、その文字は崩れており、判読も危うい程だった。しかし、その文字の歪さがシルヴィの予感を本物だと告げている。
バタン……!
読み取ったシルヴィが扉を叩き開けて、手紙の主を探す為に雨のエリュ・トリを駆け回る。その一言を書くことが出来る人間なんて『もはや』一人しかいない。シルヴィは脇目も振らず、ヴェルールの住む家に息を切らして走っていった。
時間が長い。いつもなら早く着きすぎるぐらいなのに、この瞬間だけは、もどかしい気持ちと合わさるように道のりが遠く感じた。そして、時間の感覚など分からずにシルヴィはいつもの家にたどり着き、開け慣れているドアを押し上げた。
「ザムトっっ!!」
ドアが開く激しい音に、部屋の窓際で顔を下げていたザムトがこちらを見る。
「……」
「ザムト……?」
無言のザムト。その顔が次第にゆがみ、シルヴィに何かを伝えようと言葉のない言葉を口だけで作り出す。そしてシルヴィは、そんなザムトの変化でようやく気が付いた。
膝の上にある、血の付いた弓矢に。




