第28話 過去
………
……
…
「…………」
音は、止んだ。
身体の恐怖は、止まった。
纏わりついていた生存反応はシルヴィの身体から溶けるようにして消えていった。
「……わたし」
さっきまでの異常な不快感が全て解消されて、シルヴィは固く閉ざしていた目を恐る恐る開く。
「……えっ」
息をこぼして驚きをあらわにするシルヴィ。それは、今まで見ていた異質な空間ではない、穏やかで開けた空間だった。
草が生い茂る平原、平原を見下ろす山々、そして暖かく吹く柔らかな風。それは、シルヴィも見慣れた、エリュ・トリの外れのような光景だった。
「……エリュ、トリ?」
咄嗟の事態に、シルヴィは頭の整理が追いつかず、草原に揺れる草の感触を確かめた。少し冷たく、そして緑の香りがする、交じり気のない草。
シルヴィは、初めに夢を疑った。あの異常な空間で気を失って、まるで逃避するかのようにこの光景を見ていると言う夢。だが顔に吹く風と、指先に感じる草木の質感、そして鼻に漂う匂いの全てが、シルヴィの意識に強い現実感を焼き付ける。
「となると、知らない間に帰ってこれたのかしら」
シルヴィの順当な推測、夢ではないというのなら、何かの理由でここまで運ばれたという可能性である。前回はギルドの、あの仲間たちの助けでエリュ・トリの病室に運ばれて、そこで目を覚ました。それなら今回もそう言った誰かの手助けで脱出できたと考えるのが妥当だ。
「……帰って来れたのなら、とりあえずギルドに……」
シルヴィはそう思い、自分の仲間たちに礼を言おうと思い、ゆっくりと立ち上がる。身体の感覚に違和感はない。やはりこれは夢ではないのだろう。そんなぼんやりとした感情を抱えながら、シルヴィはあの仲間たちを探しつつ、草原を後にした。
草原から出て、記憶にある道に出た所で、シルヴィはこの場所がエリュ・トリの東部方面……つまり、自分がさっきまでいた未開拓の森から出た所にいると理解した。だが、周りの草木の生え方を眺めていたシルヴィは、ふと違和感を覚えた。
「変ね……私が訪れた時と、風景が違う気がする」
冒険者としての仕事柄、シルヴィは植生や草木の生え方には常に注意を向けている。そんな彼女の目には、この風景は、何処となく『違う』ものに見えていた。そしてさらに、歩みを進めていたシルヴィは、もう一つの違和感に気づいた。
「……なんだが、人と出くわさないわね。この辺り、そんなに人が少ない訳じゃないのだけれど」
草が人の足並みを避けて生まれる獣道、そんな踏み固められた土の道をたどり、エリュ・トリに向かう道すがら、シルヴィは他の人とすれ違った感覚がなかった。街道であれば、同じ冒険者とすれ違うこともあるはずだが、あの未開拓の森の手前から街道まで、そして街道を歩いてしばらくしているというのに、誰かと出くわしたような記憶がなかった。
「うーん……夢の可能性が消えない感触ね。エリュ・トリには間違いないようだけど」
足を進めるにつれて、自分がどんな場所を歩いているのかが分からなくなっていく。記憶に残るあの部屋、あの男の姿、それらと照らし合わせつつ、シルヴィはエリュ・トリまで戻っていった。
歩き始めてしばらくしてから、シルヴィは街道の向こう側に町を見つけた。見慣れた石造りの家々が立ち並ぶ場所。それは、記憶にあるエリュ・トリの……
「……あ、れ?」
そんな安堵の心とは裏腹に、シルヴィは更なる違和感を覚える。それは、エリュ・トリの街並みに関するものだった。
石造りの建物が立ち並ぶ風景、それは正しくシルヴィの記憶にあった。だが、その建物たちに囲まれた街道、エリュ・トリ内の街道は、自分が記憶している整備された石畳と大きく異なっていた。それは、シルヴィが今歩いている、土を踏み固めて作られた道と何ら変わりのない、綺麗な獣道程度のものだった。
「街道の石畳……は、どこ?」
自分の記憶の中にあるエリュ・トリの光景を思い出して、その差を確認するシルヴィ、確かに自分が見ていた中では、エリュ・トリの交通網は石畳によって整備されていた。だが、そこにある光景は……まるで……
「まるで、古いエリュ・トリみたいじゃない……」
シルヴィがその風景で感じ取ったのは『過去』だった。それは、今のシルヴィが覚えている光景ではなく、自分の頭の中を辿って辿って、ようやくたどり着いたはるか昔の記憶。そう、エリュ・トリの原風景のようなそれを見たシルヴィが思い出したのは……
「まさか……ここって50年以上前の、エリュ・トリなの?」
見覚えの薄いエリュ・トリの町中に入って、シルヴィは更に違和感を覚えた。街道での人の往来なんて生易しい、この整備されていないエリュ・トリにも、人の気配がなかった。
「どうして人がいないの……私は今、何を見せられているの?」
ようやく危険な状況から脱出して安堵していたシルヴィの気持ちが、また不安に染まっていく。結局これが夢なのか、それとも夢以外の何らかの現象なのか、それを決定づける要素が常に欠けた状態で、シルヴィはエリュ・トリらしき場所の歩き回っていた。だがその中で、シルヴィはようやく手掛かりになりそうな事に気が付いた。
「……ここって確か、石炉亭だったはず」
シルヴィがエリュ・トリに入って、噴水のある繁華街から続く道沿いにたどり着いた時、シルヴィが一つ目の手がかりを見つけた。いつもならあの仲間たちと訪れていたはずの【石炉亭】があった場所。そこはただの民家になっており、そこにレストランがあったような様子はかけらも見られなかったのだ。
「確か、石炉亭になる前は……」
そう思い、シルヴィはこの場所に関する古い記憶を探る。当時、シルヴィが見ていたこの場所は一体何だったか……古い記憶を辿って、いま自分が見ている光景に重ね合わせる。
「……そうだ。たしか防具屋、冒険者たちの装備の供給場所が殆ど無くて、私たちはここで……ここで……」
そうしてシルヴィが記憶を整理して思い出したところで、その場所には【パルプ防具店】という看板が掛けられている事に気が付いた。
「そうだ。パルプ防具店……確か、ザムトがよく立ち寄っては、苦い顔をした店主に怒られながら装備品を買ってた場所だ」
シルヴィは、忘れていたものを急に思い出すかのように、記憶を手繰り寄せた。そして自分の頭の中に『ザムト』という人物が浮かび、その顔と風貌が鮮明に思い出される。
「そういえばザムト……最近、なんだか私と顔を見合わせなくなってたけれど、何を考えて……」
不意に声に出たザムトとの関係。シルヴィは自分から出た言葉が信じられないような気持ちでハッとして口を塞いだ。
「……なんで、ザムトはもう」
無意識に出てきたザムトを思う会話。シルヴィは自分が何を言っているのかすら信用できなくなり、両手で口を塞いだまま、街中を歩き進んでいく。




