初めての感情
一年生が帰る時間になった。
理純は返る準備をしながら、折り畳み傘を貸してくれたフルートの少年の様子を確認する。
(あ、あの人、まだいるみたい。帰り傘返せたら良いな)
理純は帰る準備を進める。
「理純、お疲れ様」
「リズ、トランペットどうだった? 音出た?」
そこへ鈴子と寧音がやって来る。
「ああ、まあ、思うようには出なかった」
理純は自分のトランペットの音を思い出し苦笑する。
掠れまくった音は、とても誰かに聞かせられるような音ではなかった。
「まあ初心者だもんね。あたしも、全然音出なかった。全然息が入らない。何かクラリネットに息を拒絶されてる感じ」
鈴子は中学時代も吹奏楽部だが、高校では楽器を変える予定なので初心者同然である。
「あ、ウチも中学時代クラも体験してみたけどそうだよね。息を拒絶されてるって何か分かる」
アハハッと寧音が笑い、話を続ける。
「ウチ中学で引退以来久々のトロンボーンでさぁ」
その時、理純に折り畳み傘を貸してくれたフルートの少年が音楽室を出たことを確認した。
「ごめん寧音、鈴子。今ちょっと急いでて」
「え? そんなの? 何かごめん」
「ううん、気にしないで、寧音」
「じゃあ理純、また明日」
「バイバイ、リズ」
「うん。二人共、また明日ね」
理純は二人に手を振り、急いで音楽室を出た。
♫♫♫♫♫♫♫♫
「あの」
昇降口付近で、理純はフルートの楽器体験場所にいた折り畳み傘を貸してくれた少年に追いつき、声をかける。
理純は先に彼が帰ったのを見て、急いで追いかけたのだ。
「あ、昨日の」
少年は理純のことを覚えていたようだ。
「昨日はありがとう。お陰で濡れずに済んだ」
理純は彼から借りていた黒い折り畳み傘を取り出して渡す。
家で乾かした後、いつでも返せるように借りた黒い折り畳み傘を持って来ていたのだ。
「そっか。良かった。でも別に返さなくて良かったのに」
少年は柔らかに微笑む。
「そういうわけにはいかないから」
理純がそう言うと、彼は黒い折り畳み傘を受け取った。
「一年生だよね?」
彼からそう聞かれ、理純は頷く。
「一年二組の、星野。星野理純」
理純の声は緊張していたのか、少しだけ震えてしまう。
「俺は海藤天音。一年八組」
柔らかで心地の良い声だった。
「海藤……くん……。吹奏楽部、入るの?」
「え? まあ、そのつもりだけど。何で?」
天音は音楽室に理純もいたことに、気付いていないようだった。
「さっき海藤くんがフルートの所にいるの、見たから。私、トランペットの所にいて、それで」
若干しどろもどろになる理純。
どういうわけか、上手く言葉が出ない。
「ああ、星野さんも吹奏楽部入部予定なんだ」
天音は納得したようだ。
「星野さんは、トランペット経験者?」
天音に聞かれて理純は首を横に振る。
「ううん、初心者。中学はバドミントン部で」
ほんの少しだけ、喉が渇いたような気がした。
「そうなんだ」
「えっと、海藤くん、さっき海藤くんがフルート吹いてるの、聞いたよ。何か、その、音が良かった」
理純は何故か天音との会話終わらせたくないと思った。
どうしてそう思ったのかは、理純自身も理解していない。
「……ありがとう。最初ににそう言われたのは、初めて」
天音は照れたように微笑んでいた。
「え? 何で?」
理純は首を傾げる。
確かに天音のフルートは上手だと思ったのだ。
「いや、中学の頃はさ、男がフルート? みたいな感じで変な顔されることが多かったから」
天音は困ったように苦笑している。
「あ……。ごめん、それは私も最初思ってた」
理純は悪いことをしてしまったかのような感じになった。
天音はあまりそう言われたくないのかもしれない。
「やっぱり。俺、叔父の影響でフルート始めたんだよ。叔父が趣味でアマチュアの交響楽団に所属してて、フルートやってるからさ。フルートは十歳の時から始めたんだ。叔父にもよくフルートを教えてもらってた」
「そうなんだ」
思わず口角が上がる。
何となく、天音のことを知ることが出来て嬉しいと思い、声が弾む理純だ。
「何か凄いね、海藤くん。もうフルート完全に吹けるんだし。私、まだ全然トランペット吹けない」
「俺も始めたばかりの頃は全然吹けなかったよ。やっぱり練習あるのみだから。星野さんがどんな風にトランペット吹くのか楽しみにしてる」
穏やかで凪いだ声だ。
その声は、理純の心を落ち着かせると共に、少しだけワクワクもさせた。
「うん。私、頑張ってみる」
「星野さん、無理のないペースでね」
「ありがとう、海藤くん」
理純は自分のペースで楽しみながら頑張ろうと思うのであった。
「えっと、海藤くんは」
「理純」
もっと天音と話そうとしていた理純だが、聞き慣れた声に遮られてしまう。
「弦太……」
聞き慣れた声なのだがどことなく刺々していたので、理純は少し肩を震わせた。
「早く帰ろうぜ。理純んとこのおじさんもおばさんも、帰り遅いと心配するだろ」
「まだ五時じゃん。お父さんもお母さんもそんな心配しないって」
四月なので日は長くなっている。
理純は弦太の言っていることが分からなかった。
それよりも、もっと天音と話したいと思う理純である。
「じゃあ星野さん、俺はこれで」
天音が帰ってしまう。
「えっと、海藤くん、また明日部活でね」
何とか天音と明日も話せるように、理純はそう言うのであった。
天音はそれに対し、柔らかな表情で手を振ってくれた。
今日はもう話せないのは残念だが、天音の反応に対して少し嬉しいと思う理純だった。
♫♫♫♫♫♫♫♫
結局、理純は弦太と帰ることになった。
「理純、今日吹奏楽部に見学に来てたんだな。俺もチューバの所にいたんだけど、気付いたら話しかけてくれよ」
若干弦太は不貞腐れているようだった。
「だって、トランペットに夢中だったから」
天音との会話を弦太に邪魔されて、理純は少しだけしょんぼりしていた。
「理純、トランペットやるのか。てか、吹奏楽部入るのか?」
「まあ、そのつもり」
すると、弦太の声が少し明るくなる。
「そっか。楽しくなりそうだな。理純、希望の楽器になれると良いな」
いつもの弦太の声に、理純は少しだけ安心して「うん」と頷く。
「ところでさ……さっき昇降口で話してた奴、誰?」
「えっと、一年八組の海藤くん。昨日傘貸してくれた人。丁度雨が降った時折り畳み傘忘れて駅で困ってたら海藤くんが折り畳み傘貸してくれたの」
理純は昨日の朝、音宮高校の最寄り駅での出来事を思い出し、表情を綻ばせた。
「え、理純、傘忘れてたんだ。言ってくれたら俺が一緒に……」
弦太は理純から目をそらして黙り込む。
「一緒に、何?」
理純は急に言葉を止めた弦太に首を傾げる。
「……何でもない」
弦太の声は、また不機嫌そうになった。
「……変な弦太」
理純は弦太から視線を外し、ぼんやりと空を見る。
日が傾き、暗くなり始めていた。
脳裏に浮かぶのは、天音の姿。
穏やかな表情や、聞き心地の良い柔らかな声。そして、フルートを吹く姿。
あの優しく穏やかで、華やかな音が耳に残っている。
(海藤くんとまた話したいな……)
どうしてかは分からないが、理純の中にそんな気持ちがあったのである。
それは理純にとって、初めての感情だった。
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次回から第二章です。




