16話:轟の精霊と変異の兆し
――次の瞬間、天城の山を揺らしていた雷鳴が、唐突に途絶えた。
雲間を走っていた紫電も、肌を刺していた雷圧も、まるで最初から存在しなかったように消え去っている。
残されたのは、耳が痛くなるほどの静寂。
「・・・全部、吸収したの?」
飛鳥が呆然と空を見上げる。だが、轟は消滅したのではなかった。
諒輔の右腕を包む紫電の籠手。その内部で、吸収された膨大な波動が行き場を求めるように激しく脈打っていた。
「違う・・・。これは、僕の中に収まろうとしていない。」
籠手から一筋の紫電がほどけ、2人が合わせた拳の上へ昇っていく。
一筋は二筋へ。二筋は無数の光糸へ。諒輔と飛鳥の間に生まれた絆を縫い上げるように、紫電の糸が絡み合い、小さな雷雲を形作っていった。
雷雲の周辺に、八枚の円盤が浮かび上がる。太鼓にも、古い祭壇に用いられた車輪にも見える、不思議な雷輪。そのうち1枚だけは輪郭が欠け、時折ノイズのように明滅していた。
『――やっと、届いた!』
幼くも快活な声と共に、雷雲が内側からはじけ飛んだ。現れたのは、30センチほどの小さな少女だった。
紫紺の髪は雷雲のようにふわふわと広がり、その毛先は白銀の火花を散らしている。頭には二本の稲妻を思わせる角飾り。紫と金が溶け合った瞳は、嵐の只中とは思えないほど無邪気に輝いていた。
短い紫紺のチュニックと白いマントには、金色の車輪紋が刻まれている。けれど、その手足の先はまだ輪郭が淡く、紫電の粒子となって絶えず空気へ溶けていた。
少女は空中でくるりと一回転すると、飛鳥の頭へ勢いよく着地した。
「きゃっ!?な、何するのよ!」
『あははっ!思った通り、飛鳥の頭、座り心地いい!』
「私を椅子にしないで!」
飛鳥が慌てて手を伸ばすたび、少女は紫電を散らしながら楽しそうに飛び回る。その姿を見つめていた諒輔の隣に、トランゼが静かに現れた。
『あれは、フランカ。轟を司る守護精霊じゃ。お主と飛鳥の絆が不完全ながらも結ばれ、この地に満ちた轟が仮初めの器を与えた。ゆえに今だけは、飛鳥にも姿と声が届いておる。』
「教えてくれてありがとう、トランゼ。」諒輔はトランゼに感謝を述べ、飛鳥に伝えた。
「彼女は、フランカと言うらしい。」
『あっ!王じゃん、名前紹介してくれてありがと!改めて、あたしはフランカ!轟を駆け、雷鳴を鳴らし、邪魔する奴はドカーンとぶっ飛ばす、飛鳥の守護精霊だよ!』
「私の・・・守護精霊・・・?」
飛鳥の薄紫色の瞳が、大きく見開かれる。
フランカは再び飛鳥の頭へ腰を下ろすと、今度はふざけることなく、その髪を小さな手で優しく撫でた。
『ずっと呼んでたんだよ。「こっち見て、一人じゃないよ」って。強くならなきゃって、一人で雷の中を走り続ける飛鳥にさ。』
「・・・あなたの声だったの?」
『うん。やっと会えたね、飛鳥!』
屈託なく笑うフランカの身体が、一瞬だけ透ける。背後に浮かぶ雷輪も明滅し、欠けた一枚は未だ完全な形を結べずにいた。
飛鳥は、消えかけた小さな手へ、そっと自分の指を重ねた。
「それなら、これから結んでいけばいいわ。今度は・・・一人で強くなろうとせずに」
触れ合った指先から、柔らかな紫電が小さく弾けた。
『あーあ、もっと飛鳥と話していたいのにな。ちょっと張り切りすぎちゃったみたい・・・。』フランカがあくびをすると、雷輪のノイズが強くなっていった。
『この地の、轟も落ち着いた。これ以上は、姿を保てぬぞ。』トランゼがフランカを促す。
「飛鳥。トランゼが、この土地の轟が落ち着いたから、今はもう姿を保てないって。」
「今は、なのね。」
『うん!次は飛鳥の力だけで呼んでよ。そしたら、もっといっぱい話せるから!』
『そうだね、お母さん。またね、飛鳥!王もね!』
笑いながら手を振ったフランカは、飛鳥の中へスッと溶け込んでいった。
「あっ・・・行っちゃった・・・。」飛鳥の横顔は、少し寂しそうにしていた。
「大丈夫だよ。フランカは、どこかに居なくなったわけじゃないよ。ずっと君と一緒にいるよ。だから今は、お社の方に戻ろっか。」
「そうね・・・。戻りましょう。」
轟の嵐が完全に晴れ切った、奥宮。憑き物が落ちたように穏やかな、でも少し気恥しそうな飛鳥と一緒に、みんなが待つ社に戻った。
「飛鳥ちゃん!」戻った飛鳥を見て、真澄が飛鳥に飛びついた。
「よかった。無事だったんだね。諒輔くんもありがとう。」
その後ろには、呆れながらもほっとした様子の恭平と、命令違反を咎めつつも、2人の無事を認めるように見つめる伊佐木が立っていた。
「さ、奥宮までの道も開けたし、轟の方も何とかなったようだし。避難所の方に戻るよ!」
「了解!」第3小隊の返事は、これまでで一番綺麗に揃っていた。
――下山後、避難所へ戻ると大柄な遊星の隣に、漆黒の女性が立っていた。
「・・・断層深部にて、異常個体の活動停止を確認。残された装甲片を回収しました。」
低く乾いた声が、静かに避難所の騒めきを切り裂いた。足音すら立てずに玲の前へと歩み寄ったのは、艶のある長い黒髪を低い位置で一つに束ねた女性――九条美咲だった。
「ご苦労。状況は」
「後ほど詳細を。・・・しかし、熱が籠りますね、このスーツは。」
偵察任務を終えたばかりなのだろう。解けた数本が、汗ばんだ細い首筋へ張り付いている。感情をほとんど宿さない淡々とした口調のまま、九条は熱を逃がすように、防護インナーの襟を指一本分だけ下げた。
ただそれだけの、何気ない仕草だった。
「・・・・・・」
なのに、冥は息をすることすら忘れていた。
無駄なく鍛えられた身体を包む、艶のない漆黒のタクティカルスーツ。周囲には大勢の住民がいるはずなのに、その女だけが夜の静寂を纏っているように見える。
やがて、紫を溶かした黒い瞳が冥を捉えた。
「・・・あなたも、闇属性?」
低く、わずかに掠れた声だった。
感情の見えない眼差しが、冥の奥底に眠る闇まで見透かすように細められる。
それが、影山冥と九条美咲の最初の邂逅だった。
――避難所の指揮テントにて、伊佐木小隊長と大城を交え、第3小隊も同席する形で九条の報告が始まった。
「断層深部で確認した虚烈は、これまでの個体とは明らかに行動が異なっていました。」
九条が端末を操作すると、周辺一帯の地形と、複数の赤い反応が卓上へ映し出された。その全てが、不自然なほど一点へ集中している。
「私が闇属性を展開した直後、周囲にいた個体が一斉に進路を変えました。近くにいた作業員や防衛隊員には目もくれず、全てが私だけを狙ってきたんです。」
「囮として引きつけた、というわけじゃないのか?」
大城の問いに、九条は静かに首を横へ振った。
「同じ現象を三度確認しています。偶然ではありません。私たち闇属性は、敵の能力を阻害し、潜伏や支配を看破する役割を担う。あの個体たちは、それを理解したうえで闇属性持ちを優先的に排除しようとしている可能性があります。」
テント内の空気が重く沈む。その中で、九条の視線が第3小隊へ――ただ一人の闇属性を持つ冥へと向けられた。
「玲さん。彼らも、これから起こりうる戦闘に参加させるつもりですか?」
「ああ、そのつもりだ。何か問題があるのか?」
「あります。闇属性は真っ先に狙われる。実戦経験の浅い学生を同行させれば、本人だけでなく、守ろうとする仲間まで危険に晒します。」
九条は感情の見えない瞳で、冥をまっすぐに見据えた。
「・・・特に、覚悟の定まっていない者は足手まといです。彼は、ここに残すべきでしょう。」
冥の胸を、鋭い言葉が貫いた。
反論したい。だが、九条を前にすると、先ほどから乱れ続ける鼓動が邪魔をして、上手く言葉が出てこない。
「・・・九条さん、僕は・・・。」
九条が周囲へ薄く広げた闇は、テント内にいる者たちの気配だけでなく、呼吸や心音の揺らぎまで拾い上げていた。激しく脈打つ冥の心音を、九条は恐怖によるものだと判断する。
「この話を聞いて、恐怖を感じているのでしょう。ならば――」
「違います!僕の心音が不規則なのは、恐怖からではなく・・・あなたが美しいからです!」
恐怖だと決めつけられたことへの反発が、恋心にかかっていたブレーキを吹き飛ばした。
告白にも聞こえる反論を受け、恭平と隆利が驚愕のあまり固まる。
一瞬、何を言われたのか理解できなかったのだろう。数秒の沈黙を経て、九条の眉が初めてピクリと動いた。
「・・・・・・は?」
「ぶっ・・・ふははははは!影山、お前・・・意外にも豪胆な奴だったんだな。」
大城の笑い声で正気に戻った冥は、血の気が引くような感覚に襲われた。自分の口を両手で覆うと、今度は顔全体が真っ赤に染まっていく。
「いや・・・ちが・・・違わないけど・・・今のは、その・・・!」
「えええっ!冥くん、いつもの冷静さはどこに行ったの?」
真澄が驚きを抑えきれず、キラキラとした目で尋ねる。
「あ・・・えっと・・・見ないで・・・!」
「あなた、本気なの?でも、その心音を聞くかぎり、嘘ではなさそうね。」
「うぐ・・・。あ、あの九条さん!」
「何かな、影山くん。」
九条の眼差しを正面から受け止め、冥は震えそうになる声を懸命に押さえ込んだ。
「僕は、まだ一人前とは言えません。けれど、仲間たちと共にここまで来たんです。闇属性だからといって、僕は逃げません。だから見ていてください。僕たちが進む先を。」
ひとしきり空気がかき乱されたあと、九条は小さく息を吐いた。冷ややかな瞳は変わらない。それでも、その声からはわずかに毒気が抜けていた。
「・・・呆れました。ですが、そこまで死に急ぎたいのなら止めません。せいぜい、私の視界の外で死なないことです。」
それが九条なりの忠告なのだと気づいた冥は、赤い顔のまま力強く頷いた。
「話を戻します。異常なのは、行動だけではありません。」
九条が卓上へ黒い耐圧ケースを置き、固定具を外す。蓋の下から現れたのは、手のひらほどの黒い装甲片だった。
「異常個体の活動停止を確認した直後、本体は通常個体と同じく粒子となって霧散しました。しかし、この装甲片だけが残った。」
「虚烈の一部が、形を保ったまま残ったのか・・・。」
玲は装甲片を見つめながら、翠の波動を細い刃へと束ねた。
「切っても構わないか?」
「お願いします。」
振り下ろされた翠の刃が、装甲片を二つに切断する。
しかし、切断面は砂のように崩れることも、粒子となって消えることもなかった。それどころか、断面から伸びた黒い糸状の組織が互いを探すように蠢き、離れた二つの破片をゆっくりと引き寄せ始める。
「自己修復・・・しているのか?」
大城の表情から、それまでの笑みが消えた。
「はい。それだけではありません。」
九条が計測端末を装甲片へ近づける。画面に表示された波形は一定せず、別の形へ逃れようとするかのように絶えず変化していた。
「外殻を構成する異界波動とは異なる反応が、内部から検出されています。生体波動に似ていますが、既存のどの生物とも一致しません。」
「このことは、雨宮本部長には?」
「まだです。雨宮本部長への報告と同時に、特務機関へ精密調査を要請するべき案件です。」
玲は眉間に皺を寄せ、短く息を吐いた。
「その特務機関も、今は首都中枢部の防衛に人員を取られている。調査局も開発局も、すぐには動けないだろうな。」
「そんな状態が、まかり通っているんですね。」
「ああ。だから先に、専攻科にいる古い友人へ解析を依頼する。この装甲片が何なのか、私たちだけでも突き止めるよ」
「分かりました。」
再び繋がり始めた装甲片を、九条が耐圧ケースへ戻す。
蓋が閉じられる、その直前。
諒輔の耳にだけ、装甲の奥から響く微かな鳴動が届いた。
一定の間隔を刻む、規則正しい音。
それはまるで――何者かの鼓動のようだった。
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