第9話 雨の村に来た男
村へ下りる道は、途中から川になっていた。
足首ほどの水が、轍に沿って流れている。須佐之男は道の端へ寄ったが、そこも柔らかく、踏み込むたびに泥が履物へ入り込んだ。
雨は強くなかった。
けれど、山にはもっと降っている。
地面の下を通る水が、細い道へ集まっていた。
須佐之男は荷物を背負い直した。
前方に人影が見えた。
一人の娘が、道の脇で鍬を振っている。裾を膝まで上げ、泥を掘り上げては横へ積んでいた。少し離れたところには、枝や草の塊が置かれている。
須佐之男が近づくと、娘は手を止めずに言った。
「そこ、踏まないで」
彼は足を止めた。
履物のすぐ先に、浅い溝があった。
「掘ったばかりだから」
「見えてる」
「じゃあ、もう少し右」
須佐之男は右へ寄った。
娘は一度だけ彼を見て、また鍬を下ろした。
髪が頬に張りついている。払おうともせず、土へ入れた刃に体重をかけた。
湿った土が持ち上がる。
その下から、すぐに水がにじんだ。
「そこを掘っても、まだ来るぞ」
須佐之男が言うと、娘はようやく手を止めた。
「分かってる」
「上が詰まってる」
「それも分かってる」
彼女は道の先を指した。
平たい石を並べた小さな橋があった。その手前で水が膨れ、畦を越えて田へ流れ込んでいる。
「石が落ちたの。人を呼びに行ってもらったけど、まだ戻らないから」
須佐之男は橋へ近づいた。
しゃがみ、流れの縁へ指を入れる。
水が石の裏で渦を巻いていた。崩れた石に枝が引っ掛かり、その間を草と泥が埋めている。
強く押せば動くだろう。
彼は手を引いた。
「下には、何がある」
娘が彼を見る。
「下?」
「この水が出た先」
「家と、洗い場。その先は田」
「人は?」
「いると思うけど」
須佐之男は立ち上がった。
昨日までいた北の岸を思い出した。
川沿いの蔵。
床へ並べられた濡れた穀物。
「一度、離れてもらえるか」
娘は鍬を握り直した。
「何をするつもり?」
「詰まったものを外す。ただ、先に水を少し逃がしたい」
彼は周囲を見た。
橋の手前から、東へ低い地面が続いている。草の下には古い溝が残っていた。
「あっちは、どこへ行く」
「溜め池」
「使ってる?」
「今は、ほとんど」
「底は抜けてないか。もっと下へ流れたり」
娘の表情が少し変わった。
旅人が余計な口を出している、という顔ではなくなった。
「見てくる」
「俺も行く」
二人は、草の茂った溝へ足を向けた。
*
溜め池には、浅く水がたまっていた。
岸に草が伸び、底には落ち葉が積もっている。向こう側に土手があり、その先は雑木林だった。
須佐之男は土手を回った。
低く崩れているところが一か所あったが、水を入れても、そこへ届くまでには余裕がある。
「全部は入れない」
彼は言った。
「少し逃がして、橋の下を楽にする。それから石をどかす」
「川普請の人?」
娘が尋ねた。
「違う」
「じゃあ、どうして」
「水のことは、少し分かる」
少し、と言ってから、須佐之男は自分でその言葉を気にした。
娘は彼の顔を見た。
大げさなことを言わないので、かえって考えているようだった。
「石、重いよ」
「棒があれば動かせるかもしれない。ほかに人は」
「岩彦さんを呼んでもらってる」
「なら、その人が来るまでに道を掘る」
娘は橋のほうを見た。
田へ流れ込む水は、まだ増えている。
「分かった。私は下へ知らせてくる。鍬、使える?」
須佐之男は彼女の手元を見た。
「持てる」
「使えるかって聞いたんだけど」
「掘ればいいんだろ」
娘は少し迷ったあと、鍬を渡した。
「草の根に引っ掛かるから、無理に持ち上げないで。先に端を切って」
須佐之男は頷いた。
彼女が道を下っていく。
その背が家々の間へ消えてから、彼は鍬を振り下ろした。
刃は、根に引っ掛かった。
*
娘が戻ったとき、溝はまだ半分しか掘れていなかった。
須佐之男の袖には泥が跳ね、額には汗が浮いていた。
「下の人たちは離れた。水桶も上げてもらった」
「ああ」
彼は鍬を引いた。
根が抜け、泥の塊が足元へ転がる。
娘は溝の向こう側へしゃがみ、崩れた土を手で除けた。
「そこ、残して」
須佐之男が言った。
橋から来る水との間に、まだ薄い土の壁があった。
「最後に開ける」
「分かってる」
今度は彼女がそう答えた。
須佐之男は顔を上げた。
娘は少し笑った。
そのとき、道から声がした。
「奇稲田!」
老人が、長い棒を肩へ担いで歩いてきた。
後ろに若い男が一人ついている。
「橋か」
「うん。奥の石が落ちてる」
娘が立ち上がる。
老人は須佐之男を見た。
「手を貸してくれたのか」
「ああ」
「助かる。わしは岩彦だ」
「須佐之男」
名乗ると、老人は短く頷いた。
それだけだった。
須佐之男は続きを待ちかけ、鍬へ目を戻した。
ここでは、その名前を聞いても、誰も役目を思い出したりはしない。
岩彦は橋の下をのぞき、棒を差し入れた。
「こいつだけなら、動くんだがな。水が一度に来るぞ」
「先にこっちへ逃がす」
須佐之男は掘った溝を指した。
岩彦がその先を見る。
「古い池か」
「水を入れていいか」
「土手は見たか」
「見た」
老人は娘へ目を向けた。
彼女が頷く。
「私も見た。低いところまでは、まだある」
「なら、やろう」
岩彦が棒を握り直した。
*
土の壁を切ると、水が溝へ入った。
最初は細く、やがて泥を削りながら幅を広げる。
須佐之男は鍬を置き、流れの脇へ膝をついた。
手を沈める。
水を持ち上げる必要はなかった。
掘った道へ向けて、少し流れを寄せるだけでいい。
橋の前にたまっていた水が、ゆっくり下がった。
岩彦が声をかける。
「これでいいか」
「もう少し」
須佐之男は橋の下を確かめた。
石の裏にかかっていた圧が弱まる。
枝が一本、流れてきた。
「今」
岩彦と若い男が棒へ体重をかけた。
石が動く。
須佐之男は、その周囲へだけ水を回した。
泥がほどけ、石の片側が外れる。
娘が枝の塊を引いた。
「手、入れるな」
「枝だけ」
「石がずれる」
彼女はすぐ手を離し、鍬の柄で枝を引き寄せた。
石が低い音を立てて転がった。
橋の下から濁った水が出る。
須佐之男は息を詰めかけた。
北の岸の水が頭をよぎった。
けれど、ここには開けておいた溝がある。
下流に人がいないことも聞いた。
彼は流れを一度に戻さず、溜め池へ逃がす量を少しずつ減らした。
橋の下の水が澄み始めた。
砂と小石が見える。
「通った」
娘が言った。
岩彦は棒を下ろし、長く息を吐いた。
若い男が下流へ走っていく。
戻ってきたのは、少ししてからだった。
「大丈夫だ。洗い場もあふれてない」
須佐之男は水から手を抜いた。
指先が冷えて、少し白くなっていた。
*
岩彦は橋を見上げた。
「上も直さんとな」
須佐之男も見た。
石が外れたところだけ、橋の端が沈んでいる。
「今日は渡らないほうがいい」
「ああ。縄を張っとく」
老人が腰へ手を当てる。
「明日、木を持ってくるか」
若い男が頷いた。
二人は、どこから木を運ぶか話し始めた。
須佐之男は鍬を持ち上げ、娘へ返した。
彼女は受け取る前に、彼の手を見た。
「血、出てる」
掌の古い擦り傷が開いていた。
昨日までのものか、今日できたものか、須佐之男にはよく分からなかった。
「このくらい、平気だ」
娘は腰に挟んでいた布を取った。
「汚れてるけど、土をつけたままよりはいいと思う」
差し出され、彼は受け取った。
自分で手へ巻く。
結び目がうまく作れずにいると、娘が指を伸ばしかけた。
須佐之男は少し手を引いた。
「できる」
「そう」
彼女は待った。
ようやく結べたところで、頷いた。
「ありがとう。あのままだったら、下の田まで入ってた」
須佐之男は橋の下を見た。
水は、決めた道を流れている。
まだ先で曲がり、家の裏へ消えていく。
「あとで、もう一度見ろよ。山の水は、まだ来てる」
「うん」
娘は、彼の言葉を笑わなかった。
*
日が落ちかけていた。
岩彦たちが道を戻り、娘も鍬を担いだ。
須佐之男は荷物を背負った。
それを見て、彼女が尋ねた。
「どこまで行くの」
「人のいるところ」
娘は周囲を見た。
「いるけど」
「泊まれるところ、ないか」
「誰かを訪ねてきたんじゃないんだ」
「ああ」
彼女は少し考えた。
「村外れに小屋はある。今は道具を置いてるだけだけど、使えるか聞いてみる」
「誰に」
「岩彦さん」
「さっき聞けばよかったな」
「さっき言えばよかったんだよ」
須佐之男は言い返せなかった。
娘は歩き出した。
「まだ遠くへ行ってないから」
彼もついていった。
田の間の道は細く、並んで歩くと片方が水へ落ちそうになる。
須佐之男は少し後ろへ下がった。
「お前、何て呼ばれてた」
「さっき?」
「岩彦が」
「奇稲田」
娘が振り返る。
「奇稲田姫」
「姫?」
「名前。別に偉くないよ」
「そうは見えない」
「それ、どういう意味?」
「鍬、持ってた」
奇稲田姫は彼の手を見た。
「あなたも持ってたでしょう」
須佐之男は、少し笑った。
*
村の家々から、煙が上がっていた。
煮炊きの匂いがする。
道の端では子供が二人、泥で何かを作っていた。奇稲田姫が通ると、一人が顔を上げた。
「水、直った?」
「通ったよ。橋は渡っちゃ駄目だからね」
「どうして」
「直ってないから」
「今、直ったって」
「水は。橋はまだ」
子供は少し考えてから頷いた。
須佐之男が通ると、二人とも彼を見た。
知らない顔だから見ただけらしく、すぐ泥へ戻った。
村の中央で、年配の女が家から出てきた。
腕に白い布を抱えている。
「奇稲田。帰ったのね」
奇稲田姫の足が止まった。
「水路、どうだった?」
「岩彦さんたちと直した」
「そう。よかった」
女は布を持ち直した。
「少し寄っていってくれる? 丈を合わせたいの」
奇稲田姫は鍬の柄を握った。
「今日は、泥だらけだから」
「手を洗えばいいでしょう」
「明日じゃ駄目?」
女は困ったように笑った。
「日が決まってからでは、間に合わないかもしれないのよ。先にできることはしておかないと」
須佐之男は白い布を見た。
織殿に掛かっていたものとは違う。
すでに衣の形になっていた。
「何の服?」
女が彼へ目を向けた。
「旅の方?」
「ああ」
「山の祭りに使うものです」
須佐之男は奇稲田姫を見た。
「お前が着るのか」
彼女は答えなかった。
代わりに、女が言った。
「今年は、この子ですから」
道の向こうで、誰かが戸を閉めた。
奇稲田姫は女へ軽く頭を下げた。
「母さんに、話しておく」
返事を待たずに歩き出す。
須佐之男もあとを追った。
*
家が途切れるまで、奇稲田姫は何も言わなかった。
鍬を担ぐ肩を替え、一度だけ、掌で目元の髪を払った。
須佐之男は隣へ追いついた。
「祭りの役か」
「うん」
「嫌なら、そう言えば」
奇稲田姫が足を止めた。
須佐之男も止まる。
彼女は彼を見た。
さっき水路で向けられたものとは、違う目だった。
「言って、それで済むならね」
須佐之男は口を閉じた。
奇稲田姫は北の山を見た。
雲が低くかかり、頂は見えなかった。
「姉さんたちも、あの服を着たの」
須佐之男は彼女を見た。
「何人いる」
「七人」
「皆、同じ役を?」
奇稲田姫は頷いた。
「一年に一人ずつ、山へ行った」
須佐之男は山へ目を向けた。
木々の下を水が流れている。
浅いもの。
深いもの。
その先は、ここからでは分からない。
「今は、どこにいる」
奇稲田姫は答えなかった。
しばらくして、鍬を担ぎ直した。
「誰も、帰ってこなかった」
須佐之男は彼女へ向き直った。
奇稲田姫はもう歩き始めていた。
「今年は、私」
彼は、その背へ声をかけようとした。
助ける。
何とかする。
言いかけた言葉を、どちらも飲み込んだ。
代わりに、少し早足で追いついた。
「お前は、行きたいのか」
奇稲田姫の足が止まった。
彼女はすぐには振り返らなかった。
道の脇を、細い水が流れている。
やがて、低い声がした。
「行きたくない」
須佐之男は黙って聞いた。
奇稲田姫が振り向く。
泣いてはいなかった。
「私は、死にたくない」




