第10話 雨をしのぐ場所
須佐之男は、奇稲田姫の顔を見ていた。
死にたくない。
その言葉に、何か返さなければならない気がした。
山へ行けばいい。
何がいるのか確かめて、邪魔なものがいるなら追い払う。
そう考えかけ、北の山へ目を向けた。
木々の下に水の気配がある。それ以上は分からない。道も、山の中にいるものも、七人の姉がどうなったのかも。
須佐之男は、背負った荷物の紐を握った。
「祭りまで、どれくらいある」
奇稲田姫は少し意外そうな顔をした。
「まだ決まってない」
「決めるのは?」
「村長と、祭司の御影さん。川や山の様子を見て、話すんだって」
「話を聞けるか」
「聞けると思う。でも」
彼女は、途中で言葉を切った。
「何?」
「何でもない」
「言いかけただろ」
奇稲田姫は鍬の柄へ目を落とした。
「聞けば、分かると思ってる?」
須佐之男は答えなかった。
彼女は続けた。
「私も聞いたよ。姉さんたちが帰ってこないのに、どうして今年もやるのか。私が行けば、本当に何か変わるのか」
「何て言われた」
「村を守るためだって」
道の向こうで、夕餉を知らせる声がした。
奇稲田姫はそちらを見た。
「その先は、何度聞いても同じだった」
須佐之男は山へ向けていた身体を戻した。
「じゃあ、ほかのことを聞く」
「ほか?」
「まず、どこへ連れていくのか。誰が見てたのか。帰ってきたやつが、何を見たのか」
奇稲田姫は彼を見た。
少しして、目を伏せる。
「……小屋、先に聞きに行こう」
須佐之男は頷いた。
今夜、雨をしのぐ場所も決まっていなかった。
*
岩彦は、家の前で縄を綯っていた。
二人を見ると、手を止める。
「まだ何か詰まったか」
「水じゃないの」
奇稲田姫が答えた。
「この人、泊まるところがないんだって。村外れの小屋、使わせてもらえない?」
岩彦は須佐之男を見た。
肩の荷物。
泥のついた衣。
布を巻いた手。
「どなたかを訪ねてきたんじゃないのか」
「違う」
「行く先は」
「決めてない」
老人は少し考えた。
「屋根が傷んどるぞ」
「見れば直せるかもしれない」
「橋も、明日、直すつもりなんだが」
「手伝う」
返事が早かったので、岩彦は笑った。
「まだ何も頼んどらん」
「今、頼んだようなもんだろ」
「そうかもしれんな」
老人は縄を脇へ置き、立ち上がった。
「まず見てからだ。寝られないようなら、ほかを考えよう」
須佐之男は一度だけ奇稲田姫を見た。
彼女は、少し肩の力を抜いていた。
*
小屋の戸は、持ち上げなければ開かなかった。
岩彦が下へ手を入れ、横へ引く。
木の擦れる音がして、暗い部屋が現れた。
中には古い籠や、柄の折れた道具が積まれていた。奥に板敷きがあり、その一角だけが濡れている。
須佐之男は屋根を見た。
穴があった。
「なるほど」
「言っただろう」
岩彦は戸を押さえたまま笑った。
「この側なら濡れん。風向きが変わらなければな」
須佐之男は板敷きへ上がった。
少し軋んだが、抜けはしなかった。
窓はない。
戸を閉めれば、昼でも暗そうだった。
それでも、岩の下で夜を待つよりはよかった。
「ここでいい」
「三日は使ってくれ。その間に、先のことを考えなさい」
「三日で出ろってことか」
「長く住むなら、村長へ話を通したほうがいい。わしも道具を取りに来るし、全部空けておけるかは分からん」
須佐之男は周囲を見た。
ほとんどの道具は壊れているように見えたが、勝手にそう決めるのはやめた。
「動かしていいものは?」
岩彦は入口の籠を指した。
「それと、そこの板。木の箱は触らんでくれ。細かいものが入っとる」
須佐之男は頷いた。
奇稲田姫が鍬を壁へ立てかけ、籠を持ち上げる。
「これは外?」
「戸の脇へ」
須佐之男も板を抱えた。
部屋の隅から、乾いた土と藁くずが出てきた。
*
岩彦は、屋根に使えそうな板を持ってきてくれた。
長さは足りていた。
けれど、屋根へ上がるには足場がなかった。
須佐之男は外壁へ手をかけ、上を見た。
風で身体を持ち上げることはできる。
そこまで考えてから、岩彦へ向き直った。
「梯子、あるか」
「納屋にある。短いが」
「どこへ足を置けばいい」
岩彦が柱の位置を指した。
「そこの上だ。端は腐ってるから踏むな」
須佐之男は言われた場所を確かめた。
梯子を借り、板を一枚ずつ上へ運ぶ。
奇稲田姫は下で縄をほどいていた。
「これ、投げるよ」
「待て」
須佐之男は片手で柱をつかんだ。
「今」
縄の端が飛んでくる。
受け取り、屋根の上へ引き上げた。
湿った古い板を外すと、思っていたより穴が広かった。
「足りる?」
下から奇稲田姫が聞いた。
「重ねれば」
「端、浮いてるよ」
「今、押さえる」
片手ではうまくいかない。
須佐之男は姿勢を変え、膝で板を押さえた。上着の裾が汚れた。
繕い直された袖口にも、泥がついた。
彼は一瞬、それを見た。
「須佐之男?」
「ああ。聞いてる」
縄を通し、引いた。
結び目を二度、確かめる。
降りたときには、指先が痛くなっていた。
岩彦が屋根を見上げた。
「今夜は持つだろう」
「今夜は、って」
「降ってみないと分からん」
須佐之男は反論できなかった。
*
岩彦が帰ると、奇稲田姫は小屋の中を掃いた。
須佐之男は裏の水場から桶を運んだ。
水は細い溝を通り、石の隙間から落ちている。川へ直接つながってはいないらしい。
匂いを確かめ、少し手に取った。
小屋へ戻ると、奇稲田姫が言った。
「飲むなら沸かしてね」
「澄んでるぞ」
「雨のあとだから」
須佐之男は桶を置いた。
「火は起こせる」
「薪、湿ってるけど」
「細いのからなら」
荷物をほどき、月読にもらった袋を出した。
中は濡れていなかった。
火口を少し取り、石を打つ。
一度目は、何も起きなかった。
二度目で火花が飛んだ。
奇稲田姫は横からのぞこうとしたが、須佐之男が手で制した。
「風、入る」
「あ、ごめん」
細い煙が上がる。
息を強く吹かないように気をつけた。
小さな火が移ったとき、須佐之男はようやく肩を下ろした。
奇稲田姫が乾いた木屑を寄せた。
「ついたね」
「ああ」
高天原では、火がついていることを気にしたことがなかった。
今は、消えないようにしばらく見ていた。
*
奇稲田姫が帰り支度を始めた頃、戸口に男が立った。
肩幅が広く、衣の裾に泥がついている。
「ここにいたのか」
「父さん」
奇稲田姫が箒を止めた。
男は小屋の中を見た。
火。
桶。
床へ置かれた須佐之男の荷物。
「こちらの方は」
「須佐之男。橋のところ、手伝ってくれた人」
須佐之男は立ち上がった。
男は少し頭を下げた。
「足名椎です。娘が世話になりました」
「世話になってるのは、俺のほうだ」
足名椎は返事に迷ったようだった。
奇稲田姫が籠を持ち上げる。
「岩彦さんに、使っていいって言われたから」
「そうか」
足名椎は娘へ向き直った。
「母さんが待ってる」
「今、帰る」
須佐之男は、祭りのことを尋ねようとした。
彼女の父なら、何か知っているはずだった。
だが、奇稲田姫が先に鍬を持った。
柄を握る手が、少し固くなっていた。
須佐之男は口を閉じた。
足名椎は戸口を離れ、道のほうへ歩いた。
奇稲田姫は一度、小屋を見回した。
「水桶、火のそばに置きすぎないでね」
「分かってる」
「あと、戸は持ち上げて」
「もう覚えた」
「ならいい」
彼女は外へ出た。
須佐之男は、その背へ声をかけた。
「布」
奇稲田姫が振り返る。
彼は手へ巻いたものを示した。
「洗って返す」
「急がなくていいよ」
そう答えて、彼女は父のあとを追った。
*
一人になると、小屋は静かだった。
広くなったとは思わなかった。
空いた場所が、急に目につくようになった。
須佐之男は荷物から食べ物を出した。
残りは少ないが、今夜は足りる。
固くなった飯を少し崩し、借りた小鍋へ入れた。水を足し、火へ掛ける。
湯気が立つまでのあいだ、棚の上へ物を並べた。
小刀。
火打ちの袋。
潮津彦にもらった入り江の絵図。
最後の一つは、出してから少し迷った。
海はここから見えない。
舟の通る道も、この村では役に立たない。
それでも、巻き直して棚へ置いた。
飯が温まった頃、戸が鳴った。
「開いてる」
「開かない」
奇稲田姫の声だった。
須佐之男は立ち上がった。
戸を持ち上げて引くと、彼女は片腕に筵を抱えていた。もう片方の手には、小さな包みがある。
「覚えたんじゃなかったのか」
「手がふさがってるでしょう」
彼は筵を受け取った。
「どうした」
「岩彦さんの家へ返すものがあって。そのついで」
奇稲田姫は包みを床へ置いた。
「これは母さんから」
中には、煮た根菜と干した魚が入っていた。
須佐之男は鍋を見た。
奇稲田姫も見た。
「作ってたんだ」
「温めただけだ」
「ちゃんと食べるもの、持ってたんだね」
「少しな」
彼女は火の前へしゃがんだ。
須佐之男は筵を広げる。端がほつれていたが、床へ直接寝るよりはずっといい。
「これも、お前の家の?」
「使ってなかったから」
彼は頷いた。
何でも聞けばいいわけではないと、ようやく少し分かってきた。
*
須佐之男が食べ始めると、奇稲田姫は屋根を見上げた。
板の隙間から、空は見えなくなっていた。
「止まるといいね」
「止まる」
「雨が?」
「漏るのが」
「そう言ってるんだけど」
須佐之男は魚をほぐした。
塩気が強かった。
薄い飯へ混ぜると、ちょうどよくなった。
奇稲田姫は膝へ手を置き、しばらく火を見ていた。
「さっき」
彼女が言った。
「父さんに、聞かなかったね」
須佐之男は顔を上げた。
「祭りのこと」
「お前が嫌そうだった」
「……そう見えた?」
「ああ」
彼女は指先で、衣についた乾いた泥を落とした。
「聞かれて困るのは、父さんのほうかもしれない」
須佐之男は答えず、続きを待った。
奇稲田姫はそれ以上言わなかった。
代わりに、彼の荷物へ目を向けた。
「どこから来たの?」
須佐之男の箸が止まった。
高天原。
父と姉と月読がいるところ。
もう、戻って寝ることのできない部屋。
「海のほう」
彼は答えた。
「しばらく、海の仕事をしてた」
「それで、水のことが分かるんだ」
「少しは」
「今は、もうしてないの?」
「ああ」
奇稲田姫は彼を見た。
須佐之男は飯を口へ運んだ。
尋ねられれば話すしかないと思った。
けれど、彼女は聞かなかった。
「明日は橋だって。岩彦さん、朝早いよ」
「知ってる。明るくなったら行く」
「明るくなる前かもしれない」
「何で、そんなに急ぐんだ」
「橋が使えないと、刈った稲を遠回りで運ばないといけないから」
須佐之男は頷いた。
橋が壊れている。
だから直す。
誰が何に困っているのか、目に見える仕事だった。
「お前も来る?」
「朝だけ。あとは家の田へ行く」
「なら、道を教えてくれ」
「今日、歩いたでしょう」
「暗いと違う」
奇稲田姫は少し笑った。
「分かった。寄っていく」
*
帰る前に、彼女は戸口で立ち止まった。
「昼間のこと」
須佐之男は顔を上げた。
「水路?」
「そのあと」
彼は箸を置いた。
奇稲田姫は戸の縁へ指をかけた。
「誰にでも、あんな話をしてるわけじゃないから」
「分かってる」
「本当に?」
須佐之男は少し考えた。
「誰にも言わないほうがいいことがあるなら、先に教えてくれ」
彼女は黙った。
やがて、小さく頷いた。
「勝手に山へ行かないで」
須佐之男は北の方角を見た。
小屋の壁しか見えなかった。
「行かない。まだ、道も知らない」
「知ったら?」
彼は彼女へ向き直った。
「行く前に、言う」
奇稲田姫はしばらく彼を見た。
それから、戸を開けた。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
彼女が出ていく。
須佐之男は戸を閉め、持ち上げなければ動かない下の部分を見た。
ここも直したほうがいい。
屋根の次に。
*
夜、雨が戻ってきた。
須佐之男は筵へ横になり、天井を見ていた。
新しい板をたたく音がする。
最初は細かく、やがて間隔が詰まっていった。
まだ、水は落ちてこない。
彼は少し待ってから、肩の力を抜いた。
棚の上には、火打ちの袋がある。
その隣に、海の絵図。
身体の下には借りた筵があり、腹には温かい飯が入っている。
どれも、自分一人で揃えたものではなかった。
外で水が流れる音がした。
昼間の溝だろうか。
須佐之男は目を閉じ、浅い流れをたどった。
山から道へ。
橋の下から、田の間へ。
その先に、人の家がある。
彼は途中でやめた。
明日、歩いて確かめればいい。
眠りかけた頃、頬に冷たいものが触れた。
目を開ける。
もう一滴、同じ場所へ落ちた。
須佐之男はしばらく天井を睨んだ。
「……そこか」
桶を引き寄せ、筵を少しずらした。
雨粒が桶の底をたたいた。
明日は、橋。
それから、屋根の残り。
彼は濡れた頬を袖で拭き、今度こそ眠ろうとした。




