第11話 水の行き先
翌朝、戸を叩いたのは奇稲田姫ではなかった。
「おい、旅の人。起きてるか」
須佐之男は筵から身を起こした。
桶には、昨夜の雨が半分ほどたまっていた。寝返りを打った拍子に濡れたらしく、上着の裾が冷たい。
「起きた」
「岩彦爺さんが呼んでる」
戸を開けると、若い男が立っていた。
昨日、橋へ棒を運んできた男だった。
肩に縄を掛け、脇には短い斧を挟んでいる。
「宗太だ。覚えてないか」
「顔は覚えてる」
「ならいい。行こう」
須佐之男は鍬を持とうとして、もう返したことを思い出した。
代わりに小刀を腰へ差す。
「奇稲田は?」
「先に来てる。うちへ来る途中で会った」
「寄るって言ってたのに」
「お前を起こしてこいって頼まれたんだよ」
宗太は戸の下を見た。
「これ、開けにくいな」
「知ってる」
「爺さんに直してもらえばいい」
須佐之男は一度、屋根を見上げた。
「頼むことが増える」
「橋を手伝うんだろ。言えばいいさ」
宗太は、特に難しいことでもないように歩き出した。
*
橋のそばには、新しい木が運ばれていた。
昨日張られた縄の向こうで、岩彦が石を並べ直している。奇稲田姫はその横で、古い板から釘を抜いていた。
「おはよう」
彼女が顔を上げた。
「起きてた?」
「寝てた」
「そう」
素直に答えると、少し拍子抜けした顔になった。
須佐之男は橋の下をのぞいた。
水は通っている。
溜め池へ逃がした流れも、掘った溝の中に収まっていた。
けれど、昨日より泥の色が濃い。
彼は水際へ下りた。
「先に、これを運んでくれんか」
岩彦に呼ばれ、振り返る。
太い木の片端を、宗太が持ち上げていた。
須佐之男はそちらへ戻った。
まず、目の前のものを運ぶことにした。
*
橋を直す仕事は、思っていたより細かかった。
太い木を渡せば、それで終わりではない。
岸の土が崩れないように石を詰める。上に載せる板の向きを確かめる。反ったところへ薄い木を挟み、足を乗せても動かないようにする。
須佐之男は何度か、置いた木を持ち上げ直した。
「もう少し、こっち」
岩彦が指す。
「さっき、あっちって言っただろ」
「下の石が動いた」
「先に言えよ」
「今、動いたんだ」
宗太が笑った。
須佐之男は木を抱え直した。
川の流れなら、動き始める前に分かることがある。土と石と木は、持ち上げてみなければ分からないことが多かった。
奇稲田姫が抜いた釘を箱へ入れる。
「曲がってるの、どうする?」
「打ち直す。折れたのだけ分けといてくれ」
岩彦が答えた。
須佐之男はその箱を見た。
「新しいのはないのか」
「買えばある」
「買えば」
「買えばな」
それで話は終わった。
彼は、曲がった釘を指でつまんだ。
小さなものだった。
高天原では、床に落ちていれば誰かが拾い、いつの間にか片づいていた。
ここでは、まだ使うために分けている。
須佐之男は釘を箱へ戻した。
*
日が木々の上へ出る頃、道の下から女が来た。
空の桶を二つ持っている。
「奇稲田。水、何かした?」
奇稲田姫が手を止めた。
「昨日、橋のところを通したけど」
「洗い場に、ほとんど来ないの。今朝は皆、下の井戸まで行ってる」
須佐之男は橋の下を見た。
流れている。
少なくとも、止まってはいない。
「どこだ」
女へ尋ねると、宗太が道を指した。
「俺が連れていく。木は、あとでいいだろ」
岩彦が頷いた。
奇稲田姫も立ち上がる。
「私も行く」
「釘は?」
「戻ってから」
彼女は箱へ蓋をして、足元へ寄せた。
*
洗い場は、家々の裏にあった。
石を低く組み、桶を置けるようにしてある。水を受ける溝はあったが、底を細く濡らしているだけだった。
宗太がしゃがんだ。
「昨日は、あったのか」
「夕方はね」
女が答える。
須佐之男は溝へ指を入れた。
流れを上へたどる。
橋から来た水は、家の手前で分かれていた。その先で、何かにせき止められている。
「向こう」
彼は立ち上がった。
畑の端を回ると、小さな分かれ道があった。
片方には板が差し込まれ、もう片方へ水が多く流れている。流れた先には、まだ青い稲の残る田があった。
須佐之男が板へ手をかけると、奇稲田姫が言った。
「それ、誰かが入れたもの」
「見れば分かる」
「勝手に抜くと、田へ行かなくなる」
彼は手を離した。
宗太が田の中の男を呼んだ。
「水、変えたか!」
男が顔を上げる。
「朝から足りなかったんだ!」
「洗い場が止まってる!」
「昼には戻す!」
女が桶を地面へ置いた。
「昼まで待ってたら、朝の支度が終わらないよ!」
男は田から上がってきた。
裾が濡れ、膝に泥がついている。
「昨日、上で池へ逃がしただろう。あれで、こっちへ来る分が減ったんだ」
須佐之男は男を見た。
「池へ入れてるのは少しだ」
「少し減れば、うちは困る」
男は田を指した。
「植えるのが遅かった。まだ水が要るんだ。上の田とは違う」
須佐之男は稲を見た。
上の田より青いことは分かる。
だからどれくらい水が要るのかは、分からない。
彼は奇稲田姫へ目を向けた。
「そうなのか」
「うん。ここは、まだ落とせない」
女が腕を組んだ。
「だからって、こっちを全部止めることはないでしょう」
「全部じゃない。隙間は空けた」
「桶一つたまるまで、どれだけ待つと思ってるの」
男は口を閉じた。
宗太が分かれ道へしゃがみ、板の脇を見た。
「泥も詰まってるな」
須佐之男は、二つの流れを交互に見た。
橋を通したときには、水が下へ行けばいいと思っていた。
下にも、別々の行き先があった。
*
まず、溜め池へ送る量を減らした。
橋が直るまでは少し逃がしておく必要があったが、昨日ほどは要らなかった。
須佐之男が泥を寄せ、宗太が石を置く。
奇稲田姫は洗い場へ残り、水が戻るのを待った。
須佐之男は分かれ道へ戻った。
田の男と女が、まだ同じ場所にいた。
彼は板の下を見た。
「これ、底まで塞がなくても立つか」
男が板を持ち上げる。
「石を噛ませれば」
「下を空ける。田へも流して、洗い場にも通す」
「それじゃ、足りんかもしれん」
「どれくらい足りない」
男は答えに迷った。
須佐之男も、そこで初めて自分が同じ聞かれ方をしたことを思い出した。
どこまで水を上げるのか。
どれだけ流すのか。
海では、自分も「少し」と答えていた。
「今、田はどこまで入ってる」
尋ね直すと、男は畦へ下りた。
稲の根元に指を差す。
「ここまで欲しい」
須佐之男は頷いた。
宗太に頼み、細い枝を持ってきてもらう。
男が示した高さに傷をつけ、田の端へ立てた。
「そこまで来たら、板を戻す。それまでは下も空けておく」
女が言った。
「洗い場へ来る量を見てからね」
「ああ」
須佐之男は板の隙間に詰まった泥を取り除いた。
水が、二つに分かれた。
*
すぐに答えは出なかった。
田の水は、見ているだけでは分からないくらいゆっくり上がる。
洗い場から奇稲田姫が呼んだ。
「来たよ。でも、もう少し欲しい」
板を少し動かす。
今度は、男が田を見て首をひねった。
また少し戻す。
須佐之男は何度か、力で水を分けようとした。
そうすれば早い。
だが、自分が手を離したあとは、同じように流れない。
彼はしゃがみ、板を押さえる石の位置を変えた。
宗太が隣へ座る。
「地味だな」
「お前がやるか」
「やってるだろ」
二人で石を押した。
男が田から声をかけた。
「それで、しばらく見てみる」
洗い場では、桶に水を受ける音がし始めた。
*
橋へ戻ったときには、岩彦が一人で板を削っていた。
「遅かったな」
「下で揉めてた」
宗太が答える。
岩彦は驚かなかった。
「水の取り合いか」
「知ってたのかよ」
須佐之男が言うと、老人は板の角を確かめた。
「毎年、どこかでやっとる」
「先に教えろ」
「何を?」
須佐之男は口を閉じた。
何を教えてもらえばよかったのか、朝の自分には聞くこともできなかった。
奇稲田姫が籠を持って戻ってきた。
「洗い場の人から」
中には蒸した芋が入っていた。
「田のほうは?」
岩彦が尋ねる。
「まだ見てる。昼に、板を少し戻すって」
「なら、先に食おう」
須佐之男は芋を受け取った。
皮を割ると、湯気が上がった。
宗太が橋の木へ腰を下ろす。
「結局、どっちも助かったな」
「まだ分からない」
須佐之男は言った。
「昼に見に行く」
宗太は芋を口へ入れ、片手を上げた。
「そのときは呼べよ」
*
橋が渡れるようになったのは、昼を少し過ぎてからだった。
岩彦が最初に歩いた。
途中で止まり、足を踏み替え、端の板を確かめる。
「よし」
宗太が渡り、奇稲田姫が続いた。
須佐之男は最後に歩いた。
足の下で木が少したわんだが、動かなかった。
橋の向こうで、二人の子供が待っている。
岩彦が手を振った。
「もういいぞ。一人ずつな」
子供たちは順番を争い、結局、年下のほうが先に渡った。
須佐之男は欄干代わりの縄をつかんだ。
水が、橋の下を通っていく。
どこへ行くのか、朝よりは分かった。
まだ、全部ではなかった。
*
片づけをしていると、一人の男が道を上がってきた。
細い杖を持ち、腰に小さな袋を下げている。歩くたびに、袋の中で木片の触れ合う音がした。
奇稲田姫が先に気づいた。
「御影さん」
須佐之男は顔を上げた。
祭りの日を決める者の一人。
昨夜、聞いた名だった。
御影は橋を見た。
「直ったんだな」
「何とかね」
岩彦が答える。
「川を見てきたのか」
「ああ。今朝は少し高い。上で降ったらしい」
御影は水路の脇へ下り、濡れた石を確かめた。
袋から短い木片を出し、何かを刻む。
須佐之男はその手元を見た。
「毎日、残してるのか」
御影が振り返る。
「雨の多い時期は」
「どれくらい前から」
「私が受け持つようになってからは、ずっと」
須佐之男は御影のそばへ下りた。
「前のものもある?」
「あるが」
御影は彼を見た。
「君は?」
「須佐之男。昨日来た」
岩彦が上から言った。
「橋の下を通してくれた人だ。しばらく、わしの小屋を使ってもらう」
御影は頷いた。
「水の仕事をしていたのか」
「少し」
「記録を見て、何を調べたい」
須佐之男は奇稲田姫を見た。
彼女は橋の上に立っていた。
祭りの話をここで出していいか、分からなかった。
須佐之男は水へ視線を戻した。
「山から来る量と、流れる道」
御影は少し考えた。
「明日なら、川を見たあとで時間がある。寄合所へ来るといい」
「ああ」
思っていたより、簡単に返事があった。
須佐之男はもう一つ尋ねた。
「使ってない水路は?」
「どこの」
彼は溜め池の向こうを指した。
「あの下にも、古い流れがあるだろ」
御影の目がそちらへ向いた。
奇稲田姫も、北側の草地を見た。
「あの先は、もう使っていない」
「今も水がある」
「雨が染みているんだろう」
「道になってる。溜まってるだけじゃない」
御影は須佐之男へ向き直った。
「どこで見た?」
「見たわけじゃない」
男の眉が少し寄った。
須佐之男は言い方を探した。
「水の動きが、分かることがある」
御影はすぐには否定しなかった。
ただ、もう一度、溜め池のほうを見た。
「明日、記録と合わせよう。今日のうちに昔のものも出しておく」
そう言って、彼は袋へ木片を戻した。
*
御影が去ったあと、奇稲田姫が橋を下りてきた。
「聞けたね」
「ああ」
「祭りのことは、聞かなかったんだ」
「お前がいるところで、勝手に話していいか分からなかった」
彼女は須佐之男を見た。
少しして、頷く。
「明日、私も行く」
「畑は?」
「朝、先にやる。母さんにも言っておく」
須佐之男は橋の上を見た。
子供たちが、また渡ろうとして岩彦に止められていた。
遊ぶために直したんじゃない、と老人が言っている。
奇稲田姫が小さく笑った。
須佐之男は、溜め池のほうへ歩いた。
「どこ行くの」
「水を戻す。もう橋は直ったから」
「全部?」
「少し残す。池のほうも、急に変えると崩れるかもしれない」
奇稲田姫がついてきた。
二人で溝の入口へ石を置き、流れを細くする。
水が落ち着くまで待っていると、須佐之男は足元に冷たい気配を感じた。
浅い流れの、さらに下。
彼は手を地面へついた。
石と泥の奥を、水が動いていた。
山から下りてくる流れとは、向きが違う。
「何?」
奇稲田姫がしゃがむ。
須佐之男はしばらく動かなかった。
深い水が、細く引かれる。
止まる。
また、同じ方向へ動く。
「ここ、昔はどこへつながってた」
奇稲田姫は北の山を見た。
「父さんなら、知ってるかもしれない」
須佐之男は手を離した。
掌には、湿った土がついていた。
「聞いていいか」
彼女はすぐには答えなかった。
山を見たまま、少し考えた。
「私から聞く」
須佐之男は頷いた。
溝の水は、さっきより静かに流れていた。
その下の水がどこへ向かうのかは、まだ分からなかった。




