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出雲の雨  作者: 幕神成


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11/29

第11話 水の行き先

 翌朝、戸を叩いたのは奇稲田姫ではなかった。


「おい、旅の人。起きてるか」


 須佐之男は筵から身を起こした。


 桶には、昨夜の雨が半分ほどたまっていた。寝返りを打った拍子に濡れたらしく、上着の裾が冷たい。


「起きた」


「岩彦爺さんが呼んでる」


 戸を開けると、若い男が立っていた。


 昨日、橋へ棒を運んできた男だった。


 肩に縄を掛け、脇には短い斧を挟んでいる。


「宗太だ。覚えてないか」


「顔は覚えてる」


「ならいい。行こう」


 須佐之男は鍬を持とうとして、もう返したことを思い出した。


 代わりに小刀を腰へ差す。


「奇稲田は?」


「先に来てる。うちへ来る途中で会った」


「寄るって言ってたのに」


「お前を起こしてこいって頼まれたんだよ」


 宗太は戸の下を見た。


「これ、開けにくいな」


「知ってる」


「爺さんに直してもらえばいい」


 須佐之男は一度、屋根を見上げた。


「頼むことが増える」


「橋を手伝うんだろ。言えばいいさ」


 宗太は、特に難しいことでもないように歩き出した。


     *


 橋のそばには、新しい木が運ばれていた。


 昨日張られた縄の向こうで、岩彦が石を並べ直している。奇稲田姫はその横で、古い板から釘を抜いていた。


「おはよう」


 彼女が顔を上げた。


「起きてた?」


「寝てた」


「そう」


 素直に答えると、少し拍子抜けした顔になった。


 須佐之男は橋の下をのぞいた。


 水は通っている。


 溜め池へ逃がした流れも、掘った溝の中に収まっていた。


 けれど、昨日より泥の色が濃い。


 彼は水際へ下りた。


「先に、これを運んでくれんか」


 岩彦に呼ばれ、振り返る。


 太い木の片端を、宗太が持ち上げていた。


 須佐之男はそちらへ戻った。


 まず、目の前のものを運ぶことにした。


     *


 橋を直す仕事は、思っていたより細かかった。


 太い木を渡せば、それで終わりではない。


 岸の土が崩れないように石を詰める。上に載せる板の向きを確かめる。反ったところへ薄い木を挟み、足を乗せても動かないようにする。


 須佐之男は何度か、置いた木を持ち上げ直した。


「もう少し、こっち」


 岩彦が指す。


「さっき、あっちって言っただろ」


「下の石が動いた」


「先に言えよ」


「今、動いたんだ」


 宗太が笑った。


 須佐之男は木を抱え直した。


 川の流れなら、動き始める前に分かることがある。土と石と木は、持ち上げてみなければ分からないことが多かった。


 奇稲田姫が抜いた釘を箱へ入れる。


「曲がってるの、どうする?」


「打ち直す。折れたのだけ分けといてくれ」


 岩彦が答えた。


 須佐之男はその箱を見た。


「新しいのはないのか」


「買えばある」


「買えば」


「買えばな」


 それで話は終わった。


 彼は、曲がった釘を指でつまんだ。


 小さなものだった。


 高天原では、床に落ちていれば誰かが拾い、いつの間にか片づいていた。


 ここでは、まだ使うために分けている。


 須佐之男は釘を箱へ戻した。


     *


 日が木々の上へ出る頃、道の下から女が来た。


 空の桶を二つ持っている。


「奇稲田。水、何かした?」


 奇稲田姫が手を止めた。


「昨日、橋のところを通したけど」


「洗い場に、ほとんど来ないの。今朝は皆、下の井戸まで行ってる」


 須佐之男は橋の下を見た。


 流れている。


 少なくとも、止まってはいない。


「どこだ」


 女へ尋ねると、宗太が道を指した。


「俺が連れていく。木は、あとでいいだろ」


 岩彦が頷いた。


 奇稲田姫も立ち上がる。


「私も行く」


「釘は?」


「戻ってから」


 彼女は箱へ蓋をして、足元へ寄せた。


     *


 洗い場は、家々の裏にあった。


 石を低く組み、桶を置けるようにしてある。水を受ける溝はあったが、底を細く濡らしているだけだった。


 宗太がしゃがんだ。


「昨日は、あったのか」


「夕方はね」


 女が答える。


 須佐之男は溝へ指を入れた。


 流れを上へたどる。


 橋から来た水は、家の手前で分かれていた。その先で、何かにせき止められている。


「向こう」


 彼は立ち上がった。


 畑の端を回ると、小さな分かれ道があった。


 片方には板が差し込まれ、もう片方へ水が多く流れている。流れた先には、まだ青い稲の残る田があった。


 須佐之男が板へ手をかけると、奇稲田姫が言った。


「それ、誰かが入れたもの」


「見れば分かる」


「勝手に抜くと、田へ行かなくなる」


 彼は手を離した。


 宗太が田の中の男を呼んだ。


「水、変えたか!」


 男が顔を上げる。


「朝から足りなかったんだ!」


「洗い場が止まってる!」


「昼には戻す!」


 女が桶を地面へ置いた。


「昼まで待ってたら、朝の支度が終わらないよ!」


 男は田から上がってきた。


 裾が濡れ、膝に泥がついている。


「昨日、上で池へ逃がしただろう。あれで、こっちへ来る分が減ったんだ」


 須佐之男は男を見た。


「池へ入れてるのは少しだ」


「少し減れば、うちは困る」


 男は田を指した。


「植えるのが遅かった。まだ水が要るんだ。上の田とは違う」


 須佐之男は稲を見た。


 上の田より青いことは分かる。


 だからどれくらい水が要るのかは、分からない。


 彼は奇稲田姫へ目を向けた。


「そうなのか」


「うん。ここは、まだ落とせない」


 女が腕を組んだ。


「だからって、こっちを全部止めることはないでしょう」


「全部じゃない。隙間は空けた」


「桶一つたまるまで、どれだけ待つと思ってるの」


 男は口を閉じた。


 宗太が分かれ道へしゃがみ、板の脇を見た。


「泥も詰まってるな」


 須佐之男は、二つの流れを交互に見た。


 橋を通したときには、水が下へ行けばいいと思っていた。


 下にも、別々の行き先があった。


     *


 まず、溜め池へ送る量を減らした。


 橋が直るまでは少し逃がしておく必要があったが、昨日ほどは要らなかった。


 須佐之男が泥を寄せ、宗太が石を置く。


 奇稲田姫は洗い場へ残り、水が戻るのを待った。


 須佐之男は分かれ道へ戻った。


 田の男と女が、まだ同じ場所にいた。


 彼は板の下を見た。


「これ、底まで塞がなくても立つか」


 男が板を持ち上げる。


「石を噛ませれば」


「下を空ける。田へも流して、洗い場にも通す」


「それじゃ、足りんかもしれん」


「どれくらい足りない」


 男は答えに迷った。


 須佐之男も、そこで初めて自分が同じ聞かれ方をしたことを思い出した。


 どこまで水を上げるのか。


 どれだけ流すのか。


 海では、自分も「少し」と答えていた。


「今、田はどこまで入ってる」


 尋ね直すと、男は畦へ下りた。


 稲の根元に指を差す。


「ここまで欲しい」


 須佐之男は頷いた。


 宗太に頼み、細い枝を持ってきてもらう。


 男が示した高さに傷をつけ、田の端へ立てた。


「そこまで来たら、板を戻す。それまでは下も空けておく」


 女が言った。


「洗い場へ来る量を見てからね」


「ああ」


 須佐之男は板の隙間に詰まった泥を取り除いた。


 水が、二つに分かれた。


     *


 すぐに答えは出なかった。


 田の水は、見ているだけでは分からないくらいゆっくり上がる。


 洗い場から奇稲田姫が呼んだ。


「来たよ。でも、もう少し欲しい」


 板を少し動かす。


 今度は、男が田を見て首をひねった。


 また少し戻す。


 須佐之男は何度か、力で水を分けようとした。


 そうすれば早い。


 だが、自分が手を離したあとは、同じように流れない。


 彼はしゃがみ、板を押さえる石の位置を変えた。


 宗太が隣へ座る。


「地味だな」


「お前がやるか」


「やってるだろ」


 二人で石を押した。


 男が田から声をかけた。


「それで、しばらく見てみる」


 洗い場では、桶に水を受ける音がし始めた。


     *


 橋へ戻ったときには、岩彦が一人で板を削っていた。


「遅かったな」


「下で揉めてた」


 宗太が答える。


 岩彦は驚かなかった。


「水の取り合いか」


「知ってたのかよ」


 須佐之男が言うと、老人は板の角を確かめた。


「毎年、どこかでやっとる」


「先に教えろ」


「何を?」


 須佐之男は口を閉じた。


 何を教えてもらえばよかったのか、朝の自分には聞くこともできなかった。


 奇稲田姫が籠を持って戻ってきた。


「洗い場の人から」


 中には蒸した芋が入っていた。


「田のほうは?」


 岩彦が尋ねる。


「まだ見てる。昼に、板を少し戻すって」


「なら、先に食おう」


 須佐之男は芋を受け取った。


 皮を割ると、湯気が上がった。


 宗太が橋の木へ腰を下ろす。


「結局、どっちも助かったな」


「まだ分からない」


 須佐之男は言った。


「昼に見に行く」


 宗太は芋を口へ入れ、片手を上げた。


「そのときは呼べよ」


     *


 橋が渡れるようになったのは、昼を少し過ぎてからだった。


 岩彦が最初に歩いた。


 途中で止まり、足を踏み替え、端の板を確かめる。


「よし」


 宗太が渡り、奇稲田姫が続いた。


 須佐之男は最後に歩いた。


 足の下で木が少したわんだが、動かなかった。


 橋の向こうで、二人の子供が待っている。


 岩彦が手を振った。


「もういいぞ。一人ずつな」


 子供たちは順番を争い、結局、年下のほうが先に渡った。


 須佐之男は欄干代わりの縄をつかんだ。


 水が、橋の下を通っていく。


 どこへ行くのか、朝よりは分かった。


 まだ、全部ではなかった。


     *


 片づけをしていると、一人の男が道を上がってきた。


 細い杖を持ち、腰に小さな袋を下げている。歩くたびに、袋の中で木片の触れ合う音がした。


 奇稲田姫が先に気づいた。


「御影さん」


 須佐之男は顔を上げた。


 祭りの日を決める者の一人。


 昨夜、聞いた名だった。


 御影は橋を見た。


「直ったんだな」


「何とかね」


 岩彦が答える。


「川を見てきたのか」


「ああ。今朝は少し高い。上で降ったらしい」


 御影は水路の脇へ下り、濡れた石を確かめた。


 袋から短い木片を出し、何かを刻む。


 須佐之男はその手元を見た。


「毎日、残してるのか」


 御影が振り返る。


「雨の多い時期は」


「どれくらい前から」


「私が受け持つようになってからは、ずっと」


 須佐之男は御影のそばへ下りた。


「前のものもある?」


「あるが」


 御影は彼を見た。


「君は?」


「須佐之男。昨日来た」


 岩彦が上から言った。


「橋の下を通してくれた人だ。しばらく、わしの小屋を使ってもらう」


 御影は頷いた。


「水の仕事をしていたのか」


「少し」


「記録を見て、何を調べたい」


 須佐之男は奇稲田姫を見た。


 彼女は橋の上に立っていた。


 祭りの話をここで出していいか、分からなかった。


 須佐之男は水へ視線を戻した。


「山から来る量と、流れる道」


 御影は少し考えた。


「明日なら、川を見たあとで時間がある。寄合所へ来るといい」


「ああ」


 思っていたより、簡単に返事があった。


 須佐之男はもう一つ尋ねた。


「使ってない水路は?」


「どこの」


 彼は溜め池の向こうを指した。


「あの下にも、古い流れがあるだろ」


 御影の目がそちらへ向いた。


 奇稲田姫も、北側の草地を見た。


「あの先は、もう使っていない」


「今も水がある」


「雨が染みているんだろう」


「道になってる。溜まってるだけじゃない」


 御影は須佐之男へ向き直った。


「どこで見た?」


「見たわけじゃない」


 男の眉が少し寄った。


 須佐之男は言い方を探した。


「水の動きが、分かることがある」


 御影はすぐには否定しなかった。


 ただ、もう一度、溜め池のほうを見た。


「明日、記録と合わせよう。今日のうちに昔のものも出しておく」


 そう言って、彼は袋へ木片を戻した。


     *


 御影が去ったあと、奇稲田姫が橋を下りてきた。


「聞けたね」


「ああ」


「祭りのことは、聞かなかったんだ」


「お前がいるところで、勝手に話していいか分からなかった」


 彼女は須佐之男を見た。


 少しして、頷く。


「明日、私も行く」


「畑は?」


「朝、先にやる。母さんにも言っておく」


 須佐之男は橋の上を見た。


 子供たちが、また渡ろうとして岩彦に止められていた。


 遊ぶために直したんじゃない、と老人が言っている。


 奇稲田姫が小さく笑った。


 須佐之男は、溜め池のほうへ歩いた。


「どこ行くの」


「水を戻す。もう橋は直ったから」


「全部?」


「少し残す。池のほうも、急に変えると崩れるかもしれない」


 奇稲田姫がついてきた。


 二人で溝の入口へ石を置き、流れを細くする。


 水が落ち着くまで待っていると、須佐之男は足元に冷たい気配を感じた。


 浅い流れの、さらに下。


 彼は手を地面へついた。


 石と泥の奥を、水が動いていた。


 山から下りてくる流れとは、向きが違う。


「何?」


 奇稲田姫がしゃがむ。


 須佐之男はしばらく動かなかった。


 深い水が、細く引かれる。


 止まる。


 また、同じ方向へ動く。


「ここ、昔はどこへつながってた」


 奇稲田姫は北の山を見た。


「父さんなら、知ってるかもしれない」


 須佐之男は手を離した。


 掌には、湿った土がついていた。


「聞いていいか」


 彼女はすぐには答えなかった。


 山を見たまま、少し考えた。


「私から聞く」


 須佐之男は頷いた。


 溝の水は、さっきより静かに流れていた。


 その下の水がどこへ向かうのかは、まだ分からなかった。

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