↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
出雲の雨  作者: 幕神成


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/28

第12話「闇」

本当の闇は、太陽が消えたときに始まるとは限らない。誰かが、もう誰にも見られたくないと思った瞬間から、静かに始まっていることもある。

【高天原・数日後・夜明け前】


織殿の事故から、数日が過ぎていた。


高天原では、壊れたものを元へ戻すための仕事が続いている。織殿には新しい梁が運び込まれ、延期された祭りの日取りが改めて調整され、負傷した神使たちは医殿とそれぞれの居所を行き来していた。


須佐之男も毎日、織殿へ通っている。


命じられた木を運ぶ。瓦礫を片づける。必要なことだけをして、帰る。


それを繰り返していた。


けれど。


事故のあと始末をしていたのは、須佐之男だけではなかった。


日の御殿には、夜がまだ残っていた。


室内に灯っているのは、一つの燭台だけだった。


天照はその前に座り、積み上がった巻物へ目を通している。


祭りの延期。


神衣の作り直し。


織殿の修復。


負傷者への手当て。


葦原中国の日照。


雨。


風。


作物。


一つ読み終えれば、脇へ置く。


けれど、机の上の巻物はほとんど減らなかった。


戸の向こうから声がした。


「天照様」


「どうぞ」


神使が入り、頭を下げる。


「東の山火は収まりました。南方の雨も、今朝までには通常へ戻る見込みです」


「分かりました」


天照は筆を止めない。


神使はもう一度頭を下げた。


それでも、出ていかなかった。


天照がようやく顔を上げる。


「まだ何か?」


神使は少し言いにくそうに外を見る。


「……夜明けの刻です」


天照の手が止まった。


しばらくして、窓へ目を向ける。


夜の向こうに、薄い青が滲み始めていた。


「もう?」


誰かに聞かせるための声ではなかった。


天照は筆を置き、ゆっくり立ち上がった。


⸻


【高天原・日の高台】


朝の風は冷たかった。


天照はいつもの場所に立ち、目を閉じる。


静かに息を吸う。


その身体の周囲から、柔らかな光が広がり始めた。


東の空が白む。


雲が金色の縁を持つ。


高天原の神殿が、一つずつ朝の中へ姿を現していく。


いつもと同じ朝に見えた。


けれど。


夜殿の前に立っていた月読だけが、空を見上げた。


光が弱い。


ほとんどの者なら気づかないほどの差だった。


雲の色も。


石段に落ちる影も。


昨日までと大きくは変わらない。


それでも月読は、朝の空に残る白い半月を見た。


本来なら。


もう朝日に溶けているはずだった。


月読は眉を寄せた。


日の高台では、天照が目を開く。


その身体が、ほんの一瞬だけ揺れた。


すぐに背筋を伸ばす。


まるで。


今の一瞬など、なかったことにするように。


⸻


【高天原・織殿】


午前。


新しい木の匂いが、壊れた織殿の中へ混じり始めていた。


須佐之男は一本の木材を肩に担ぎ、決められた場所まで運ぶ。


掌にできた傷は、すでに薄いかさぶたになっている。


少し離れた場所では、真紗が腰を下ろしていた。


右手はまだ固定されたまま。


今日は左手で糸を分けている。


一本取る。


指から滑る。


床へ落ちる。


真紗は左手だけで拾う。


もう一度。


今度は別の糸が落ちた。


須佐之男は足を止める。


近づけば。


拾うくらいなら、すぐにできる。


以前なら。


もう手を出していたかもしれない。


けれど。


真紗は自分で糸を拾った。


須佐之男は何も言わず、木材を運んだ。


しばらくして。


真紗のほうから声がした。


「今日は静かですね」


須佐之男が振り向く。


「いつもうるさいみたいに言うなよ」


「以前は、かなり」


「……知ってる」


真紗が少し笑う。


須佐之男はまた木材を持ち上げた。


「みんな、静かなほうがいいだろ」


真紗の左手が止まる。


「そうでしょうか」


「そうだろ」


真紗は絡まった糸を一本ずつ分けながら言った。


「私は、物を壊さないでほしいとは思いました」


須佐之男は黙っている。


「でも」


真紗は糸を見る。


「何も言わない人になってほしいとは言っていません」


須佐之男はしばらく真紗を見ていた。


やがて。


「……難しいな」


とだけ言った。


真紗は小さく頷いた。


「そうですね」


糸がまた一本、指から落ちる。


今度も真紗は自分で拾った。


須佐之男も。


今度は立ち止まらなかった。


⸻


昼前。


織殿を出た須佐之男は、東の海へ続く道の入口で潮津彦に呼び止められた。


「須佐之男殿」


須佐之男が足を止める。


「何」


潮津彦は一巻の記録を差し出した。


「少し、海を見ていただきたい」


須佐之男はすぐには受け取らなかった。


「俺、まだ戻ってないだろ」


「戻したとは言っていません」


「じゃあ何で」


「見るだけです」


須佐之男は数秒、潮津彦を見る。


やがて記録を受け取った。


西岸の潮位。


南風。


河口の水量。


沿岸へ出ている舟の数。


以前なら。


最初に海そのものを見ていた。


今は。


記録を最後まで読んでから、遠くの水面へ目を向ける。


「午後、少し高くなる」


潮津彦が尋ねる。


「理由は」


「南風が昨日より強い。午前の河口の水も、まだ残ってる」


「では?」


須佐之男は海を見る。


少し考える。


「河神に、今の水量をもう一度聞く」


潮津彦は黙っている。


須佐之男は続けた。


「それから、西岸に戻っていない舟がないか確かめる」


「そのあと?」


「全部見てから決める」


潮津彦は一度だけ頷いた。


「行ってください」


須佐之男が顔を上げる。


「俺が?」


「はい」


その目が僅かに明るくなった。


けれど。


以前のようにすぐ笑うことはなかった。


「……分かった」


記録を握り、海岸へ向かう。


⸻


海彦は少し後ろを歩いていた。


須佐之男は途中で足を止める。


海彦も止まった。


「何ですか」


「お前さ」


「はい」


「そんな離れなくていい」


海彦が一瞬黙る。


「離れていません」


須佐之男は二人の間を見る。


「離れてる」


海彦も視線を落とした。


確かに。


以前より、少し距離があった。


海彦は迷ってから。


二歩だけ近づいた。


須佐之男が言う。


「もうちょっと来ても死なないぞ」


海彦の表情が固まった。


「……その冗談は、今は面白くありません」


須佐之男の口元が止まる。


海彦も言ってから少し顔を曇らせた。


「すみません」


「いや」


須佐之男は首を振る。


少し間を置いて。


「本当に面白くなかった」


海彦が顔を上げた。


須佐之男は前を向く。


「行くぞ。舟、見るんだろ」


海彦は一歩前へ出た。


今度は。


同じ速さで隣を歩いた。


⸻


【高天原・日の御殿】


午後になっても、天照の机から巻物は減っていなかった。


思兼神は向かいから、その様子をしばらく見ていた。


天照が一つ読み終える。


次を取る。


また次。


「天照様」


「何でしょう」


「今日は、ここまでになされては」


「まだ六つあります」


「明日でもよいものです」


「明日には、明日の六つが来ます」


思兼神は黙った。


天照はさらに筆を進める。


「ここ三日、ほとんどお休みになっておりません」


「休んでいます」


「いつですか」


天照の筆が止まる。


「思兼」


少し強い声だった。


思兼神は頭を下げた。


けれど席を立たない。


「申し訳ありません」


天照はまた巻物を見る。


思兼神が静かに言った。


「天照様が疲れても」


天照の目が上がる。


「代わりに朝を迎えられる者はおりません」


その一言だけが。


天照の手を止めた。


⸻


【高天原・神楽庭】


夕方には、まだ少し早かった。


天鈿女命は延期された祭りに備え、若い神使たちと神楽の型を確かめていた。


扇を開く。


一歩。


二歩。


そこで。


天鈿女は止まった。


「待って」


神使たちも足を止める。


天鈿女は空を見る。


「……暗くない?」


一人の神使が首を傾げる。


「そうでしょうか」


天鈿女は掌を上へ向けた。


そこへ落ちる光をじっと見る。


「まだ、この明るさになる刻じゃない」


神使たちも空を見る。


太陽はある。


雲に隠れているわけでもない。


それでも。


光だけが。


少し早く夕方へ向かっているようだった。


⸻


その頃。


東の海では、須佐之男が潮津彦へ報告していた。


「河口は問題ない。舟は五艘のうち三艘が戻った。残り二艘は西の漁場」


「では?」


「二艘が戻るまで、潮は動かさない」


潮津彦が頷く。


「それでよいでしょう」


須佐之男は。


「うん」


とだけ答えた。


潮津彦が少し意外そうに見る。


須佐之男が気づく。


「何」


「いえ」


「言えよ」


潮津彦は少し考えた。


「以前なら、私が一度『よい』と言えば、もっと嬉しそうにされました」


須佐之男は海を見る。


「昔は単純だったんだよ」


「そうでしょうか」


須佐之男が横を見る。


潮津彦は記録へ目を落とした。


「以前のほうが」


少しだけ間を置く。


「嬉しいときに、素直に嬉しそうでした」


須佐之男は答えなかった。


潮津彦も。


それ以上は言わなかった。


⸻


【高天原・日の御殿】


夜。


須佐之男は日の御殿の前に立っていた。


手には、小さな包みがある。


入口の神使が頭を下げる。


「須佐之男殿」


「姉さん、いる?」


「はい。ですが、まだ神務を」


「待つ」


須佐之男が柱のそばへ行こうとする。


神使が困った顔をした。


「申し訳ありません」


須佐之男が止まる。


「何」


「今夜は、どなたにもお会いにならないと」


須佐之男の表情が少し変わった。


「誰にも?」


「はい」


「月読も?」


神使は一瞬迷った。


「どなたにも、とのことです」


須佐之男は閉じた戸を見る。


「……俺まで『誰にも』に入るの?」


神使は答えられなかった。


須佐之男も。


答えを求めなかった。


手元の包みを見る。


しばらくして。


「じゃあ、これ渡して」


神使が受け取る。


軽い。


「何とお伝えしましょう」


須佐之男は口を開く。


「……今日は」


止まった。


小さく首を振る。


「何も言わなくていい」


そのまま帰っていった。


⸻


日の御殿の中。


神使が包みを机の隅へ置く。


「須佐之男殿からです」


天照の筆が止まった。


「そう」


「お呼びしますか」


「いいえ」


神使が出ていく。


天照は包みを見ない。


次の巻物を開く。


数行読む。


同じところを、もう一度読む。


また最初へ戻る。


やがて。


筆を置いた。


包みを開く。


中にあったのは。


小さな飯団だった。


昔。


須佐之男が自分のために残していたものと、よく似ている。


その下に。


小さく折られた紙があった。


天照は開く。


幼い頃から変わらない、不揃いな文字。


今日は、何も失敗しなかった。


天照は。


長い間。


その文字を見ていた。


やがて。


目を閉じる。


――どうして。


胸の奥で。


声にならない言葉が浮かぶ。


どうして。


そんなことまで。


私に知らせなければならなくなったのだろう。


誰も傷つけなかったことを。


今日は大丈夫だったと。


わざわざ。


目元に溜まったものは、まだ落ちなかった。


天照は紙を丁寧に折り。


袖へ入れた。


けれど。


立ち上がることはしなかった。


⸻


【高天原・月の池】


須佐之男は水辺に座っていた。


月読が来る。


隣へ座った。


「姉上のところへ行った?」


「うん」


「会えた?」


「会わないって」


月読は少し黙る。


須佐之男が言う。


「俺を避けてる?」


月読はすぐには答えなかった。


「そういうところもあると思う」


須佐之男の顔が硬くなる。


「やっぱり俺が怖いから?」


「それだけじゃない」


「じゃあ何」


月読は水面を見る。


「姉上は今、自分のことも分からなくなってるんだと思う」


須佐之男は黙る。


「真紗のことも」


少し間を置く。


「お前のことも」


月読はそこで言葉を止めた。


須佐之男が低く言う。


「じゃあ、俺のせいじゃん」


月読が見る。


「またそれ?」


須佐之男の眉が寄る。


「何が」


「何か起きるたびに」


月読は少しだけ考える。


「最後に、お前がどう見られてるかを確かめようとする」


須佐之男の顔が曇る。


「じゃあ、何を聞けばいいんだよ」


月読は短く答えた。


「姉上が今、どうしてるか」


須佐之男は何も言わなくなった。


池の水面で。


月だけが静かに揺れていた。


⸻


【高天原・医殿】


翌朝。


真紗は左手で文字を書く練習をしていた。


一画。


思ったところから外れる。


もう一画。


今度は止めたい場所を越える。


「……難しい」


小さく息を吐く。


戸が軽く叩かれた。


「入っていい?」


須佐之男だった。


真紗が少し驚く。


「どうぞ」


須佐之男は中へ入り。


今日は以前より少し近いところへ座った。


真紗の右手を見る。


「痛い?」


真紗が瞬く。


「たまに」


「夜は?」


「夜のほうが少し」


「眠れる?」


真紗は須佐之男の顔を見た。


「今日は、聞くことが違いますね」


須佐之男は少し居心地悪そうに目を逸らす。


「月読に言われた」


「何を?」


「自分のことばっかり気にするなって」


真紗は小さく笑った。


「珍しく役に立つことを言いましたね」


「本人に言うなよ。調子に乗るから」


真紗はまた笑った。


ほんの小さな笑いだった。


須佐之男も。


少しだけ笑った。


⸻


【高天原・日の御殿】


同じ頃。


天照はまた机へ向かっていた。


思兼神が報告を読み上げている。


その途中。


室内が、ふっと暗くなった。


思兼神の声が止まる。


「天照様?」


天照も顔を上げる。


窓の外の光が、明らかに弱い。


天照は立ち上がった。


目を閉じる。


淡い光が身体から広がる。


一度。


外は明るさを取り戻した。


けれど。


長くは続かなかった。


光がまた。


ゆっくり沈み始める。


天照の顔から血の気が引いた。


思兼神が一歩近づく。


「もうお休みください」


「大丈夫です」


「大丈夫ではありません」


「できます」


「天照様」


「できます!」


声が殿内に響いた。


その場にいた全員が動きを止めた。


天照自身も。


自分の声に驚いたように立ち尽くした。


しばらく。


誰も何も言わない。


天照は目を伏せる。


「……少し」


声が小さくなる。


「一人にしてください」


⸻


【葦原中国】


昼を過ぎたばかりだった。


それなのに。


光が弱い。


畑で働いていた老人が空を見上げる。


子供たちも手を止める。


開いていた花が。


少しずつ閉じ始める。


鳥が巣へ戻っていく。


海岸では。


阿国が濡れた網を抱えたまま空を見ていた。


「じいちゃん」


宗吉も手を止める。


「太陽、変じゃない?」


宗吉は長く空を見る。


「今日は早く戻れ」


「でも、網が」


「いい」


珍しく強い声だった。


阿国は何も言わず。


網を抱え直した。


海まで。


いつもより暗く見えた。


⸻


【高天原・東の海】


須佐之男も空の変化に気づいた。


海面から、光が少しずつ失われていく。


太陽はまだある。


それなのに。


何かがおかしい。


須佐之男は顔を上げる。


次の瞬間。


手にしていた記録を海彦へ押しつけた。


「持ってて」


「須佐之男殿?」


須佐之男はもう走り出していた。


潮津彦が呼ぶ。


「どこへ行くのです」


須佐之男は振り返らない。


「姉さん」


それだけ。


「姉さんがおかしい」


⸻


【高天原・日の御殿前】


日の御殿の前には、いつもより多くの神々が集まっていた。


思兼神。


月読。


天鈿女命。


数柱の神使。


須佐之男が駆けてくる。


「何があった?」


思兼神が答える。


「天照様が、誰にも会いたくないと」


須佐之男はそのまま戸へ向かう。


神使が前へ出た。


「須佐之男殿」


「どいて」


「今は」


「どいてって」


月読が腕を掴む。


「須佐之男」


「離せ。姉さんが中にいる」


「知ってる」


「じゃあ何で立ってるんだよ!」


月読は離さない。


そのとき。


別の声がした。


「本人が、誰も入れたくないと言ったからです」


須佐之男が振り向く。


天鈿女命だった。


明るい目をした女神だった。


けれど今は。


笑っていない。


須佐之男は戸を見る。


「俺まで駄目なの?」


誰もすぐには答えなかった。


その沈黙のあと。


天鈿女が言う。


「今は」


須佐之男を見る。


「須佐之男殿も、です」


須佐之男の表情が固まった。


⸻


【日の御殿・奥】


天照は灯りのない部屋に座っていた。


手には。


昨夜、須佐之男から届いた小さな紙がある。


今日は、何も失敗しなかった。


何度も読む。


読むたびに。


胸が痛む。


「どうして……」


声が震えた。


紙を握る。


「どうして、そんなことまで」


息が崩れる。


「私に言わなきゃいけないの……」


一滴。


涙が紙の端へ落ちた。


天照は目を閉じる。


誰も傷つけなかったことを。


何も壊さなかったことを。


そんな一日を。


弟が自分へ報告しなければならなくなった。


そして。


その言葉を読んで。


安心しかけた自分がいる。


そのことが。


何より苦しかった。


天照は両手で顔を覆った。


須佐之男は。


何も聞いていない。


それでも。


自分の中に浮かんだその安堵を。


天照自身が許せなかった。


⸻


戸の外から。


声がした。


「姉さん」


須佐之男だった。


天照の肩が僅かに動く。


「聞こえてるだろ」


返事はない。


戸の外で。


須佐之男が少し息を整える。


「今日、西岸は何もなかった」


言ってから。


止まる。


「……違う」


天照が顔を上げた。


「俺、それ言いに来たんじゃない」


少しの沈黙。


「真紗」


須佐之男の声が続く。


「今日、左手で字を書いてた」


天照の目が揺れる。


「すごく下手だった」


戸の外で、小さく息を吐く気配。


「俺が言えることじゃないけど」


天照の口元が。


ほんの少しだけ動いた。


「海彦は」


須佐之男は続ける。


「今日は隣を歩いた」


「潮津彦も、海を見ろって言った」


一つずつ。


今日あったことを置いていく。


自分がどう見られたかではなく。


誰が。


どうしていたかを。


長い沈黙のあと。


「姉さん」


須佐之男の声が少し小さくなる。


「姉さんは」


一度。


息を吸う。


「大丈夫?」


天照の唇が震えた。


大丈夫。


そう答えれば。


簡単だった。


いつもそうしてきた。


でも。


今日は。


その言葉が出なかった。


天照は。


何も答えられなかった。


窓の外で。


光がまた少し弱くなった。


⸻


須佐之男は戸の前で待った。


しばらく。


本当に長く。


返事はない。


以前なら。


戸を叩いていたかもしれない。


何で答えないと。


声を強くしていたかもしれない。


けれど。


須佐之男は目を伏せた。


「……分かった」


戸の向こうで。


天照が目を開く。


「今日は帰る」


少し間を置く。


「また明日来る」


足音が遠ざかる。


月読は何も言わなかった。


天鈿女が須佐之男の背へ声をかける。


「須佐之男殿」


須佐之男が振り返る。


「何」


天鈿女は閉じた戸を見る。


「今日は、一つ」


須佐之男を見る。


「よいことをしましたね」


須佐之男は顔をしかめる。


「何もしてない」


「ええ」


天鈿女は頷いた。


「入りませんでした」


須佐之男は黙った。


「入りたかった」


「はい」


「今も入りたい」


「それでも」


天鈿女は扉を見る。


「入らなかった」


須佐之男も。


同じ戸を見る。


しばらくして。


何も言わず立ち去った。


⸻


【高天原・翌朝】


朝の刻になった。


それでも。


高天原は薄暗かった。


昼間だというのに、神使たちは灯りを置いている。


庭の花は閉じたまま。


鳥たちは枝の上で鳴かない。


夜殿の高台で。


星野が空を見ていた。


月がある。


昨日よりも。


はっきりと。


「月読様」


「何」


「どうして」


星野は空を指す。


「朝なのに、まだ月が見えるんですか」


月読は日の御殿を見る。


しばらくして。


「太陽が」


静かに言った。


「まだ、朝まで来ていないから」


⸻


【高天原・伊邪那岐の居所】


思兼神から報告を受けた伊邪那岐は。


しばらく何も言わなかった。


「身体に異常は?」


「医神が確認した範囲では、ありません」


「なら、なぜ光が落ちる」


思兼神は少し迷う。


「身体ではないのかもしれません」


戸が開いた。


月読が入ってくる。


「父上」


伊邪那岐が見る。


「天照を休ませろ」


月読の表情が僅かに変わる。


「違う」


「何が」


「姉上は眠いんじゃない」


伊邪那岐の目が細くなる。


月読は父を見る。


「休めば戻るって話じゃない」


「では何だ」


月読は少し黙った。


やがて。


「姉上は」


言葉を選ぶ。


「外へ出て」


「また太陽にならなきゃいけない理由が」


一度止まる。


「今は、自分でも分からないんだと思う」


伊邪那岐は何も言わなかった。


その顔から。


いつもの答えだけが消えていた。


⸻


【日の御殿】


天照は一人だった。


外の声は聞こえる。


神使の足音。


遠くで自分を呼ぶ声。


けれど。


どれも遠かった。


掌を見る。


以前なら。


意識しなくても溢れていた光が。


今は弱い。


目を閉じる。


いくつもの声が浮かぶ。


責任を果たせ。


高天原を守れ。


まだ判断を待つ者がいる。


雨の夜。


須佐之男の声。


――姉さん、俺が怖い?


倒れた真紗。


血のついた白い糸。


そして。


もっと昔。


まだ何も背負っていなかった頃。


幼い須佐之男の声。


――姉さん。


――ずっといる?


天照は膝を抱えた。


ずっといる。


そう答えたはずだった。


誰かの姉でいること。


太陽でいること。


高天原を守ること。


間違えないこと。


いつから。


それらを全部。


同じものだと思うようになったのだろう。


一つでもできなければ。


残りまで失うような気がしていた。


天照は顔を伏せた。


今は。


外へ出たくなかった。


誰にも。


自分がどうしているのか。


見られたくなかった。


⸻


【高天原・海岸】


夕方。


須佐之男は海を見ていた。


空は朝からほとんど明るくなっていない。


海彦が隣へ来る。


今度は。


最初から近くに座った。


「天照様、出てこられました?」


「まだ」


「明日も行くんですか」


「行く」


須佐之男はすぐに答えた。


海彦が暗い空を見る。


「ずっと出てこられなかったら?」


須佐之男は黙る。


波が来る。


引く。


また来る。


しばらくして。


「じゃあ」


海を見たまま答える。


「ずっと行く」


海彦が横を見る。


須佐之男は少しだけ笑った。


「昔、俺がどこに逃げても」


「姉さん、探しに来たから」


「毎回?」


「毎回」


少し間を置く。


「怒ってても」


「忙しくても」


海彦が尋ねる。


「見つけてくれた?」


須佐之男が頷く。


「うん」


それから。


暗い空を見上げる。


「今度は、俺が行く」


⸻


【葦原中国・夕刻】


本来なら。


まだ空に光が残っている時間だった。


けれど。


村々では、すでに火が灯されていた。


農人は早く畑から戻る。


母親は子供たちを家へ呼ぶ。


森では夜の獣が。


いつもより早く姿を見せ始める。


川から光が消える。


海も。


黒くなる。


その暗さの下。


さらに深い水の底。


以前から沈んでいる黒い石があった。


表面を走る古い紋が。


淡く光る。


一つ。


二つ。


今度は。


消えなかった。


周囲の砂が僅かに揺れる。


小さな魚たちが一斉に離れていく。


さらに奥。


光の届かない深みで。


水の流れが。


ゆっくりと変わった。


ごう。


低い音が響く。


声ではない。


けれど。


長いあいだ眠っていた何かが。


暗闇の中で。


初めて深く息を吸ったようだった。


⸻


【高天原・日の御殿前・翌朝】


須佐之男は。


本当にまた来た。


手には何も持っていない。


飯団も。


木簡も。


海の記録も。


何も。


戸を叩くこともしなかった。


柱の前へ座る。


背を預ける。


天鈿女命が遠くを通りかかり。


須佐之男を見つけた。


けれど。


今日は声をかけなかった。


時間だけが過ぎる。


高天原は。


朝なのに暗い。


須佐之男は閉じた戸を見ない。


ただ前を見たまま。


小さく言った。


「姉さん」


返事はない。


「今日は何も持ってきてない」


静寂。


「海の話もしない」


少し間を置く。


「真紗の話も」


また。


長く黙る。


須佐之男は膝へ腕を置いた。


「俺」


一度、息を吐く。


「ここにいるだけにする」


戸の向こう。


天照がいた。


同じ戸に。


背を預けて座っている。


須佐之男は外。


天照は中。


二人の間にあるのは。


薄い一枚の戸だけだった。


昔なら。


その程度の距離など。


なかったようなものだった。


けれど今は。


須佐之男は開けない。


天照も開けない。


何も言わない。


ただ。


同じ戸の両側にいた。


やがて。


高天原に残っていた最後の光が。


ゆっくりと薄れていった。


白い石段から色が消える。


神殿の輪郭が闇へ沈む。


空に残っていた光も。


最後には消えた。


白昼の高天原に。


完全な闇が落ちる。


須佐之男が顔を上げる。


戸の内側で。


天照も。


同じ瞬間に目を開いた。


それでも。


戸は開かなかった。


太陽にも。


誰にも見られたくない朝がある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。