第12話「闇」
本当の闇は、太陽が消えたときに始まるとは限らない。誰かが、もう誰にも見られたくないと思った瞬間から、静かに始まっていることもある。
【高天原・数日後・夜明け前】
織殿の事故から、数日が過ぎていた。
高天原では、壊れたものを元へ戻すための仕事が続いている。織殿には新しい梁が運び込まれ、延期された祭りの日取りが改めて調整され、負傷した神使たちは医殿とそれぞれの居所を行き来していた。
須佐之男も毎日、織殿へ通っている。
命じられた木を運ぶ。瓦礫を片づける。必要なことだけをして、帰る。
それを繰り返していた。
けれど。
事故のあと始末をしていたのは、須佐之男だけではなかった。
日の御殿には、夜がまだ残っていた。
室内に灯っているのは、一つの燭台だけだった。
天照はその前に座り、積み上がった巻物へ目を通している。
祭りの延期。
神衣の作り直し。
織殿の修復。
負傷者への手当て。
葦原中国の日照。
雨。
風。
作物。
一つ読み終えれば、脇へ置く。
けれど、机の上の巻物はほとんど減らなかった。
戸の向こうから声がした。
「天照様」
「どうぞ」
神使が入り、頭を下げる。
「東の山火は収まりました。南方の雨も、今朝までには通常へ戻る見込みです」
「分かりました」
天照は筆を止めない。
神使はもう一度頭を下げた。
それでも、出ていかなかった。
天照がようやく顔を上げる。
「まだ何か?」
神使は少し言いにくそうに外を見る。
「……夜明けの刻です」
天照の手が止まった。
しばらくして、窓へ目を向ける。
夜の向こうに、薄い青が滲み始めていた。
「もう?」
誰かに聞かせるための声ではなかった。
天照は筆を置き、ゆっくり立ち上がった。
⸻
【高天原・日の高台】
朝の風は冷たかった。
天照はいつもの場所に立ち、目を閉じる。
静かに息を吸う。
その身体の周囲から、柔らかな光が広がり始めた。
東の空が白む。
雲が金色の縁を持つ。
高天原の神殿が、一つずつ朝の中へ姿を現していく。
いつもと同じ朝に見えた。
けれど。
夜殿の前に立っていた月読だけが、空を見上げた。
光が弱い。
ほとんどの者なら気づかないほどの差だった。
雲の色も。
石段に落ちる影も。
昨日までと大きくは変わらない。
それでも月読は、朝の空に残る白い半月を見た。
本来なら。
もう朝日に溶けているはずだった。
月読は眉を寄せた。
日の高台では、天照が目を開く。
その身体が、ほんの一瞬だけ揺れた。
すぐに背筋を伸ばす。
まるで。
今の一瞬など、なかったことにするように。
⸻
【高天原・織殿】
午前。
新しい木の匂いが、壊れた織殿の中へ混じり始めていた。
須佐之男は一本の木材を肩に担ぎ、決められた場所まで運ぶ。
掌にできた傷は、すでに薄いかさぶたになっている。
少し離れた場所では、真紗が腰を下ろしていた。
右手はまだ固定されたまま。
今日は左手で糸を分けている。
一本取る。
指から滑る。
床へ落ちる。
真紗は左手だけで拾う。
もう一度。
今度は別の糸が落ちた。
須佐之男は足を止める。
近づけば。
拾うくらいなら、すぐにできる。
以前なら。
もう手を出していたかもしれない。
けれど。
真紗は自分で糸を拾った。
須佐之男は何も言わず、木材を運んだ。
しばらくして。
真紗のほうから声がした。
「今日は静かですね」
須佐之男が振り向く。
「いつもうるさいみたいに言うなよ」
「以前は、かなり」
「……知ってる」
真紗が少し笑う。
須佐之男はまた木材を持ち上げた。
「みんな、静かなほうがいいだろ」
真紗の左手が止まる。
「そうでしょうか」
「そうだろ」
真紗は絡まった糸を一本ずつ分けながら言った。
「私は、物を壊さないでほしいとは思いました」
須佐之男は黙っている。
「でも」
真紗は糸を見る。
「何も言わない人になってほしいとは言っていません」
須佐之男はしばらく真紗を見ていた。
やがて。
「……難しいな」
とだけ言った。
真紗は小さく頷いた。
「そうですね」
糸がまた一本、指から落ちる。
今度も真紗は自分で拾った。
須佐之男も。
今度は立ち止まらなかった。
⸻
昼前。
織殿を出た須佐之男は、東の海へ続く道の入口で潮津彦に呼び止められた。
「須佐之男殿」
須佐之男が足を止める。
「何」
潮津彦は一巻の記録を差し出した。
「少し、海を見ていただきたい」
須佐之男はすぐには受け取らなかった。
「俺、まだ戻ってないだろ」
「戻したとは言っていません」
「じゃあ何で」
「見るだけです」
須佐之男は数秒、潮津彦を見る。
やがて記録を受け取った。
西岸の潮位。
南風。
河口の水量。
沿岸へ出ている舟の数。
以前なら。
最初に海そのものを見ていた。
今は。
記録を最後まで読んでから、遠くの水面へ目を向ける。
「午後、少し高くなる」
潮津彦が尋ねる。
「理由は」
「南風が昨日より強い。午前の河口の水も、まだ残ってる」
「では?」
須佐之男は海を見る。
少し考える。
「河神に、今の水量をもう一度聞く」
潮津彦は黙っている。
須佐之男は続けた。
「それから、西岸に戻っていない舟がないか確かめる」
「そのあと?」
「全部見てから決める」
潮津彦は一度だけ頷いた。
「行ってください」
須佐之男が顔を上げる。
「俺が?」
「はい」
その目が僅かに明るくなった。
けれど。
以前のようにすぐ笑うことはなかった。
「……分かった」
記録を握り、海岸へ向かう。
⸻
海彦は少し後ろを歩いていた。
須佐之男は途中で足を止める。
海彦も止まった。
「何ですか」
「お前さ」
「はい」
「そんな離れなくていい」
海彦が一瞬黙る。
「離れていません」
須佐之男は二人の間を見る。
「離れてる」
海彦も視線を落とした。
確かに。
以前より、少し距離があった。
海彦は迷ってから。
二歩だけ近づいた。
須佐之男が言う。
「もうちょっと来ても死なないぞ」
海彦の表情が固まった。
「……その冗談は、今は面白くありません」
須佐之男の口元が止まる。
海彦も言ってから少し顔を曇らせた。
「すみません」
「いや」
須佐之男は首を振る。
少し間を置いて。
「本当に面白くなかった」
海彦が顔を上げた。
須佐之男は前を向く。
「行くぞ。舟、見るんだろ」
海彦は一歩前へ出た。
今度は。
同じ速さで隣を歩いた。
⸻
【高天原・日の御殿】
午後になっても、天照の机から巻物は減っていなかった。
思兼神は向かいから、その様子をしばらく見ていた。
天照が一つ読み終える。
次を取る。
また次。
「天照様」
「何でしょう」
「今日は、ここまでになされては」
「まだ六つあります」
「明日でもよいものです」
「明日には、明日の六つが来ます」
思兼神は黙った。
天照はさらに筆を進める。
「ここ三日、ほとんどお休みになっておりません」
「休んでいます」
「いつですか」
天照の筆が止まる。
「思兼」
少し強い声だった。
思兼神は頭を下げた。
けれど席を立たない。
「申し訳ありません」
天照はまた巻物を見る。
思兼神が静かに言った。
「天照様が疲れても」
天照の目が上がる。
「代わりに朝を迎えられる者はおりません」
その一言だけが。
天照の手を止めた。
⸻
【高天原・神楽庭】
夕方には、まだ少し早かった。
天鈿女命は延期された祭りに備え、若い神使たちと神楽の型を確かめていた。
扇を開く。
一歩。
二歩。
そこで。
天鈿女は止まった。
「待って」
神使たちも足を止める。
天鈿女は空を見る。
「……暗くない?」
一人の神使が首を傾げる。
「そうでしょうか」
天鈿女は掌を上へ向けた。
そこへ落ちる光をじっと見る。
「まだ、この明るさになる刻じゃない」
神使たちも空を見る。
太陽はある。
雲に隠れているわけでもない。
それでも。
光だけが。
少し早く夕方へ向かっているようだった。
⸻
その頃。
東の海では、須佐之男が潮津彦へ報告していた。
「河口は問題ない。舟は五艘のうち三艘が戻った。残り二艘は西の漁場」
「では?」
「二艘が戻るまで、潮は動かさない」
潮津彦が頷く。
「それでよいでしょう」
須佐之男は。
「うん」
とだけ答えた。
潮津彦が少し意外そうに見る。
須佐之男が気づく。
「何」
「いえ」
「言えよ」
潮津彦は少し考えた。
「以前なら、私が一度『よい』と言えば、もっと嬉しそうにされました」
須佐之男は海を見る。
「昔は単純だったんだよ」
「そうでしょうか」
須佐之男が横を見る。
潮津彦は記録へ目を落とした。
「以前のほうが」
少しだけ間を置く。
「嬉しいときに、素直に嬉しそうでした」
須佐之男は答えなかった。
潮津彦も。
それ以上は言わなかった。
⸻
【高天原・日の御殿】
夜。
須佐之男は日の御殿の前に立っていた。
手には、小さな包みがある。
入口の神使が頭を下げる。
「須佐之男殿」
「姉さん、いる?」
「はい。ですが、まだ神務を」
「待つ」
須佐之男が柱のそばへ行こうとする。
神使が困った顔をした。
「申し訳ありません」
須佐之男が止まる。
「何」
「今夜は、どなたにもお会いにならないと」
須佐之男の表情が少し変わった。
「誰にも?」
「はい」
「月読も?」
神使は一瞬迷った。
「どなたにも、とのことです」
須佐之男は閉じた戸を見る。
「……俺まで『誰にも』に入るの?」
神使は答えられなかった。
須佐之男も。
答えを求めなかった。
手元の包みを見る。
しばらくして。
「じゃあ、これ渡して」
神使が受け取る。
軽い。
「何とお伝えしましょう」
須佐之男は口を開く。
「……今日は」
止まった。
小さく首を振る。
「何も言わなくていい」
そのまま帰っていった。
⸻
日の御殿の中。
神使が包みを机の隅へ置く。
「須佐之男殿からです」
天照の筆が止まった。
「そう」
「お呼びしますか」
「いいえ」
神使が出ていく。
天照は包みを見ない。
次の巻物を開く。
数行読む。
同じところを、もう一度読む。
また最初へ戻る。
やがて。
筆を置いた。
包みを開く。
中にあったのは。
小さな飯団だった。
昔。
須佐之男が自分のために残していたものと、よく似ている。
その下に。
小さく折られた紙があった。
天照は開く。
幼い頃から変わらない、不揃いな文字。
今日は、何も失敗しなかった。
天照は。
長い間。
その文字を見ていた。
やがて。
目を閉じる。
――どうして。
胸の奥で。
声にならない言葉が浮かぶ。
どうして。
そんなことまで。
私に知らせなければならなくなったのだろう。
誰も傷つけなかったことを。
今日は大丈夫だったと。
わざわざ。
目元に溜まったものは、まだ落ちなかった。
天照は紙を丁寧に折り。
袖へ入れた。
けれど。
立ち上がることはしなかった。
⸻
【高天原・月の池】
須佐之男は水辺に座っていた。
月読が来る。
隣へ座った。
「姉上のところへ行った?」
「うん」
「会えた?」
「会わないって」
月読は少し黙る。
須佐之男が言う。
「俺を避けてる?」
月読はすぐには答えなかった。
「そういうところもあると思う」
須佐之男の顔が硬くなる。
「やっぱり俺が怖いから?」
「それだけじゃない」
「じゃあ何」
月読は水面を見る。
「姉上は今、自分のことも分からなくなってるんだと思う」
須佐之男は黙る。
「真紗のことも」
少し間を置く。
「お前のことも」
月読はそこで言葉を止めた。
須佐之男が低く言う。
「じゃあ、俺のせいじゃん」
月読が見る。
「またそれ?」
須佐之男の眉が寄る。
「何が」
「何か起きるたびに」
月読は少しだけ考える。
「最後に、お前がどう見られてるかを確かめようとする」
須佐之男の顔が曇る。
「じゃあ、何を聞けばいいんだよ」
月読は短く答えた。
「姉上が今、どうしてるか」
須佐之男は何も言わなくなった。
池の水面で。
月だけが静かに揺れていた。
⸻
【高天原・医殿】
翌朝。
真紗は左手で文字を書く練習をしていた。
一画。
思ったところから外れる。
もう一画。
今度は止めたい場所を越える。
「……難しい」
小さく息を吐く。
戸が軽く叩かれた。
「入っていい?」
須佐之男だった。
真紗が少し驚く。
「どうぞ」
須佐之男は中へ入り。
今日は以前より少し近いところへ座った。
真紗の右手を見る。
「痛い?」
真紗が瞬く。
「たまに」
「夜は?」
「夜のほうが少し」
「眠れる?」
真紗は須佐之男の顔を見た。
「今日は、聞くことが違いますね」
須佐之男は少し居心地悪そうに目を逸らす。
「月読に言われた」
「何を?」
「自分のことばっかり気にするなって」
真紗は小さく笑った。
「珍しく役に立つことを言いましたね」
「本人に言うなよ。調子に乗るから」
真紗はまた笑った。
ほんの小さな笑いだった。
須佐之男も。
少しだけ笑った。
⸻
【高天原・日の御殿】
同じ頃。
天照はまた机へ向かっていた。
思兼神が報告を読み上げている。
その途中。
室内が、ふっと暗くなった。
思兼神の声が止まる。
「天照様?」
天照も顔を上げる。
窓の外の光が、明らかに弱い。
天照は立ち上がった。
目を閉じる。
淡い光が身体から広がる。
一度。
外は明るさを取り戻した。
けれど。
長くは続かなかった。
光がまた。
ゆっくり沈み始める。
天照の顔から血の気が引いた。
思兼神が一歩近づく。
「もうお休みください」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「できます」
「天照様」
「できます!」
声が殿内に響いた。
その場にいた全員が動きを止めた。
天照自身も。
自分の声に驚いたように立ち尽くした。
しばらく。
誰も何も言わない。
天照は目を伏せる。
「……少し」
声が小さくなる。
「一人にしてください」
⸻
【葦原中国】
昼を過ぎたばかりだった。
それなのに。
光が弱い。
畑で働いていた老人が空を見上げる。
子供たちも手を止める。
開いていた花が。
少しずつ閉じ始める。
鳥が巣へ戻っていく。
海岸では。
阿国が濡れた網を抱えたまま空を見ていた。
「じいちゃん」
宗吉も手を止める。
「太陽、変じゃない?」
宗吉は長く空を見る。
「今日は早く戻れ」
「でも、網が」
「いい」
珍しく強い声だった。
阿国は何も言わず。
網を抱え直した。
海まで。
いつもより暗く見えた。
⸻
【高天原・東の海】
須佐之男も空の変化に気づいた。
海面から、光が少しずつ失われていく。
太陽はまだある。
それなのに。
何かがおかしい。
須佐之男は顔を上げる。
次の瞬間。
手にしていた記録を海彦へ押しつけた。
「持ってて」
「須佐之男殿?」
須佐之男はもう走り出していた。
潮津彦が呼ぶ。
「どこへ行くのです」
須佐之男は振り返らない。
「姉さん」
それだけ。
「姉さんがおかしい」
⸻
【高天原・日の御殿前】
日の御殿の前には、いつもより多くの神々が集まっていた。
思兼神。
月読。
天鈿女命。
数柱の神使。
須佐之男が駆けてくる。
「何があった?」
思兼神が答える。
「天照様が、誰にも会いたくないと」
須佐之男はそのまま戸へ向かう。
神使が前へ出た。
「須佐之男殿」
「どいて」
「今は」
「どいてって」
月読が腕を掴む。
「須佐之男」
「離せ。姉さんが中にいる」
「知ってる」
「じゃあ何で立ってるんだよ!」
月読は離さない。
そのとき。
別の声がした。
「本人が、誰も入れたくないと言ったからです」
須佐之男が振り向く。
天鈿女命だった。
明るい目をした女神だった。
けれど今は。
笑っていない。
須佐之男は戸を見る。
「俺まで駄目なの?」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙のあと。
天鈿女が言う。
「今は」
須佐之男を見る。
「須佐之男殿も、です」
須佐之男の表情が固まった。
⸻
【日の御殿・奥】
天照は灯りのない部屋に座っていた。
手には。
昨夜、須佐之男から届いた小さな紙がある。
今日は、何も失敗しなかった。
何度も読む。
読むたびに。
胸が痛む。
「どうして……」
声が震えた。
紙を握る。
「どうして、そんなことまで」
息が崩れる。
「私に言わなきゃいけないの……」
一滴。
涙が紙の端へ落ちた。
天照は目を閉じる。
誰も傷つけなかったことを。
何も壊さなかったことを。
そんな一日を。
弟が自分へ報告しなければならなくなった。
そして。
その言葉を読んで。
安心しかけた自分がいる。
そのことが。
何より苦しかった。
天照は両手で顔を覆った。
須佐之男は。
何も聞いていない。
それでも。
自分の中に浮かんだその安堵を。
天照自身が許せなかった。
⸻
戸の外から。
声がした。
「姉さん」
須佐之男だった。
天照の肩が僅かに動く。
「聞こえてるだろ」
返事はない。
戸の外で。
須佐之男が少し息を整える。
「今日、西岸は何もなかった」
言ってから。
止まる。
「……違う」
天照が顔を上げた。
「俺、それ言いに来たんじゃない」
少しの沈黙。
「真紗」
須佐之男の声が続く。
「今日、左手で字を書いてた」
天照の目が揺れる。
「すごく下手だった」
戸の外で、小さく息を吐く気配。
「俺が言えることじゃないけど」
天照の口元が。
ほんの少しだけ動いた。
「海彦は」
須佐之男は続ける。
「今日は隣を歩いた」
「潮津彦も、海を見ろって言った」
一つずつ。
今日あったことを置いていく。
自分がどう見られたかではなく。
誰が。
どうしていたかを。
長い沈黙のあと。
「姉さん」
須佐之男の声が少し小さくなる。
「姉さんは」
一度。
息を吸う。
「大丈夫?」
天照の唇が震えた。
大丈夫。
そう答えれば。
簡単だった。
いつもそうしてきた。
でも。
今日は。
その言葉が出なかった。
天照は。
何も答えられなかった。
窓の外で。
光がまた少し弱くなった。
⸻
須佐之男は戸の前で待った。
しばらく。
本当に長く。
返事はない。
以前なら。
戸を叩いていたかもしれない。
何で答えないと。
声を強くしていたかもしれない。
けれど。
須佐之男は目を伏せた。
「……分かった」
戸の向こうで。
天照が目を開く。
「今日は帰る」
少し間を置く。
「また明日来る」
足音が遠ざかる。
月読は何も言わなかった。
天鈿女が須佐之男の背へ声をかける。
「須佐之男殿」
須佐之男が振り返る。
「何」
天鈿女は閉じた戸を見る。
「今日は、一つ」
須佐之男を見る。
「よいことをしましたね」
須佐之男は顔をしかめる。
「何もしてない」
「ええ」
天鈿女は頷いた。
「入りませんでした」
須佐之男は黙った。
「入りたかった」
「はい」
「今も入りたい」
「それでも」
天鈿女は扉を見る。
「入らなかった」
須佐之男も。
同じ戸を見る。
しばらくして。
何も言わず立ち去った。
⸻
【高天原・翌朝】
朝の刻になった。
それでも。
高天原は薄暗かった。
昼間だというのに、神使たちは灯りを置いている。
庭の花は閉じたまま。
鳥たちは枝の上で鳴かない。
夜殿の高台で。
星野が空を見ていた。
月がある。
昨日よりも。
はっきりと。
「月読様」
「何」
「どうして」
星野は空を指す。
「朝なのに、まだ月が見えるんですか」
月読は日の御殿を見る。
しばらくして。
「太陽が」
静かに言った。
「まだ、朝まで来ていないから」
⸻
【高天原・伊邪那岐の居所】
思兼神から報告を受けた伊邪那岐は。
しばらく何も言わなかった。
「身体に異常は?」
「医神が確認した範囲では、ありません」
「なら、なぜ光が落ちる」
思兼神は少し迷う。
「身体ではないのかもしれません」
戸が開いた。
月読が入ってくる。
「父上」
伊邪那岐が見る。
「天照を休ませろ」
月読の表情が僅かに変わる。
「違う」
「何が」
「姉上は眠いんじゃない」
伊邪那岐の目が細くなる。
月読は父を見る。
「休めば戻るって話じゃない」
「では何だ」
月読は少し黙った。
やがて。
「姉上は」
言葉を選ぶ。
「外へ出て」
「また太陽にならなきゃいけない理由が」
一度止まる。
「今は、自分でも分からないんだと思う」
伊邪那岐は何も言わなかった。
その顔から。
いつもの答えだけが消えていた。
⸻
【日の御殿】
天照は一人だった。
外の声は聞こえる。
神使の足音。
遠くで自分を呼ぶ声。
けれど。
どれも遠かった。
掌を見る。
以前なら。
意識しなくても溢れていた光が。
今は弱い。
目を閉じる。
いくつもの声が浮かぶ。
責任を果たせ。
高天原を守れ。
まだ判断を待つ者がいる。
雨の夜。
須佐之男の声。
――姉さん、俺が怖い?
倒れた真紗。
血のついた白い糸。
そして。
もっと昔。
まだ何も背負っていなかった頃。
幼い須佐之男の声。
――姉さん。
――ずっといる?
天照は膝を抱えた。
ずっといる。
そう答えたはずだった。
誰かの姉でいること。
太陽でいること。
高天原を守ること。
間違えないこと。
いつから。
それらを全部。
同じものだと思うようになったのだろう。
一つでもできなければ。
残りまで失うような気がしていた。
天照は顔を伏せた。
今は。
外へ出たくなかった。
誰にも。
自分がどうしているのか。
見られたくなかった。
⸻
【高天原・海岸】
夕方。
須佐之男は海を見ていた。
空は朝からほとんど明るくなっていない。
海彦が隣へ来る。
今度は。
最初から近くに座った。
「天照様、出てこられました?」
「まだ」
「明日も行くんですか」
「行く」
須佐之男はすぐに答えた。
海彦が暗い空を見る。
「ずっと出てこられなかったら?」
須佐之男は黙る。
波が来る。
引く。
また来る。
しばらくして。
「じゃあ」
海を見たまま答える。
「ずっと行く」
海彦が横を見る。
須佐之男は少しだけ笑った。
「昔、俺がどこに逃げても」
「姉さん、探しに来たから」
「毎回?」
「毎回」
少し間を置く。
「怒ってても」
「忙しくても」
海彦が尋ねる。
「見つけてくれた?」
須佐之男が頷く。
「うん」
それから。
暗い空を見上げる。
「今度は、俺が行く」
⸻
【葦原中国・夕刻】
本来なら。
まだ空に光が残っている時間だった。
けれど。
村々では、すでに火が灯されていた。
農人は早く畑から戻る。
母親は子供たちを家へ呼ぶ。
森では夜の獣が。
いつもより早く姿を見せ始める。
川から光が消える。
海も。
黒くなる。
その暗さの下。
さらに深い水の底。
以前から沈んでいる黒い石があった。
表面を走る古い紋が。
淡く光る。
一つ。
二つ。
今度は。
消えなかった。
周囲の砂が僅かに揺れる。
小さな魚たちが一斉に離れていく。
さらに奥。
光の届かない深みで。
水の流れが。
ゆっくりと変わった。
ごう。
低い音が響く。
声ではない。
けれど。
長いあいだ眠っていた何かが。
暗闇の中で。
初めて深く息を吸ったようだった。
⸻
【高天原・日の御殿前・翌朝】
須佐之男は。
本当にまた来た。
手には何も持っていない。
飯団も。
木簡も。
海の記録も。
何も。
戸を叩くこともしなかった。
柱の前へ座る。
背を預ける。
天鈿女命が遠くを通りかかり。
須佐之男を見つけた。
けれど。
今日は声をかけなかった。
時間だけが過ぎる。
高天原は。
朝なのに暗い。
須佐之男は閉じた戸を見ない。
ただ前を見たまま。
小さく言った。
「姉さん」
返事はない。
「今日は何も持ってきてない」
静寂。
「海の話もしない」
少し間を置く。
「真紗の話も」
また。
長く黙る。
須佐之男は膝へ腕を置いた。
「俺」
一度、息を吐く。
「ここにいるだけにする」
戸の向こう。
天照がいた。
同じ戸に。
背を預けて座っている。
須佐之男は外。
天照は中。
二人の間にあるのは。
薄い一枚の戸だけだった。
昔なら。
その程度の距離など。
なかったようなものだった。
けれど今は。
須佐之男は開けない。
天照も開けない。
何も言わない。
ただ。
同じ戸の両側にいた。
やがて。
高天原に残っていた最後の光が。
ゆっくりと薄れていった。
白い石段から色が消える。
神殿の輪郭が闇へ沈む。
空に残っていた光も。
最後には消えた。
白昼の高天原に。
完全な闇が落ちる。
須佐之男が顔を上げる。
戸の内側で。
天照も。
同じ瞬間に目を開いた。
それでも。
戸は開かなかった。
太陽にも。
誰にも見られたくない朝がある。




