第13話「神々の裁き」
人は心から悔いることができる。少しずつ、本当に変わっていくこともできる。それでも、ときに世界は言う。――起きてしまったことには、責任を負わなければならない、と。
【高天原・闇に沈んだ昼】
朝の刻は、とうに過ぎていた。
それでも高天原に、朝らしい光は戻っていなかった。夜ほど暗くはない。けれど、昼とも呼べない。空には薄い灰色が広がり、長廊には昼間から灯が置かれている。神使たちはいつもより足早に行き交い、誰もが声を低くしていた。
日の御殿の前には、須佐之男が座っていた。
昨日と同じ柱のそばだった。
何かを話しかけるでもない。ただ、ときどき閉ざされた戸を見る。中から物音はしない。
どれほどそうしていたのか。
遠くから一柱の神使が急いでやって来た。
「須佐之男殿」
須佐之男は戸を見たまま答える。
「姉さん、出てきた?」
神使は一瞬、言葉に詰まった。
「いいえ」
須佐之男の目が少し落ちる。
「そう」
「須佐之男殿」
「何」
「議事殿へお越しいただくように、とのことです」
その言葉で、須佐之男はようやく神使を見た。
「誰が?」
「伊邪那岐様です」
短い沈黙。
「何の話」
神使は答えなかった。
答えられなかった、と言ったほうが近い。
須佐之男はその顔を見て、もう聞かなかった。
「……分かった」
立ち上がる。
衣の裾についた埃を払う。
それから、もう一度だけ戸を振り返った。
「姉さん」
中からの返事はない。
須佐之男は少し迷ってから言った。
「あとで戻る」
それだけだった。
戸の内側で。
天照は確かに目を開けていた。
けれど。
声は出なかった。
⸻
【高天原・議事殿】
議事殿は、普段より広く見えた。
灯が多いからではない。
神々が多いからでもない。
天照がいつも座っている席が。
空いていたからだ。
伊邪那岐は上座にいた。
左右には思兼神、月読、天鈿女命。
少し離れて潮津彦と海彦。
右手を固定した真紗も席についている。
そのほかにも、高天原でそれぞれの役目を担う神々が並んでいた。
須佐之男が入る。
誰かが小さく咳払いをした。
それだけで、殿内の静けさが際立つ。
以前の須佐之男なら、こういう空気を嫌った。
わざと大きく歩いたかもしれない。
誰かへ余計な一言を投げたかもしれない。
今日は。
ただ中央まで歩いた。
一歩。
また一歩。
止まる。
最初に見たのは父ではなかった。
天照の空席だった。
そこへ一瞬だけ視線を残し。
須佐之男は正面を向いた。
思兼神が巻物を開く。
乾いた紙の音が、殿内へ響いた。
「今日の議事は、須佐之男殿が善い神であるか、悪い神であるかを決めるものではありません」
須佐之男が目を上げる。
「じゃあ、何を決める」
「現在の須佐之男殿が、高天原において従来の役目を担い続けられる状態にあるかどうかです」
須佐之男の口元に、僅かな皮肉が浮かんだ。
「裁きじゃないって?」
「議事です」
「俺には同じに聞こえる」
「須佐之男」
伊邪那岐の声が落ちた。
須佐之男は父を見る。
「最後まで聞け」
しばらく見返したあと。
「……分かった」
と答えた。
⸻
思兼神は記録を読み始めた。
「東の海における、必要な確認を伴わない潮位変更」
須佐之男の指が僅かに動く。
「その後、沿岸の舟を巻き込んだ事故」
阿国。
宗吉。
波の中で震えていた人間の姿が、一瞬だけ浮かぶ。
「西南河谷における閉塞部への水流操作。これに伴う下流域の洪水」
今度は。
濁流へ消えた海彦の姿。
泥に沈んだ田。
須佐之男は目を逸らさない。
「祭祀中の水路への干渉」
少し間を置き。
「そして、織殿における事故」
真紗の右手。
白い糸。
赤い血。
須佐之男の喉が動いた。
思兼神が記録を閉じる。
「以上について、事実関係に異議はありますか」
以前なら。
須佐之男はまず「でも」と言っていた。
風が。
山崩れが。
向こうが。
今日は。
長いあいだ黙ったあと。
「ない」
と答えた。
殿内の何柱かが、小さく顔を見合わせる。
思兼神も、ほんの一瞬だけ須佐之男を見た。
「承知しました」
それだけで。
次へ進んだ。
⸻
列の中から、一柱の年長神が声を上げた。
「では、何をまだ議論する必要がある」
月読がそちらを見る。
「これだけの事故を起こし、最後には神使を重傷に至らせた」
年長神は伊邪那岐へ視線を向ける。
「伊邪那岐様の御子でなければ、とっくに神職を解かれていたのではありませんか」
殿内にざわめきが広がる。
須佐之男の顎に力が入る。
別の女神が口を挟んだ。
「ですが、人を救ったこともあります」
年長神はすぐに返す。
「自ら起こした騒ぎの後始末をしただけでは?」
「すべてが須佐之男殿のせいだったわけではありません」
海彦の声だった。
自分でも思ったより大きな声が出たのか。
海彦は一瞬だけ身体を硬くした。
年長神が彼を見る。
「若いな」
海彦は怯みそうになる。
それでも。
座り直した。
「若くても、見たことは変わりません」
須佐之男が海彦を見る。
思兼神が片手を上げた。
ざわめきが止む。
「順に聞きます」
⸻
「潮津彦」
呼ばれた潮津彦が前へ出る。
一礼。
思兼神が尋ねる。
「須佐之男殿には、海を司る能力があると考えますか」
須佐之男の視線が潮津彦へ向く。
潮津彦は。
すぐには答えなかった。
長い沈黙のあと。
「あります」
殿内が僅かに揺れる。
須佐之男自身も。
少し目を見開いた。
潮津彦は続ける。
「潮の変化を感じ取る力は、並の海神使を遥かに上回ります。学ぶ速度も速い。最近では、風、河川、沿岸の暮らしを、一つの流れとして見ることも覚え始めました」
須佐之男の表情が。
ほんの少しだけ緩む。
ずっと欲しかった評価だった。
父に欲しかった。
姉にも。
他人から聞いても。
嬉しいはずの言葉だった。
けれど。
潮津彦はそこで終わらなかった。
「ですが」
須佐之男の目が止まる。
「今、東の海すべてを須佐之男殿へ預けるかと問われれば」
潮津彦はまっすぐ須佐之男を見る。
「私は反対します」
先ほど生まれた小さな光が。
須佐之男の顔から消えた。
思兼神が尋ねる。
「理由を」
「海を預かる者には、力だけでは足りません」
潮津彦の声は、いつもと変わらない。
「その者のそばで働く者が、明日も今日と同じ基準で判断されると信じられること」
少し間を置く。
「感情一つで、決まりそのものが変わらないと信じられること」
海彦が僅かに目を伏せる。
「須佐之男殿は、まだそこまでには至っておられません」
須佐之男が小さく口を開く。
「まだ?」
潮津彦が見る。
「はい」
「できない、じゃなくて」
須佐之男の声が少し低くなる。
「まだ、そこまでじゃないって?」
「そうです」
二人はしばらく見合った。
その答えは。
須佐之男を救わなかった。
けれど。
未来まで閉じる言葉でもなかった。
須佐之男は。
それだけを黙って受け取った。
⸻
「海彦」
今度は自分の名が呼ばれ。
海彦が前へ出る。
思兼神が尋ねる。
「須佐之男殿と海務を共にしてきましたね」
「はい」
「率直に答えてください」
「はい」
「須佐之男殿が怖いことはありますか」
殿内が静まり返った。
須佐之男が海彦を見る。
海彦の顔に迷いが浮かぶ。
須佐之男は先に言った。
「本当のこと言えよ」
伊邪那岐が僅かに息子を見る。
海彦は一度息を吸った。
「あります」
小さなざわめき。
須佐之男は一度聞いていたはずなのに。
公の場で聞くと。
別の重さで胸へ落ちた。
海彦は続ける。
「でも、須佐之男殿が、人を傷つけること自体を望んでいるとは思いません」
先ほどの年長神が言う。
「望んだかどうかで、怪我が消えるのか」
海彦が振り返る。
「消えません」
「なら」
「でも」
海彦は逃げなかった。
「だからといって、何を思っていたかまで全部無意味になるとも思いません」
年長神は黙る。
海彦は思兼神へ向き直った。
「須佐之男殿は、以前なら何か言われるとすぐ怒っていました」
須佐之男の眉が少し動く。
「今も怒ります」
殿内のどこかから、ごく小さな笑いが漏れた。
海彦も一瞬だけ口元を緩める。
「でも、前より止まります」
少し間を置く。
「止まれないこともあります」
「だから、怖いこともあります」
海彦は須佐之男を見る。
「それでも、変わろうとしているのは本当です」
思兼神が尋ねる。
「あなた自身は、今後も須佐之男殿と仕事をしたいと思いますか」
海彦は迷わなかった。
「はい」
須佐之男の目が揺れる。
だが。
海彦は続けた。
「ただ」
今度は須佐之男から目を逸らさない。
「今すぐ、すべてを須佐之男殿へ任せたいとは思いません」
須佐之男はしばらく海彦を見た。
最後に。
目を伏せた。
潮津彦と同じだった。
一緒に進むつもりはある。
けれど。
今はまだ、全部は預けられない。
誰か一人の悪意ではなかった。
だからこそ。
言い返せなかった。
⸻
「真紗」
呼ばれた瞬間。
須佐之男の身体が最も硬くなった。
真紗はゆっくり立ち上がる。
右腕はまだ固定されている。
思兼神が言う。
「織殿の事故で最も重い傷を負ったのは、あなたです」
「はい」
「須佐之男殿について、どのような処置を望みますか」
真紗は少しだけ思兼神を見る。
「なぜ、私にそれを聞くのですか」
「被害を受けた当事者だからです」
「だから?」
思兼神が僅かに言葉を止める。
真紗は続けた。
「私が『許します』と言えば、処分をやめるのですか」
「いいえ」
「私が『許しません』と言えば、重くするのですか」
「それだけを理由にはしません」
真紗は頷く。
「では」
右手へ一度目を落とす。
「私に、彼をどう罰してほしいかは聞かないでください」
殿内が静まる。
「この手は、私の手です」
真紗の声は穏やかだった。
「これから、この手とどう生きるかも、私のことです」
少し間を置く。
「高天原が須佐之男殿をどう扱うかは、高天原が決めてください」
須佐之男がゆっくり顔を上げる。
真紗は彼を見る。
「須佐之男殿がしたことは、間違っていました」
須佐之男は目を逸らさない。
「私が傷ついたことも、消えません」
そこで。
真紗の表情が僅かに柔らかくなる。
「でも」
「須佐之男殿が変わろうとしていることまで」
少し間を置く。
「なかったことにはしないでください」
誰も。
すぐには言葉を出さなかった。
⸻
「一つ、よろしいですか」
天鈿女命が声を上げた。
思兼神が頷く。
天鈿女は立ち上がる。
「この数日、天照様の光が弱くなったことについて」
須佐之男が顔を上げた。
「須佐之男殿のせいだ、という声を耳にします」
殿内に僅かなざわめきが生まれる。
須佐之男の目が冷える。
天鈿女は続けた。
「私は、その見方には反対です」
思兼神が尋ねる。
「理由を」
「天照様は、織殿の事故より前から限界に近づいていました」
天鈿女の視線が、集まった神々を順に見ていく。
「日照のことがあれば天照様」
「雨が足りなければ天照様」
「祭りがあれば天照様」
「争いがあれば天照様」
そして。
少しだけ声を落とす。
「弟に何かあっても、天照様」
須佐之男が唇を噛む。
「最後に織殿の事故が起きた」
天鈿女は須佐之男を見る。
「それは重いことです」
「須佐之男殿が負うべきものもあります」
そこまではっきり言ってから。
殿内へ視線を戻す。
「でも」
「誰かが潰れたとき、最後に乗った石だけを見て、その石だけが全部の重さだったと言うのは」
静かに首を振る。
「違うと思います」
先ほどの年長神が尋ねる。
「では、我々にも責任があると?」
「あるでしょう」
天鈿女は平然と答えた。
殿内の空気が変わる。
「須佐之男殿には、須佐之男殿の責任がある」
彼を見る。
「天照様には、天照様自身の抱え方がある」
そして。
集まった神々を見る。
「高天原には、高天原の問題がある」
思兼神は。
否定しなかった。
⸻
月読が立ち上がった。
「僕も話す」
伊邪那岐が頷く。
月読は中央へ進み。
須佐之男の隣に立った。
須佐之男が横を見る。
月読は前を向いたまま言う。
「須佐之男は」
少し間を置く。
「かなり面倒です」
須佐之男が顔を向ける。
「おい」
殿内のどこかから、小さな笑いが漏れた。
月読は続ける。
「うるさいし」
「余計なこともする」
「怒りやすい」
須佐之男が眉を寄せる。
「お前、何しに立ったんだよ」
「まだ途中」
月読は一度だけ弟を見る。
「でも」
声が少し変わる。
「本当に変わろうともしています」
殿内が静まる。
「神だからって」
月読は集まった神々を見る。
「一晩で、昨日とは別の者になれるわけじゃない」
誰も答えない。
「時間は必要です」
須佐之男の表情が少し緩みかける。
けれど。
月読は続けた。
「だからといって」
弟を見る。
「今までと同じ役目へ、そのまま戻していいとも思いません」
須佐之男の顔が止まる。
「お前も?」
「うん」
「まだ?」
「まだ」
須佐之男は少し口を歪める。
「みんなそれ言うな」
月読は肩をすくめた。
「みんなが同じところを見てるのかも」
須佐之男は。
もう言い返さなかった。
⸻
やがて。
思兼神が須佐之男を呼んだ。
「須佐之男殿」
全員の視線が。
今度は彼自身へ集まる。
「何か申し述べたいことはありますか」
須佐之男は中央に立ったまま。
すぐには口を開かなかった。
言いたいことなら。
いくらでもあった。
最初の海で吹いた風は、自分が起こしたものではない。
河谷では、先に山崩れが起きた。
織殿では、若い神使たちが先に自分を嘲った。
真紗を傷つけようとしたわけでもなかった。
全部。
事実だった。
須佐之男はゆっくり息を吸う。
「言おうと思えば」
声が少し掠れる。
「いろいろ言える」
誰も遮らない。
「最初の海のとき、風は俺じゃない」
「河谷のときも、山崩れは俺じゃない」
「織殿でも、先にあいつらが言った」
少し間を置く。
「真紗を傷つけるつもりもなかった」
真紗は黙って聞いている。
「全部、本当だ」
須佐之男はそこで。
少しだけ笑った。
苦い笑いだった。
「でも」
「前ほど、大事じゃなくなった」
思兼神が僅かに目を上げる。
須佐之男は続ける。
「前は」
言葉を探す。
「全部が俺のせいじゃないって証明できたら」
「それで、俺は悪くないことになると思ってた」
月読が静かに弟を見る。
「でも」
須佐之男は自分の手を見る。
「違った」
「山崩れが俺じゃなくても」
「水を押したのは俺だった」
「真紗を傷つけるつもりがなくても」
右手を固定した真紗を見る。
「風を起こしたのは俺だった」
一度。
目を閉じる。
「俺の分は」
ゆっくり言う。
「俺のものだ」
月読の目が僅かに揺れた。
あの夜。
月の池で。
弟へ言った言葉だった。
須佐之男は覚えていた。
⸻
「でも」
須佐之男は再び顔を上げた。
今度の声には。
少しだけ力が戻る。
「俺は」
「間違えたことがあるってだけで」
「これからずっと、間違えた奴のままでいるつもりはない」
殿内が静まる。
「ここ何日か」
「毎日、織殿へ行った」
「海も、触らずに見た」
「腹が立っても、前みたいに何でも壊さないようにした」
少し自嘲するように笑う。
「全部うまくできてるとは言わない」
「急に立派になったとも思ってない」
一度。
言葉を止めた。
真紗を見る。
海彦を見る。
潮津彦を見る。
そして。
天照の空席を見る。
「もう」
声が低くなる。
「織殿にいた、あの日の俺には戻りたくない」
海彦が目を伏せる。
須佐之男は続けた。
「今の俺を信じられないなら」
そこで。
長く止まる。
次の言葉を口にするのは。
謝ることと同じくらい難しかった。
「……それは」
唇を噛む。
「受け入れる」
誰かが小さく息を呑む。
須佐之男は神々を見る。
「でも」
「一つだけ」
声に僅かな震えがあった。
「俺は変われないって」
最後に。
父を見る。
「それだけは」
「今、決めないでくれ」
伊邪那岐と。
須佐之男の視線が重なる。
それ以上は言わなかった。
けれど。
何を求めているのかは。
十分に伝わっていた。
⸻
議事は一度、中断された。
神々が外へ出る。
須佐之男は一人。
長廊の端に立っていた。
外は。
相変わらず昼とは思えない暗さだった。
海彦が近づこうとする。
潮津彦が軽く腕を出す。
「今は」
海彦は止まった。
須佐之男も。
こちらを見ない。
真紗がゆっくり歩いてくる。
須佐之男の前を通り過ぎる。
二歩。
三歩。
そこで止まった。
「須佐之男殿」
須佐之男が振り向く。
「何」
「先ほどの話」
須佐之男の顔が少し強張る。
「変だった?」
「いいえ」
真紗は首を振る。
「よかったと思います」
須佐之男が目を瞬く。
「本当に?」
「はい」
口元が。
ほんの少し動く。
笑いたいのに。
それを出していいのか迷っている顔だった。
真紗はその顔を見る。
「嬉しいんですか」
「……ちょっと」
「なら」
真紗は少し笑う。
「そのくらいは、嬉しそうにしていていいと思います」
須佐之男は少し黙り。
ようやく。
小さく笑った。
「ありがとう」
真紗はそれ以上何も言わず。
歩いていった。
⸻
【高天原・議事殿奥】
残ったのは。
伊邪那岐。
思兼神。
月読。
天鈿女命。
天照の席は。
やはり空いている。
思兼神が先に口を開いた。
「私は、当面すべての神職から外すべきだと考えます」
月読の眉が寄る。
「当面って、いつまで」
「再び任せられる状態になったと判断できるまでです」
「それは期限じゃない」
「期限を先に定め、状態が整っていなくても戻すのですか」
月読は黙る。
天鈿女が尋ねる。
「高天原には残すのですか」
思兼神が答える前に。
伊邪那岐が言った。
「……ここに置いたままでは、難しいかもしれない」
三柱が父を見る。
月読が問う。
「何が」
伊邪那岐は天照の空席を見る。
しばらく。
答えなかった。
「高天原では」
ゆっくり言う。
「誰もが、あれの過去を知っている」
月読の眉が寄る。
「だから?」
「何をしても」
伊邪那岐は低く続ける。
「以前の須佐之男と比べられる」
「うまくできれば、変わったと言われる」
「間違えれば、やはり変わっていないと言われる」
思兼神が静かに聞く。
「それは、高天原を離す理由になりますか」
伊邪那岐は答えない。
天鈿女が父神を見る。
「罰ですか」
長い沈黙。
「罰でもある」
月読の表情が変わる。
伊邪那岐は続けた。
「高天原で起きたことに、何も負わずに済ませるつもりはない」
「でも」
一度。
言葉が止まる。
「罰だけにしたくもない」
月読が低く尋ねる。
「どこへ」
伊邪那岐は答えた。
「葦原中国へ」
月読の顔から表情が消える。
「どれくらい」
「定めない」
「それじゃ」
声が少し荒くなる。
「放逐と同じだ」
伊邪那岐は否定しなかった。
「そう見えるだろう」
「見えるじゃない」
月読が父を見る。
「実際そうだろ」
伊邪那岐は黙る。
天鈿女が静かに聞いた。
「それで、須佐之男殿は戻れるのですか」
伊邪那岐は。
すぐには答えなかった。
その沈黙を。
月読は見逃さない。
「父上」
低い声だった。
「自分でも分かってないんだね」
伊邪那岐は。
否定しなかった。
ただ。
「ここに置いて」
しばらくして言う。
「同じことを繰り返させるよりは」
そこで言葉を止める。
月読が父を見る。
「よりは?」
伊邪那岐は。
それ以上。
続けなかった。
⸻
【高天原・議事殿】
再び。
神々が集まった。
須佐之男が中央へ戻る。
先ほどより。
少しだけ疲れて見えた。
伊邪那岐が口を開く。
「決定を伝える」
須佐之男は父を見る。
「本日をもって」
暗い殿内へ。
声が落ちる。
「須佐之男の海神としての権限を停止する」
須佐之男の身体が僅かに硬くなる。
けれど。
予想していたのか。
何も言わない。
「高天原の正式な議事への参加も、当面認めない」
沈黙。
「織殿の修復が終わるまで、現在の作業を続けること」
須佐之男が一度頷く。
そこまでは。
受け入れる準備があった。
伊邪那岐が。
次の言葉を口にするまで。
「そして」
一瞬。
空気が変わる。
「織殿の修復が終わり次第」
長い間。
「高天原を離れよ」
須佐之男の顔が。
完全に止まった。
殿内では。
誰も動かなかった。
「……何」
聞き間違えたような声だった。
伊邪那岐は繰り返す。
「葦原中国へ下れ」
須佐之男の目が父を捉える。
「どれくらい」
「期限は定めない」
今度は。
須佐之男が笑った。
楽しさは。
どこにもなかった。
「それ」
一度息を吸う。
「放逐って言うんじゃないの」
伊邪那岐は。
否定しなかった。
須佐之男の目が少しずつ冷える。
「そう」
小さく頷く。
そして。
天照の空席を見る。
「姉さんは」
誰も動かない。
須佐之男が尋ねる。
「知ってる?」
月読が答える。
「知らない」
須佐之男が見る。
「本当に?」
「本当」
「何も?」
「今の決定は聞いてない」
須佐之男は。
もう一度。
空席を見る。
「……そっか」
声が妙に静かだった。
「来てもないんだ」
月読が口を開く。
「須佐之男」
「分かってる」
須佐之男は遮った。
「出られないんだろ」
少し間を置く。
「分かってるよ」
同じ言葉なのに。
二度目のほうが。
冷たかった。
「俺が高天原からいなくなる話のときも」
空いた席から目を離す。
「出てこられないんだ」
「違う」
月読が思わず言う。
須佐之男が見る。
「何が?」
月読は。
言葉を失った。
天照が苦しんでいることは知っている。
説明することもできる。
けれど。
それで弟の今の痛みが消えるわけではない。
須佐之男は月読の顔を見て。
少しだけ目を伏せた。
「……もういい」
自分で終わらせた。
⸻
伊邪那岐が言う。
「これは、お前を捨てるためではない」
須佐之男がゆっくり父を見る。
「じゃあ、何」
伊邪那岐は。
すぐには答えられなかった。
「高天原に残すことが」
言葉を探す。
「今のお前にとって、正しいとは思えない」
須佐之男の眉が寄る。
「何で」
「ここでは」
伊邪那岐は息子を見る。
「誰もがお前を知っている」
「またそれ?」
須佐之男の声に、僅かな苛立ちが戻る。
伊邪那岐は続ける。
「私の子であること」
「天照の弟であること」
「月読がお前のそばにいること」
月読の目が動く。
「そして」
「これまで何をしたか」
須佐之男は黙る。
伊邪那岐は。
しばらく言葉を探した。
「それらから離れた場所で」
声が低くなる。
「お前が何をするのか」
「私は」
一度止まる。
「見なければならないと思っている」
須佐之男が父を見る。
「父上が?」
「お前自身もだ」
その瞬間。
遠い夜の記憶が戻る。
父の部屋。
自分が尋ねた。
もし海神ではなかったら。
父の子でもなかったら。
神でもなかったら。
何もできなかったら。
それでも。
自分はいていいのか。
父は。
答えなかった。
須佐之男の目が。
ゆっくり父へ戻る。
「……ああ」
小さく笑う。
「そういうこと」
伊邪那岐は何も言わない。
「まだ」
須佐之男が続ける。
「答え、分からないんだ」
伊邪那岐の表情が。
ほんの僅かに変わった。
須佐之男は父を見る。
「だから、俺に行かせる」
伊邪那岐は長く黙った。
やがて。
「……そういうところもある」
と答えた。
須佐之男は目を細める。
「それだけじゃない?」
「罰でもある」
伊邪那岐は誤魔化さなかった。
「高天原で起きたことに対して」
須佐之男は黙る。
父もまた。
完全な答えを持っているわけではない。
それだけは。
今の須佐之男にも分かった。
「向こうで」
須佐之男が尋ねる。
「何も見つからなかったら?」
伊邪那岐は。
答えられなかった。
須佐之男はその沈黙を見た。
しばらくして。
目を閉じる。
一度だけ頷いた。
「分かった」
「須佐之男」
月読が呼ぶ。
須佐之男は背を向ける。
伊邪那岐が言う。
「織殿の修復が終わるまでは、高天原に残れ」
須佐之男は振り返らない。
「分かってる」
少し間を置き。
「まだ俺の家だから」
そう言って。
議事殿を出た。
伊邪那岐は。
その背中を呼び止めなかった。
⸻
【高天原・議事殿長階】
外には。
結果を待っていた神使たちがいた。
須佐之男が出てくると。
自然と道が開く。
同情する者。
安心したような顔をする者。
目を伏せる者。
それぞれだった。
須佐之男は。
どの顔も見ないように階段を降りる。
「須佐之男殿!」
後ろから海彦が追ってくる。
須佐之男は止まらない。
「須佐之男殿!」
さらに近づく。
そして。
海彦はとうとう。
声を張った。
「須佐之男!」
須佐之男の足が止まる。
振り向かない。
海彦は追いついたものの。
そこで言葉を失った。
「俺……」
須佐之男が先に言う。
「今はやめて」
海彦が口を閉じる。
「慰められたら」
須佐之男は前を見たまま。
「多分、腹立つから」
海彦はしばらく黙った。
「……分かった」
須佐之男は少しだけ横顔を見せる。
「ごめん」
海彦が眉を寄せる。
「何で須佐之男殿が謝るんですか」
「知らない」
ほんの少しだけ笑う。
「癖になったのかも」
海彦も笑おうとした。
けれど。
うまく笑えなかった。
須佐之男はそのまま。
日の御殿へ向かった。
⸻
【高天原・日の御殿】
須佐之男は。
昨日と同じ場所へ戻った。
戸は。
まだ閉じている。
その前へ座る。
今日は。
長い間。
何も言えなかった。
やがて。
「姉さん」
戸の内側で。
天照が顔を上げる。
「決まった」
天照の手が動く。
須佐之男は少しだけ笑うような声で言った。
「俺」
そこで止まる。
「高天原を出ることになった」
天照の顔から。
血の気が引いた。
立ち上がる。
戸へ向かう。
須佐之男は続ける。
「葦原中国に行けって」
天照の手が戸に触れる。
「期限はない」
指先が震える。
あと少し。
引けば開く。
それでも。
身体が動かなかった。
戸の向こうで。
須佐之男が言う。
「本当は」
少し間を置く。
「姉さんに、どうしたらいいって聞こうと思った」
天照が目を閉じる。
「でも」
須佐之男が小さく息を吐く。
「姉さんも今」
「自分がどうしたらいいか、分かんないんだろ」
天照の目から。
涙が落ちた。
須佐之男は。
責めるようには言わなかった。
それが。
余計につらかった。
「大丈夫」
須佐之男が言う。
天照の肩が揺れる。
すぐに。
須佐之男自身が少し笑った。
「……いや」
「こういうとき、大丈夫って言わないほうがいいんだった」
天照は泣きながら。
ほんの僅かに口元を歪めた。
戸の外でも。
須佐之男が小さく息を吐く。
「何とかする」
しばらく。
静かになる。
「俺」
声が少しずつ小さくなる。
「何もできなかった頃から」
「ずっと、何となく生きてきたし」
天照は戸へ額をつける。
「多分」
「向こうでも」
少し間を置く。
「生きてはいける」
そこで。
天照はとうとう。
口を開いた。
「須佐之男」
声が。
出なかった。
息だけになる。
戸の外には届かない。
須佐之男は。
しばらく待った。
けれど。
返事はない。
やがて立ち上がる。
「また来る」
足音が離れていく。
天照は。
戸を握る手に力を入れた。
一歩。
遅れて。
戸を開ける。
⸻
灰色の光が。
日の御殿へ差し込んだ。
何日ぶりかに。
天照の姿が外へ現れる。
近くにいた神使が息を呑む。
「天照様……!」
その声で。
別の神使が振り向く。
さらに。
遠くからも声が重なる。
「天照様!」
「お出になった!」
「日の光が――」
天照の周囲へ。
神使たちが集まり始める。
「東の空がまだ」
「葦原中国の日照が」
「祭りの日程も」
「天照様」
「天照様」
「天照様」
一つ。
また一つ。
世界が彼女へ戻ってくる。
天照は。
長廊の向こうを見た。
須佐之男の背中が。
もう遠い。
「須佐――」
声を出す。
けれど。
「天照様、光が」
「天照様」
呼ばれる。
何度も。
何度も。
天照は人々の向こうへ手を伸ばす。
その指先に。
淡い光が戻り始める。
けれど。
須佐之男は振り返らなかった。
姉が戸を開けたことを。
知らないまま。
灰色の長廊を歩いていった。
⸻
空に。
細い光が戻っていく。
太陽は。
まだ弱い。
それでも。
数日ぶりに。
高天原の白い石畳へ。
淡い金色が落ちた。
神々は空を見上げる。
安堵の声が広がっていく。
月読だけは。
空を見なかった。
灰色の長廊の向こう。
須佐之男の姿が消えた場所を。
じっと見ていた。
光が戻り始めた高天原で。
須佐之男だけが。
そこを離れるための時間へ。
静かに歩き始めていた。




