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出雲の雨  作者: 幕神成


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第14話 二本の簪

 手名椎は、すぐには箱を開けなかった。


 奇稲田姫から話を聞き、須佐之男を見て、それからもう一度、娘へ目を戻した。


「もう一本、あるの?」


「御影さんが、探してくれるって」


「同じものか、分からないんでしょう」


「だから、比べたいの」


 手名椎は膝の上へ手を置いた。


 部屋の奥で、足名椎が縄を束ねている。


 手は動いていたが、さっきから同じところを巻き直していた。


 須佐之男は戸口の近くに座った。


 奇稲田姫は母の前で待っていた。


 急かさなかった。


 しばらくして、手名椎が立ち上がった。


「持っていくなら、私も行く」


 奇稲田姫が顔を上げる。


「うん」


「落としたりしないでね」


「しない」


 手名椎は箱の蓋を開けた。


 昨日並べた品の下から、小さな布包みを取り出す。


 何度も畳まれたらしく、角の部分だけ色が薄くなっていた。


     *


 簪は、布よりも鮮やかな色をしていた。


 赤く塗られた細い軸。その端に、小さな鳥が彫られている。


 翼を広げた鳥ではない。


 首を少し傾け、尾を上へ向けた、丸い鳥だった。


 須佐之男は手を伸ばさずに見た。


 鳥の背に、細い傷があった。


「これ、稲世姉さんがつけてた」


 奇稲田姫が言った。


 手名椎は頷いた。


「祭りの日も?」


「ええ」


 母は簪の端へ指を添えた。


「出ていく前に、髪を結い直したから」


「誰が返してくれたの?」


 手名椎の指が止まる。


 足名椎が、縄を置いた。


「私が持って帰った」


 奇稲田姫が父を見る。


「どこにあったの」


「祭場の下の道だ。雨のあと、落ちていた」


「ほかには?」


 足名椎は首を振った。


「その近くには、何も」


 須佐之男は簪を見た。


 壊れてはいない。


 軸の先が少し削れ、赤い色が薄くなっている。


「それを見つけたとき、まわりを探した?」


 足名椎は須佐之男へ目を向けた。


 責められたと思ったのか、口元が固くなった。


 須佐之男は言い直した。


「どこまで見たのか、知りたい」


 足名椎は目を伏せた。


「道から川まで下りた。衣が引っ掛かっていないか、岩の間も見た」


「山のほうは」


「途中で斜面が崩れていた。それ以上は、入れなかった」


 須佐之男は頷いた。


 足名椎は少し間を置き、付け加えた。


「一人ではなかった。三人で探した」


 誰に向けて言ったのかは、分からなかった。


 手名椎が布の端を持ち上げた。


 簪を包もうとして、また置く。


「二本目があったら、何が分かるの」


 須佐之男は答えるまでに少し考えた。


「同じものなら、二つあったって分かる」


 手名椎が彼を見る。


「違うものなら、別の人のかもしれない」


「それだけ?」


「今は、それだけだ」


 手名椎は目を伏せた。


 それから、丁寧に布を畳んだ。


     *


 寄合所へ着くと、御影は棚の前にしゃがんでいた。


 細長い箱の蓋が、床へ置かれている。


 その中には、欠けた器や、錆びた小刀、束ねた紐が入っていた。どれにも小さな札がつけられている。


 御影は手名椎を見ると、立ち上がった。


「お手数をかけました」


 手名椎は包みを胸の前へ持った。


「見つかったの?」


「はい。こちらです」


 台の上に、別の布が敷いてあった。


 その中央に、赤い簪が置かれていた。


 手名椎が足を止めた。


 奇稲田姫も、その隣で動かなくなった。


 二本目にも、鳥がいた。


 首を傾け、尾を上へ向けた、小さな鳥。


 須佐之男は二人の顔を見てから、簪へ目を戻した。


 今度のものは、軸の片側が大きく削れていた。赤い塗りが剥がれ、下の木が見えている。


 御影が札を示した。


「稲世が山へ行った翌年、古い祭場を片づけたときに拾われています」


「誰が?」


 奇稲田姫が尋ねた。


「当時の片づけに入った者は、四人。誰が実際に見つけたのかまでは、書かれていません」


「まだ村にいる?」


「二人は。聞きに行けます」


 手名椎は、自分の包みを開いた。


 簪を並べる。


 二羽の鳥が、同じ方向を向いた。


     *


 近くで見ると、まったく同じではなかった。


 鳥の目の位置が少し違う。


 尾の溝も、一本は深く、もう一本は浅い。


 軸の太さにも、わずかな差があった。


「同じ人が作ったのかもしれないな」


 須佐之男が言った。


 手名椎は頷いた。


「川向こうの市で買ったものだから。いくつか、同じ形が並んでいた」


「稲世に買ったの?」


 奇稲田姫が尋ねる。


「自分で選んだのよ。もっと立派なのもあったのに、この鳥がいいって」


 手名椎の指が、家から持ってきた簪へ触れた。


「二本、買わなかった?」


「私は、一本しか買っていない」


 奇稲田姫は二本を見比べた。


「姉さんが、あとで買ったのかな」


「そうかもしれない」


 手名椎は答えた。


 けれど、その声に確信はなかった。


 須佐之男は、古い祭場で見つかったほうを指した。


「持っていいか」


 御影が頷く。


 須佐之男は、軸の中央をそっとつまんだ。


 軽い。


 これだけを見て、誰が持っていたのかを知ることはできなかった。


 裏返す。


 鳥の腹の下に、細い筋があった。


「これ、傷か?」


 奇稲田姫が身を寄せる。


 御影が灯りの近くへ場所を空けた。


 筋は、途中で交わっていた。


 ひびではなかった。


 刃の先で、何かを刻んだように見える。


 奇稲田姫が家の簪を取った。


 同じ場所を裏返す。


 そちらにも、小さな刻みがあった。


「これ」


 彼女が言った。


「名前」


     *


 家から持ってきた簪には、細い字で「世」と刻まれていた。


 長い年月で黒ずみ、鳥の彫りの影へ紛れていた。


 手名椎は顔を近づけた。


「知らなかった」


 奇稲田姫が、もう一本へ目を向ける。


 須佐之男は持つ向きを変えた。


 こちらの刻みは、途中が削れている。


 一文字なのか、二文字あったのかも、すぐには分からない。


「同じ字じゃない」


 奇稲田姫が言った。


 御影が小さな布を濡らし、差し出した。


 須佐之男は受け取らず、奇稲田姫へ渡した。


 彼女が、溝へたまった汚れをそっと拭いた。


 線が少しだけはっきりする。


「夜……かな」


 御影が呟いた。


 奇稲田姫は、その字を見たまま動かなかった。


「どうした」


 須佐之男が尋ねる。


 彼女はすぐには答えなかった。


 指先を、鳥の尾へ添える。


「昔、見た気がする」


 手名椎が娘を見た。


「この簪?」


「二本、並んでるところ」


     *


 奇稲田姫は椅子へ座った。


 記憶を探るように、台の木目を見ている。


「家じゃなかったと思う」


 誰も口を挟まなかった。


「川の近く。私、まだ小さくて、姉さんについていった」


 手名椎が少し身を乗り出した。


「稲世と?」


「うん。誰かに会うって」


 須佐之男は板を出しかけ、やめた。


 今は聞いたほうがよさそうだった。


 奇稲田姫は続けた。


「女の人がいた。姉さんより、少し小さかったかもしれない。でも、子供じゃなかった」


「髪は?」


 手名椎が尋ねた。


 奇稲田姫は首を振った。


「覚えてない。私、ずっと水のほうを見てたから」


 彼女は膝へ手を置いた。


「魚がいたの。浅いところに。捕まえようとして、袖を濡らして」


 口元がわずかに動いた。


「姉さんに叱られた」


 手名椎は黙って聞いていた。


「その人が、私の袖を絞ってくれた。姉さんと違って、怒らなかった」


 奇稲田姫は二本の簪を見た。


「そのとき、髪から外してた。同じ鳥が二つあって、私も欲しいって言った気がする」


 御影が静かに尋ねた。


「名前は覚えているか」


 奇稲田姫は目を閉じた。


 しばらくして、首を振る。


「思い出せない」


 須佐之男は頷いた。


「後で思い出すかもしれない」


「うん」


 彼女は少し息を吐いた。


 思い出さなければならない、と力を入れていた肩が下がった。


     *


 手名椎は、二本目の簪を見つめていた。


「川向こうに、よく行っていた」


 小さな声だった。


 奇稲田姫が母を見る。


「稲世が?」


「薬草を分けてもらうとか、糸を買うとか。用事があるたびに」


 手名椎は額へ手を当てた。


「誰と会っていたのか、聞けばよかった」


 須佐之男は、昨日の父親の顔を思い出した。


 今から聞いても、当時の答えは戻ってこない。


 それでも、今から探せる人はいるかもしれなかった。


「市で、この簪を売ってた人は?」


 手名椎が顔を上げる。


「まだ来てると思う。木の椀も作っている人」


「買った人を覚えてるかもしれない」


 御影が頷いた。


「それと、古い祭場を片づけた二人にも聞こう。拾った場所を、もう少し細かく確かめたい」


 奇稲田姫は二本目を見た。


「姉さんと一緒にいた人のものなら」


 そこで、言葉を切った。


 須佐之男は続きを待った。


「どうして、祭場にあったんだろう」


 誰も答えられなかった。


     *


 御影は、二本目の簪を元の布へ置いた。


「これは、ここへ残しておきます。誰のものか分かるまで」


 手名椎は家の簪を包み直した。


 包む前に、一度だけ裏の字を確かめた。


 小さな「世」。


 娘の名前が、そこに残っていた。


 奇稲田姫は母のそばへ立った。


「一緒に帰る?」


「先に戻るわ。父さんにも話さないと」


 手名椎は須佐之男へ目を向けた。


 礼を言おうとしたようだったが、言葉を変えた。


「分からないことが増えるのは、つらいね」


 須佐之男は答えられなかった。


「でも、あの子が何をしていたのか、知りたい」


 彼は頷いた。


 手名椎は簪を胸元へ抱え、寄合所を出た。


     *


 御影が片づけを始めると、須佐之男は箱の中を見た。


 ほかにも、持ち主の分からないものがある。


 錆びた小刀。


 片方だけの耳飾り。


 細い縄でまとめた木札。


「これも、祭場で?」


「全部ではない。川や、古い田で拾われたものも混じっている」


「分けてなかったのか」


「札のあるものは分かる。ないものは、確かめるところからだ」


 須佐之男は箱へ手を入れなかった。


 代わりに、台の上の札を見た。


 簪が見つかった年。


 古い祭場の片づけ。


 その下に、別の帳面の名が小さく添えられていた。


「これは?」


 御影がのぞき込む。


「人足の記録だ。何人で作業したか、誰へ米を渡したか、そちらへ書いてある」


「祭りの帳面とは別?」


「ああ」


 須佐之男は棚へ目を向けた。


 水の記録。


 祭りの記録。


 仕事の記録。


 同じ年の出来事が、別々の場所へ収められていた。


「それも見ていいか」


 御影は頷いた。


     *


 作業の帳面には、祭りの記録よりも細かい日付が並んでいた。


 崩れた道の修理。


 川から流れてきた木の片づけ。


 縄と油の支給。


 須佐之男は頁をめくり、書かれた場所を板へ写した。


 奇稲田姫が隣で、読みにくい字を確かめる。


 御影は、さらに古い帳面を探していた。


 やがて、棚の前で手が止まった。


 彼は一冊を持って戻った。


「これは、最初の祭りの年だ」


 台へ置く。


 途中の頁を開き、指を添えた。


「山へ人を出した記録がある」


 奇稲田姫が顔を上げた。


「姉さんを探したとき?」


「そうだと思っていたが……」


 御影の指が、行の終わりへ動いた。


 須佐之男が身を寄せる。


 川向こうの渡し場へ、二人。


 北の山道へ、三人。


 その下に、短い名前があった。


 沙夜。


 奇稲田姫が、息を止めた。


 須佐之男は彼女を見た。


「知ってるか」


 彼女は、帳面の字を見つめていた。


「姉さんが、呼んでた」


 声が少しかすれた。


「川のところで。その名前」


 御影が頁の先を確かめる。


 次の行は、もっと短かった。


 帰らず。


 それから先に、書き足されたものはなかった。

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