第15話 川向こうの沙夜
沙夜の家は、川向こうの渡し場にあった。
御影は、知っている者に確かめてからそう教えた。今も母親と弟が暮らしているという。
「私から先に話を通そうか」
尋ねられ、奇稲田姫は少し考えた。
「一緒に行ってもらえますか」
「構わない」
須佐之男は二人を見た。
昨日までなら、自分たちだけで行けばいいと思ったかもしれなかった。
けれど、名前も知らない旅人が突然訪ねてきて、いなくなった娘の話を聞かせろと言ったところで、戸を開けてもらえるとは限らない。
御影は、見つかった簪を小さな箱へ収めた。
「これも持っていく。触れる前に、本人に確かめてもらおう」
*
出かけたのは、翌朝だった。
奇稲田姫は、普段よりしっかり髪を結んでいた。肩に掛けた袋には、水と食べ物が入っている。
須佐之男が小屋の戸を閉めると、彼女はその下を見た。
「直ったんだ」
「岩彦が削ってくれた」
「よかったね」
「ああ」
戸は、持ち上げなくても動いた。
それだけで、小屋が少し自分の使う場所になった気がした。
御影は道の下で待っていた。
三人で川へ向かう。
朝の田には人が出ていた。奇稲田姫は何度か声をかけられ、そのたびに、川向こうへ用があると答えた。
詳しく尋ねられると、御影が言葉を引き取った。
「古い記録を確かめに」
それで納得する者もいれば、奇稲田姫の顔を見て黙る者もいた。
村を離れると、彼女は少し歩く速度を落とした。
「疲れたか」
須佐之男が尋ねる。
「まだ何もしてないよ」
「そうだけど」
奇稲田姫は振り返った。
家々の屋根が、田の向こうへ小さくなっていた。
「村の外だと、聞かれないんだね」
「何を」
「今年はどうするのって」
須佐之男は返事をせず、彼女と同じ速さで歩いた。
*
渡し場には、小さな舟が二艘つながれていた。
片方には、野菜の入った籠が積まれている。もう片方で、男が櫂の柄へ布を巻いていた。
御影が声をかける。
男は三人を見て、荷物の少ない舟を岸へ寄せた。
「向こうの村まで?」
「ああ。志乃の家へ行きたい」
「渡し場から上がって、柳の先だ」
奇稲田姫が先に乗った。
舟が傾く。
須佐之男は縁を押さえた。
「真ん中へ」
「分かってる」
彼女は座り、彼の顔を見上げた。
「あなたは乗らないの?」
須佐之男も乗り込んだ。
御影が続き、男が舟を岸から離す。
川の流れを受けて、船首が斜めを向いた。
須佐之男は無意識に水へ手を伸ばしかけた。
櫂が動く。
男は流れへ逆らわず、少し上流へ向けて舟を進めた。岸から遠ざかるにつれ、舟はゆっくり正しい道へ入っていく。
須佐之男は手を膝へ戻した。
奇稲田姫がそれを見ていた。
「どうしたの」
「何でもない」
水面を小さな虫が滑っていた。
彼女はそちらへ目を移し、少しだけ身を乗り出した。
「昔、ここで魚を捕ろうとしたのか」
須佐之男が尋ねると、奇稲田姫は顔を上げた。
「うん。たぶん、あのへん」
川岸の浅いところを指す。
「姉さんに、落ちるって言われた」
「落ちた?」
「足だけ」
須佐之男は笑った。
「十分だろ」
彼女も少し笑った。
そのあとで、浅瀬を長く見ていた。
*
志乃の家は、戸を開けていた。
軒先に、洗った籠が伏せてある。細い縄が何本も下がり、その下で少年が木の柄を削っていた。
御影が名を呼ぶと、奥から女が出てきた。
年は手名椎と近いだろうか。
腕に、乾かしかけの衣を抱えている。
「御影さん」
「急にすまない。少し、話を聞かせてほしい」
志乃は御影の後ろを見た。
須佐之男へ目を向け、次に奇稲田姫を見る。
そのまま、視線が止まった。
「足名椎さんのところの……」
「奇稲田です」
彼女が頭を下げた。
「小さい頃に、一度会ったかもしれません」
志乃の手が、衣を握り直した。
「大きくなったね」
言ってから、彼女は自分の言葉を持て余したように目を伏せた。
奇稲田姫は頭を上げたが、何も答えなかった。
少年が削る手を止めた。
「母さん、誰?」
志乃は家の中を振り返った。
「陸。水を汲んできて」
少年は三人を見た。
それから木の柄を置き、桶を持って立ち上がった。
*
家の中には、渡し場の道具が多かった。
縄を巻く木枠。
櫂の替え。
舟底へ塗るものらしい、強い匂いのする壺。
志乃は衣を片づけ、座る場所を空けた。
「沙夜のこと?」
誰もまだ、その名前を出していなかった。
御影が頷いた。
「古い記録を調べていて、名前が見つかった」
志乃は小さく息を吐いた。
「そう」
御影は箱を前へ置いた。
「これを、見てもらえるだろうか」
蓋を開ける。
赤い簪が現れた。
志乃は手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「触っても?」
「もちろん」
彼女は両手で受け取った。
鳥の形を見て、裏返す。
傷の残る小さな字を、指先でなぞった。
「沙夜のです」
奇稲田姫の膝の上で、指が動いた。
志乃は簪から目を離さなかった。
「どこにあったの」
「古い祭場です。稲世が山へ行った翌年、片づけのときに見つかっていた」
御影が答えた。
志乃が顔を上げた。
「翌年?」
「ああ」
「そのときから、そちらに?」
御影は頷いた。
志乃は彼を見ていた。
怒鳴らなかった。
ただ、簪を握る手に少し力が入った。
「私、何度も聞きに行きました」
御影は目を伏せた。
「知っている」
「何か見つからなかったかって」
「そのとき、これが沙夜のものだとは分かっていなかった」
「見せてもらえれば、分かりました」
御影は答えなかった。
外で、桶を置く音がした。
陸が戸口に立っていた。
*
少年は、母の手元を見た。
「それ、姉ちゃんの?」
志乃が頷く。
陸はそばへ座った。
簪へ顔を近づけ、傷のあるほうを見た。
「ここ、俺が落としたんだ」
須佐之男は少年を見た。
「覚えてるのか」
「覚えてる。怒られたから」
陸は軸の削れたところを指した。
「舟の板の間に入って、取れなくなった。櫂でこじったら、こうなって」
志乃の口元がわずかに動いた。
「沙夜、ずいぶん怒ってたね」
「自分で貸したくせに」
陸はそう言ったあと、口を閉じた。
簪から顔を離す。
「見つかったなら、姉ちゃんも近くにいたんだろ」
誰も、すぐには答えられなかった。
*
「沙夜さんは、姉と親しかったんですか」
奇稲田姫が尋ねた。
志乃は彼女へ向き直った。
「稲世さんとは、よく会っていたよ」
「何をしていたの?」
「最初は糸や布のやり取り。あちらで足りないものを、こっちで探したりね」
志乃は簪を膝へ置いた。
「そのうち、用事がなくても出かけるようになった。川向こうへ行くと言えば、稲世さんに会うんだと思っていた」
奇稲田姫は頷いた。
「私も、一度ついていきました。袖を濡らして、沙夜さんが絞ってくれた」
志乃は少し目を細めた。
「覚えているよ。小さい妹が来たって、話してた」
奇稲田姫の唇がわずかに開いた。
「私のことを?」
「ええ。魚を手で捕ろうとしてたって」
彼女は目を伏せた。
須佐之男は何も書かず、二人の話を聞いていた。
志乃が簪を持ち上げる。
「これも、稲世さんと同じものが欲しいと言って、自分で買ってきた」
「名前を刻んだのは?」
須佐之男が尋ねた。
「沙夜です。よく物をなくすから」
陸が横から言った。
「なくすんじゃなくて、俺に持っていかれるからって」
志乃は息子を見た。
「あなた、そんなに?」
「少し」
須佐之男は、木彫りの鳥を見た。
大切な品でも、暮らしの中では貸したり、落としたり、取り合ったりする。
箱へしまわれたままのものとは違う時間が、その小さな傷に残っていた。
*
沙夜がいなくなった日の話になると、志乃の声は小さくなった。
「朝から、落ち着かなかった」
彼女は膝の上で手を組んだ。
「家の仕事は普通にしていた。でも、何度も川を見に行っていた」
「稲世が山へ行くことは、知っていたんですか」
御影が尋ねた。
「知っていました。前の日も、帰りが遅かったから」
「何か、言っていましたか」
志乃は首を振った。
「聞けば、話したのかもしれない。でも、その頃は、働いて、食べて、寝るだけで一日が終わっていたから」
須佐之男が口を開いた。
「出かけるときの格好は?」
志乃は彼を見た。
「普段の衣です。裾の短いほうを着ていた。足元も、歩くためのものだった」
「荷物は?」
「小さな袋を一つ」
陸が顔を上げた。
「縄も持っていった」
母が息子を見る。
「陸」
「持っていったよ。俺、見てた」
「どうして、そのとき言わなかったの」
「言った」
陸の声が強くなった。
「姉ちゃんが縄を持っていったって、言ったよ。舟をつなぎに行ったんだろうって、父さんが」
志乃は口を閉じた。
陸は床を見た。
「舟じゃないほうへ行ったのに」
須佐之男は少年へ身体を向けた。
「どっちだ」
「川を渡ったあと、上へ」
「山のほう?」
陸が頷く。
「俺、ついていこうとした。けど、帰れって」
「追いかけなかったのか」
言ってから、須佐之男は問い方が悪かったと思った。
陸は唇を噛んだ。
「小さかったんだよ」
「……そうだな。悪かった」
少年は返事をしなかった。
*
志乃は、長いあいだ何も言わなかった。
やがて、奇稲田姫へ目を向ける。
「沙夜は、供え人ではなかった」
奇稲田姫が頷いた。
「姉さんとは、別に行ったんですね」
「そう。だから、村へ聞きに行っても、祭りとは関係がないんじゃないかと言われた。川で何かあったのかもしれないって」
志乃は簪を見た。
「でも、これは山にあった」
御影が頭を下げた。
「確かめ直します」
「今から?」
短い問いだった。
御影は顔を上げた。
「ああ。遅くなった」
志乃はしばらく彼を見ていた。
それから、簪を自分の手の中へ戻した。
「これは、返してもらっていいですか」
「もちろんです。見つかった場所と形は、こちらへ残しておきます」
御影は箱ごと差し出した。
志乃は蓋をせず、娘の簪を見ていた。
*
話が終わりかけたとき、陸が立ち上がった。
家の奥へ行き、木枠の後ろを探る。
何かを引き出して戻ってきた。
薄い板だった。
片側に古い文字があり、その上を削るようにして、別の線が刻まれている。
「これも、姉ちゃんの」
志乃が眉を寄せた。
「そんなもの、どこにあったの」
「縄の箱の下。前に見つけた」
「なぜ、しまっていたの」
陸は少し迷った。
「捨てられると思ったから」
志乃は何も言わなかった。
須佐之男は板を受け取った。
大きな川のような線。
そこから分かれる細い線。
山を表しているらしい、いくつかの山形。
端のほうに、小さな四角があった。
「地図か」
御影がのぞき込む。
「この曲がり方は、北の川に似ている」
奇稲田姫も身を寄せた。
「ここ、古い田?」
御影はすぐには答えなかった。
「そうかもしれない。現地と合わせないと」
須佐之男は指で線をたどった。
川から離れ、山の中へ入る道がある。
その途中に、二つの短い線が並んでいた。
何の印かは分からない。
板の裏を見ると、薄く字が残っていた。
水が上がる前。
須佐之男は、もう一度表へ返した。
「借りていいか」
陸は母を見た。
志乃は板を見てから、須佐之男へ向き直った。
「返してくださいね」
「返す」
彼は板を両手で持ち直した。
*
帰る前、志乃が奇稲田姫を呼び止めた。
須佐之男と御影は、先に外へ出た。
軒先で待っていると、家の中から声が聞こえた。
「今年は、あなたなの」
「はい」
少し間があった。
「私にできることは、ある?」
須佐之男は戸口を見た。
奇稲田姫は、すぐには答えなかった。
「沙夜さんのことで、何か思い出したら、教えてください」
「うん」
「小さいことでも」
「分かった」
それから、奇稲田姫が外へ出てきた。
志乃は戸口に立ち、三人を見送った。
陸はその隣で、空になった手を握っていた。
*
帰りの舟で、須佐之男は板を膝へ置いた。
濡らさないよう、上着の端で覆う。
奇稲田姫は川を見ていた。
朝と違い、浅瀬には光が差している。水の下を、小さな魚が一匹、石から石へ移った。
「姉さん、一人じゃなかったんだね」
彼女が言った。
須佐之男は板へ目を落とした。
「沙夜が、会えたかどうかは分からない」
「うん」
奇稲田姫は頷いた。
「でも、行こうとした」
「ああ」
彼女は、それ以上言わなかった。
御影は舟の反対側で、地図の写しを取っていた。舟が揺れるたびに手を止め、岸の形を見直している。
須佐之男は、板の裏の文字を思い出した。
水が上がる前。
山へ行った娘は、川の動きを気にしていた。
祭りの記録には、そのことは書かれていなかった。
*
岸へ着くと、御影が言った。
「明日、古い祭場へ行こう」
奇稲田姫が顔を上げる。
「道が分かる人は?」
「岩彦に頼む。あの年、片づけに入っている」
須佐之男は山のほうを見た。
行き先が、初めてはっきりした。
「雨が降ったら?」
「川を見て決める。無理には入らない」
御影の返事に、須佐之男は頷いた。
奇稲田姫が板を見た。
「私も行く」
「分かってる」
須佐之男が答えると、彼女は少し驚いた顔をした。
「止めないの?」
「道を確かめて、危なければ戻る。俺も、お前も」
奇稲田姫は彼を見た。
それから、静かに頷いた。
須佐之男は板を布で包んだ。
七年前、沙夜が持っていた道は、まだ最後まで読めていなかった。




