第16話 古い祭場
岩彦は、山へ入る前に三人の足元を見た。
御影の履物。
奇稲田姫の裾。
それから、須佐之男の腰に結ばれた荷物。
「それ、もう少し上へ結べ。枝に引っ掛かる」
須佐之男は紐を締め直した。
岩彦は長い棒で道の草を払った。
「今日は、昔の祭場までだ。そこから先は、道を見て決める」
「雨は?」
奇稲田姫が空を見た。
「今は降らんだろう。ただ、ここで降ってなくても、上では分からん」
須佐之男は地面へ目を向けた。
浅い水は、ゆっくり山を下っていた。
その奥にある流れは、まだ遠い。
「水が変わったら、言う」
岩彦は彼を見て、頷いた。
「頼む」
それだけ言って、先へ立った。
*
初めのうちは、畑へ通う道と変わらなかった。
踏み固められた土が続き、木の根には削れた跡がある。ところどころに、枝を切ったばかりの切り口も見えた。
しばらく登ると、道が二つに分かれた。
右は広く、草も少ない。
左は、低い枝の下へ消えていた。
岩彦は左を指した。
「古い田は、こっちだ」
御影が右の道を見た。
「今の祭場へは、あちらから行く」
奇稲田姫の足が止まった。
須佐之男も右を見た。
道の脇に、白く乾いた木の札が立っている。雨に打たれて、書かれた文字は薄くなっていた。
奇稲田姫は、その札を見ていた。
「まだ先だよ」
御影が静かに言った。
「今日、行く場所とは違う」
彼女は頷いた。
岩彦が左の枝を持ち上げる。
奇稲田姫は一度だけ右を振り返り、それから木の下をくぐった。
*
古い田は、林の中に残っていた。
木々の間を、低い石垣が幾段も走っている。平らだったはずの地面には草が茂り、細い幹が土を押し上げていた。
「ここで、稲を作ってたの?」
奇稲田姫が尋ねた。
「ああ。今の村ほど広くはなかったがな」
岩彦は石垣の端へ棒を当てた。
「この先が水口だ」
須佐之男はしゃがんだ。
石の間に、泥で埋まった溝がある。
手を近づけると、その下を流れる冷たい水が分かった。
「まだ通ってる」
御影が隣へ来た。
「表には出ていないが」
「下だ。石の奥へ入ってる」
須佐之男は指を地面につけた。
細い流れが、石垣の下で二つに分かれていた。
一つは斜面へ下る。
もう一つは、山の奥へ向かっている。
彼は目を開けた。
「こっちは、昔からあったのか」
奥へ続くほうを指す。
岩彦は首をかしげた。
「水を取っていた沢なら、もっと上だ。そこへ向かう溝は、覚えとらん」
須佐之男は沙夜の板を取り出した。
御影が写しを広げる。
川から伸びた線。
山形の下にある、二つの短い印。
奇稲田姫が、少し離れた場所で声を上げた。
「これ、何?」
*
石垣の間に、二本の木が残っていた。
地面から少しだけ突き出し、苔に覆われている。片方は折れ、もう片方には横向きの穴があった。
岩彦が近づいた。
「木戸の柱だな」
「田に?」
「獣が入るからな。夜は閉めていた」
奇稲田姫は地図を見た。
須佐之男も板の印へ目を落とした。
二本の短い線。
その間を、道が抜けている。
「ここか」
御影が地図の向きを変えた。
木戸の先には、細い道の跡があった。
草に覆われているが、地面が周囲より低い。
岩彦はしばらく、その奥を見ていた。
「昔は、ここを通って祭場へ行った」
「さっきの道とは違うのか」
須佐之男が尋ねる。
「荷を運ぶなら、向こうが歩きやすい。こっちは狭いが、早い」
奇稲田姫が板を見た。
「沙夜さんは、知ってたんだ」
誰も答えなかった。
岩彦は棒で草を払った。
「足元を見て来なさい。石が動く」
*
道の途中で、小さな沢を渡った。
橋はなかった。
向こう岸へ渡されていたらしい木が、折れて流れの脇へ落ちている。水の中には、平たい石が幾つか見えた。
岩彦が棒で石を突いた。
一つが、ぐらりと動いた。
「これは駄目だな」
須佐之男は流れを見た。
深くはない。
けれど、岩彦の足では滑りやすそうだった。
「少し待って」
彼は下流へ回った。
流れの端に、枝と小石が集まっている。それを除くと、水が脇へ分かれた。
さらに手を入れ、石の上を越えていた水を少しだけ横へ寄せる。
踏める場所が二つ、現れた。
「今なら渡れる」
岩彦が石を確かめた。
杖をつき、一歩ずつ渡る。
奇稲田姫が続いた。
御影は最後までこちらの岸に残っていた。
須佐之男の手元を見ている。
「御影」
呼ぶと、彼は顔を上げた。
「ああ」
渡り終えるのを待って、須佐之男は水を戻した。
石が再び流れの下へ沈む。
御影は、その水面を見ていた。
「今のは」
「あとで話す。ここ、ずっと立ってると滑る」
御影は須佐之男へ目を向けた。
何か言いかけたが、先へ進んだ。
*
古い祭場は、大きくなかった。
林が途切れ、平らな地面が現れる。
奥には幅のある岩があり、その前に石が並べられていた。草を払うと、器を置いたらしい浅いくぼみが見えた。
須佐之男は、少し拍子抜けした。
巨大な社も、門もない。
縄の跡が幹に残り、朽ちた木が端へ寄せられている。それだけだった。
奇稲田姫は入口で止まっていた。
須佐之男は、先へ進まずに待った。
彼女は岩を見た。
それから、足元の土を見た。
「ここに、姉さんが来たんだ」
御影が頷く。
「最初の年は、ここだった」
奇稲田姫はゆっくり歩いた。
石の前へしゃがみ、草を一本抜く。
その下に、もう一つのくぼみがあった。
「お酒を置いたの?」
「ああ」
「姉さんは、どこにいたの」
御影は岩の前を示した。
「そのあたりだと思う。ただ、私はあの年、ここには来ていない」
奇稲田姫は頷いた。
岩彦が少し離れたところで口を開いた。
「片づけたとき、布の切れ端が引っ掛かっていたのは、そっちだ」
一本の木を指す。
今は何もついていなかった。
奇稲田姫はその木へ歩いていき、幹へ手を添えた。
須佐之男は、彼女の後ろから同じ場所を見た。
枝は折れ、新しい芽が伸びている。
七年のあいだに、木の形も変わっていた。
*
岩彦が簪を拾った場所を探し始めた。
「このへんだったはずだが」
祭場の中央ではなかった。
大きな岩の裏側へ回り、斜面が少し落ち込んだところを棒で払う。
「私が見つけたんじゃない。拾った者が、ここから戻ってきたのを覚えとる」
「誰が」
御影が尋ねる。
岩彦は名前を答えた。
今は遠くの村へ移った者だった。
御影が板へ書き留める。
須佐之男は岩の裏へ手をついた。
冷たかった。
表面の冷たさではない。
岩の下を、多くの水が通っていた。
「ここ、空いてる」
三人が彼を見る。
須佐之男は膝をつき、根元の草を分けた。
石の下に黒い隙間があった。
枯れ葉が詰まり、その奥へ泥が流れ込んでいる。
奇稲田姫がそばへしゃがんだ。
「穴?」
「下に水がある」
須佐之男は、隙間へ無理に手を入れず、脇の土を少しずつ除けた。
宗太から借りた短い道具で、根を切る。
御影が掘った土を後ろへ寄せた。
しばらくすると、下へ続く石の縁が見えた。
自然に割れただけの形ではなかった。
岩彦が目を細めた。
「段になっとるな」
須佐之男は地図を広げた。
祭場らしい四角の、裏側。
細い線が山へ入り、そこで途切れている。
板の裏には、あの言葉があった。
水が上がる前。
*
「入れる?」
奇稲田姫が尋ねた。
須佐之男は穴の奥を探った。
水はある。
底全体を満たしてはいない。
ただ、先へ行くほど流れが複雑になり、途中で深く落ちている場所があった。
「入口なら」
彼は答えた。
「奥は、まだ分からない」
御影が空を見上げた。
木々の隙間には、薄い雲が広がっている。
「長くは入らない。明かりを用意しよう」
岩彦が荷物を下ろした。
油を含ませた布を、短い木へ巻く。
須佐之男は火打ちの袋を出した。
風を避け、火口へ火を移す。
奇稲田姫がその横で、縄をほどいていた。
「どこへ結ぶ?」
岩彦が太い木を選んだ。
「ここなら動かん。下りるときに使え」
須佐之男は縄を引き、結び目を確かめた。
御影へ顔を向ける。
「俺が先に見る。水が変わったら戻る」
「ああ」
「上にも、一人残ってくれ」
「私がいよう」
岩彦が答えた。
須佐之男は頷き、岩の隙間へ身体を入れた。
*
中は、外から見るより広かった。
数段の石が斜めに下り、その先に低い空間がある。
天井は高くない。
背をかがめれば歩ける程度だった。
足元の半分を水が流れ、もう半分は細い岩棚になっている。
須佐之男は灯りを上げた。
壁に、黒い跡があった。
湿った石の色とは違う。
手で触れると、指先に煤がついた。
「誰か、火を使ってる」
あとから下りてきた御影が、壁を見た。
「古いものかもしれない」
「ああ」
奇稲田姫も入口から顔を出した。
「下りていい?」
「右へ足を置いて。左は水だ」
彼女は縄を握り、ゆっくり下りてきた。
足が岩棚へ着くと、息を吐いた。
「姉さんたちも、ここへ?」
「まだ分からない」
須佐之男は灯りを前へ向けた。
奥には、細い水路が続いていた。
水を受けるだけの穴ではない。
誰かが、歩ける場所を残していた。
*
進んだのは、入口の光がまだ見えるところまでだった。
岩棚の端に、短い杭が打たれていた。
その先へ、朽ちた縄が伸びている。
須佐之男は触らず、灯りを近づけた。
古い縄の上に、別の紐が結ばれていた。
色が違う。
太さも違った。
御影がしゃがんだ。
「補ったのか」
奇稲田姫が目を細める。
「この結び方、舟で使うやつに似てる」
須佐之男は彼女を見た。
「分かるのか」
「同じかは分からない。でも、昨日の渡し場で見た」
御影は板を出しかけ、暗さを見てやめた。
「形を覚えておこう。明るいところで描く」
水が、須佐之男の足元で揺れた。
彼は顔を上げた。
奥から、冷たい流れが増えてきた。
「戻る」
奇稲田姫が先を見た。
「まだ、少ししか」
「水が動いた」
須佐之男は灯りを低くした。
岩棚の下へ、水面が近づいている。
奇稲田姫はそれを見て頷いた。
御影が彼女を先へ行かせる。
三人は足元を確かめながら戻った。
途中で奇稲田姫の裾が岩へ引っ掛かった。
彼女が振り返る。
須佐之男は布を引かず、引っ掛かった枝を折った。
「大丈夫」
彼女が言う。
「ああ。先へ」
*
外へ出ると、空気が温かく感じた。
岩彦が縄を引き上げる。
「何があった」
「道がある」
御影が答えた。
「水路の脇を、人が歩けるようになっている」
「昔の水番が使ったのかもしれんな」
須佐之男は穴の中を見た。
下の段へ、水がかかり始めていた。
雨は降っていない。
山の奥で増えた水が、こちらへ来ているのか。
それとも、別の場所から押されているのか。
まだ、どちらかは分からなかった。
奇稲田姫が沙夜の板を広げた。
「これ、入れる時間を書いたんだ」
水が上がる前。
須佐之男は頷いた。
「少なくとも、水が上がることを知ってた」
「沙夜さんは、ここへ来たことがあったのかな」
御影が穴を見た。
「地図だけで決めつけることはできない。ただ、現地を知って描いた線には見える」
奇稲田姫は板を胸元へ寄せた。
持ってきた地図が、初めて目の前の場所とつながっていた。
*
岩彦が帰り支度を始めた。
「今日は戻ろう。道が暗くなる」
御影も頷く。
須佐之男は縄をまとめ、灯りの火を消した。
奇稲田姫は穴の前へしゃがんでいた。
「どうした」
彼が声をかける。
彼女は地面を指した。
掘り出した土の、少し奥。
岩陰に、浅い窪みがあった。
「これ、私たちの足跡?」
須佐之男もしゃがんだ。
自分たちが通ったところは、土が大きく崩れている。岩彦の杖の跡も、はっきり残っていた。
けれど、奇稲田姫が示した場所は、入口から少し外れていた。
狭い岩の隙間へ続く、小さな足跡。
履物の底らしい筋が、湿った土に残っている。
須佐之男は御影を呼んだ。
御影は一目見て、顔を引き締めた。
「誰も、そこは歩いていないな」
岩彦が首を振る。
「わしは上から来た。そっちへは入っとらん」
足跡の端に、折れた草があった。
切り口は、まだ乾いていなかった。
奇稲田姫が、岩の隙間を見た。
人が一人、身体を横にすれば通れそうだった。
「誰か来てる」
須佐之男は答えず、隙間の奥へ耳を澄ませた。
水音がした。
少し遅れて、小石が一つ落ちる音がした。
四人とも動かなかった。
奥の暗がりで、もう一度、小さな音がした。




