第17話 暗がりの声
「そこから動くな」
岩の隙間から声がした。
低い声だった。
須佐之男は、踏み出しかけた足を戻した。
奇稲田姫も動きを止める。御影が彼女の横へ来たが、前へ出るより先に、もう一度声がした。
「白い衣の人。下がって」
御影が自分の衣へ目を落とした。
「私のことか」
「ほかに誰がいる」
女の声だった。
岩陰に、人の輪郭が見えた。片手を壁へつき、身体を半分だけ隠している。
もう片方の手に、短い刃があった。
須佐之男は腰の小刀へ触れなかった。
「こっちも、誰がいるか確かめたいだけだ」
「確かめたでしょう」
女が言った。
「人がいる。分かったら帰って」
奇稲田姫が一歩、前へ出た。
「待って」
刃の先が動いた。
須佐之男は彼女の腕へ手を伸ばしかけたが、奇稲田姫は自分で止まった。
「捜している人がいるんです」
女は答えなかった。
「七年前から、この山で――」
「知ってる」
短い返事だった。
奇稲田姫の口が閉じた。
御影が顔を上げる。
「あなたは、誰だ」
岩陰の女は、御影を見ていた。
「それを聞きに来るのに、ずいぶんかかったね」
*
水の音が変わった。
須佐之男は地面へ目を向けた。
岩の下から来ていた流れが、一度、細くなった。その奥へ水が引かれる。
すぐに戻る。
先ほどより、多かった。
「話すなら、上へ行こう」
彼が言うと、女は短刀を握り直した。
「近づかないで」
「水が来る」
「分かってる」
女は岩の奥を見た。
その一瞬、顔が明るいところへ出た。
頬は痩せていた。髪は短く切り、額へかからないよう布で押さえている。手首にも、何度か巻き直したらしい布があった。
奇稲田姫が息を吸った。
須佐之男は彼女を見た。
知っている顔なのかと思ったが、奇稲田姫は小さく首を振った。
女が言った。
「そこに開けた穴、使わないで。今は上がってくる」
御影が振り返る。
さっき三人で下りた石段の入口だった。
暗い隙間に、水が光っている。
須佐之男は頷いた。
「俺たちは、こっちの道から戻る」
「なら、早く」
「お前は?」
女は答えず、身体を引いた。
奇稲田姫が声を上げた。
「沙夜さんを、知りませんか」
女の足が止まった。
*
須佐之男にも、その変化は分かった。
女は、隠しかけた顔をもう一度出した。
「今、何て」
「沙夜さんです。川向こうの渡し場の」
奇稲田姫は荷物へ手を入れた。
女の刃が上がる。
「出すな」
「地図です」
奇稲田姫は手を止めたまま言った。
「沙夜さんの弟から、借りました」
女は彼女を見ていた。
しばらくして、顎をわずかに動かした。
奇稲田姫はゆっくり板を取り出す。
広げて見せた。
女は近づかなかった。
けれど、目は板へ向いていた。
「それで、ここへ来たの」
「はい」
「陸は?」
奇稲田姫の指が止まった。
「元気でした」
「そう」
女は板から目を離した。
そのとき、岩の下で鈍い音がした。
石段の穴から、水があふれ出した。
*
最初は、細い流れだった。
草の間を抜け、古い祭場の端へ広がる。
須佐之男は女より先に、岩彦を見た。
老人はすでに杖をつき、斜面の高いほうへ移ろうとしていた。
御影が腕を貸す。
奇稲田姫は地図を袋へ戻した。
「上へ」
須佐之男が言った。
彼女は頷き、岩彦の荷物を拾った。
女も岩陰から出た。
思っていたより小柄だった。足元には、革と布を重ねて作った履物をつけている。濡れた岩の上でも、ほとんど滑らずに歩いた。
彼女は三人とは違う方向へ向かった。
大きな岩の裏から、木の根の張った斜面へ取りつく。
須佐之男はその足元を見た。
根の下で、土が動いていた。
「そこ、乗るな」
女が彼を見る。
次の瞬間、土が崩れた。
女の身体が落ちかける。
岩へ片手をつき、持ちこたえた。短刀が地面へ落ち、水に押される。
須佐之男は駆け寄った。
「手を」
「触るな」
「じゃあ、右へ移れ。足場がある」
女は下を見た。
右側の石は、水に洗われていた。
須佐之男は流れを確かめた。
地下から出てくる水は止められない。
止めれば、どこへ押し戻されるか分からない。
彼は石を越える浅い流れだけを、脇の低い場所へ寄せた。
一瞬、石の上が現れた。
「今」
女が足を移す。
須佐之男は、木の根から垂れた縄をつかんだ。誰かが前から掛けていたものだった。
強く引いて、動かないことを確かめる。
「これ、持つか」
女は一度、彼の手を見た。
それから縄をつかみ、斜面を上がった。
須佐之男も続いた。
足を離すと、水が石の上へ戻った。
*
高い場所へ出ると、古い祭場が見下ろせた。
石のくぼみに水がたまっている。
岩の裏から出た流れは、草を倒しながら下へ向かい、やがて細くなった。
須佐之男は息を整えた。
大きな力を使ったわけではなかった。
それでも、地下の水の重さが指先へ残っていた。
横で女が手を開いた。
掌が擦れていた。
彼女は衣で拭い、すぐ岩陰の道へ目を向ける。
「待ってくれ」
御影が言った。
岩彦は木の根元に座り、奇稲田姫がその荷物を下ろしていた。
「あなたの名を、聞かせてほしい」
女は立ったままだった。
御影を見ている。
御影が一歩進むと、彼女は同じだけ下がった。
彼は止まった。
手にしていた杖を地面へ置く。
「これでいいか」
女は返事をしなかった。
須佐之男は少し離れた場所へ腰を下ろした。
追いかけるつもりがないことくらいは、伝わるかもしれなかった。
奇稲田姫も、岩彦の隣へ座った。
女は四人を順に見た。
しばらくして、ようやく言った。
「阿弥」
御影の顔が動いた。
その名前を知っていた。
*
「稲葉の年に、山へ入った――」
御影が言いかけると、阿弥は短く頷いた。
「戻らなかった女。そう書いてある?」
御影は答えるまでに少し時間がかかった。
「記録を確かめないと、正確には」
「覚えてないんだ」
阿弥は笑わなかった。
御影も言い訳をしなかった。
奇稲田姫が、膝の上の手を開いた。
「稲葉は、私の姉です」
阿弥の目が、彼女へ向いた。
「そう」
「奇稲田です」
女の顔から、張りつめていたものが少し消えた。
代わりに、別の表情が浮かんだ。
驚きなのか、痛みなのか、須佐之男には分からなかった。
「……こんなに大きくなったの」
奇稲田姫は少し身を乗り出した。
「私を知ってるんですか」
「顔は、ほとんど覚えてない。名前は聞いてた」
「誰に?」
阿弥は答えなかった。
その沈黙に、奇稲田姫の肩が固くなる。
「姉さんたちは、どこにいるんですか」
阿弥は山の奥へ目を向けた。
「ここで全部は話せない」
「どうして」
「私が勝手に話していいことじゃないから」
奇稲田姫の口が開いた。
言葉が出る前に、阿弥が続けた。
「あなたのことも、聞いた」
「私の?」
「今年、山へ送られる子」
奇稲田姫は動かなかった。
須佐之男は阿弥を見た。
「村のこと、知ってるのか」
「山にいたって、何も聞こえなくなるわけじゃない」
彼女はそう答えた。
*
御影が尋ねた。
「ほかにも、人がいるのか」
阿弥の顔が再び硬くなった。
「何人だ」
「それを聞いて、どうする」
「生きているなら、村へ知らせる。家族も――」
「知らせたら、迎えに来る?」
御影は言葉を止めた。
阿弥は奇稲田姫を見た。
「連れて帰れると思って来たなら、今日は帰って」
奇稲田姫は唇を噛んだ。
「まだ、誰にも会ってない」
「だから、先に言ってる」
須佐之男は地面の小石を見た。
高天原の門を出た朝、自分の部屋はまだあった。
戻る道も知っていた。
それでも、帰って寝ることはできなかった。
ここにいる者たちの事情とは違う。
違うが、家があるなら戻ればいい、と簡単には言えなかった。
「今、足りないものはあるか」
彼が尋ねると、阿弥が顔を向けた。
「何の話」
「食べ物とか、傷を洗う布とか」
「それで場所を聞くつもり?」
「場所は、今は聞かない」
須佐之男は自分の荷物を下ろした。
中から、水を入れた筒と、包んだ飯を出す。
「要らなければ、持って帰る」
阿弥は包みを見た。
すぐには手を伸ばさなかった。
奇稲田姫が自分の袋を開けた。
「薬草もあります。岩彦さんが転んだら使うつもりで」
「わしだけか」
岩彦が小さく言った。
奇稲田姫は一瞬、彼を見た。
「……私たちが転んでも」
岩彦は頷いた。
阿弥の口元が、ほんの少し動いた。
*
結局、阿弥は布と薬草を受け取った。
飯には手をつけなかった。
「食べ物はある」
そう言った。
須佐之男は包み直した。
御影は地図の写しを取り出した。
「この道は、いつ使える」
阿弥が板を見た。
「今は、朝に一度、水が上がる。日によって違うから、時刻だけで入らないで」
「昔から?」
「前より増えてる」
須佐之男が顔を上げた。
「戻る間隔が、短くなってるのか」
阿弥は彼を見た。
「分かるの?」
「少しだけ、動きに触れた」
彼女はさっきの石のほうへ目を向けた。
「水を避けたね」
御影も須佐之男を見た。
奇稲田姫は何も言わなかった。
須佐之男は、布を巻いた自分の掌を見た。
「その話も、あとでする」
阿弥は追及しなかった。
代わりに、地図の端を指した。
「ここから先は、今の流れと違う。これを信じて奥へ入らないで」
「沙夜が描いたときとは?」
「変わってる」
奇稲田姫が尋ねた。
「沙夜さんに、会ったんですか」
阿弥は地図から手を離した。
「私は、その頃にはいなかった」
奇稲田姫の顔が少し曇る。
「でも、その名前は知ってる」
阿弥は続けた。
「話せる人がいるか、聞いてみる」
*
日が木々の間へ傾き始めた。
岩彦が立ち上がり、杖を確かめた。
「もう下りんとな」
御影は頷いた。
奇稲田姫だけが、座ったままだった。
阿弥は山の奥へ身体を向けた。
「次に来るなら、あの二本の柱までにして。そこへ布を結んでおいて」
「誰か来る?」
須佐之男が尋ねる。
「私が見る」
「どれくらい待てばいい」
「日が高くなっても来なければ、帰って。勝手に先へ入らないで」
彼は頷いた。
奇稲田姫が立ち上がった。
「阿弥さん」
女が振り返る。
彼女は一度、息を吸った。
「全員のことを、今、教えてほしいとは言いません」
指先が、袋の紐を握っていた。
「でも、誰か一人でも、生きているのかだけ」
阿弥は奇稲田姫を見た。
長い沈黙になった。
須佐之男は口を挟まなかった。
御影も、岩彦も待っていた。
やがて、阿弥が言った。
「稲羽は、生きてる」
奇稲田姫の手から、紐が落ちた。
*
「稲羽姉さん?」
阿弥が頷く。
「去年、山へ行った、稲羽?」
「そう」
「会える?」
言葉が早くなった。
奇稲田姫は一歩前へ出た。
阿弥は逃げなかった。
ただ、首を振った。
「私が決めることじゃない」
「でも、私――」
「妹が来たと伝える。それから、本人に聞く」
奇稲田姫は阿弥を見ていた。
頷こうとして、うまく動けなかった。
「元気なの?」
「怪我はしてない」
「食べてる?」
「食べてる」
「寒くない?」
阿弥は、少しだけ声を和らげた。
「今は大丈夫」
奇稲田姫は口元へ手を当てた。
何か言おうとしたが、息だけが出た。
須佐之男は荷物を拾い、彼女のそばへ立った。
肩には触れなかった。
奇稲田姫はしばらくして、ようやく頷いた。
「伝えてください」
「何を」
彼女は目を閉じた。
考える時間が必要だった。
そして、目を開ける。
「奇稲田が来たって」
阿弥は頷いた。
「分かった」
*
帰り道、奇稲田姫はほとんど喋らなかった。
岩彦の後ろを歩き、段差で一度だけ足を止めた。
須佐之男が荷物へ手を伸ばすと、彼女は首を振った。
「持てる」
「ああ」
彼は手を下ろした。
古い田へ出たところで、奇稲田姫が振り返った。
林の向こうに、祭場はもう見えない。
さらにその奥に、稲羽がいる。
そう聞いたばかりだった。
「須佐之男」
「何」
「さっきの、聞いたよね」
「ああ」
「私だけが、そう聞こえたんじゃないよね」
彼は彼女を見た。
「稲羽は生きてるって、阿弥が言った」
奇稲田姫は頷いた。
もう一度、頷く。
それから前を向いた。
村へ続く道を、今度は少しだけ早く歩き始めた。




