第18話 会わないという返事
村へ戻ったとき、足名椎は道の入口に立っていた。
四人の姿を見つけると、まず奇稲田姫を見た。
衣の裾が濡れている。
頬に土がついている。
それでも、自分の足で歩いているのを確かめてから、ようやく御影へ顔を向けた。
「何かあったのか」
御影は足を止めた。
奇稲田姫が、その前へ出た。
「父さん」
声がかすれた。
彼女は一度、喉を鳴らした。
「稲羽姉さん、生きてるって」
足名椎は動かなかった。
言葉が届かなかったように、娘を見ていた。
「誰が」
「阿弥さん。山で会ったの」
その名に、父の表情が変わった。
御影を見た。
「阿弥?」
「ああ。本人と話した」
御影が答えた。
「稲羽が生きていると聞いた。ただ、私たちはまだ会っていない」
足名椎の口が開いた。
何か言おうとしたが、声にならなかった。
彼は奇稲田姫の肩へ手を伸ばした。
途中で、泥のついた袖に触れる。
「母さんに」
それだけ言って、家のほうへ歩き出した。
*
手名椎は、最初、泣かなかった。
奇稲田姫の話を最後まで聞き、御影にも同じことを尋ねた。
誰が言ったのか。
稲羽という名を、確かに聞いたのか。
怪我はしていないのか。
御影は、阿弥から聞いたことと、自分たちが見たことを分けて答えた。
手名椎は何度も頷いた。
それから立ち上がり、棚の前へ行った。
「着るもの」
呟くように言った。
畳んだ衣を出す。
一枚、広げる。
「去年のだと、もう小さいかしら」
足名椎が言った。
「食べ物も要る」
「うん。米がある。干した菜も」
「明日の朝、持っていく」
奇稲田姫は二人を見ていた。
母の手が動く。
父が籠を引き寄せる。
いつもなら時間のかかることが、次々に決まっていく。
「待って」
奇稲田姫が言った。
二人は手を止めた。
「明日は、まだ」
「場所は分かるんだろう」
足名椎が尋ねた。
「入口までは」
「なら、そこへ行けば」
「阿弥さんが、聞いてくれるって」
「何を」
奇稲田姫は唇を湿らせた。
「姉さんが、会うかどうか」
手名椎の腕から、衣の袖が滑り落ちた。
*
「会うかどうか?」
足名椎が繰り返した。
「家族だぞ」
奇稲田姫は頷かなかった。
「私も、会いたい」
「なら」
「でも、勝手に入らないって約束した」
足名椎は御影を見た。
「あなたも、そう言われて戻ってきたのか」
「ああ」
「娘がいるかもしれないのに」
御影は膝の上で手を組んだ。
「確かめる前に、また道を閉ざされるわけにはいかない」
足名椎は顔を背けた。
須佐之男は戸口の近くに座っていた。
話へ入ろうとは思わなかった。
自分も、稲羽には会っていない。
どんな顔をして、どう暮らしているのか、何も知らなかった。
手名椎が衣を畳み直した。
けれど、棚には戻さず、膝へ置いた。
「明日は、奇稲田が行くのね」
娘が頷く。
「じゃあ、これだけ」
差し出されたのは、薄い上着だった。
奇稲田姫は受け取った。
「渡せるか、聞く」
「うん」
手名椎は、上着からなかなか手を離せなかった。
*
その夜、須佐之男の小屋へ御影が来た。
戸を叩き、中へ入る前に声をかけた。
「起きているか」
「ああ」
須佐之男は、乾かしていた履物を脇へ寄せた。
御影は土間へ腰を下ろす。
手に、古い帳面を持っていた。
「阿弥の記録が見つかった」
須佐之男は顔を上げた。
御影が頁を開く。
短い行が二つあった。
祭後、阿弥未帰。
山難として扱う。
須佐之男は、その字を見た。
「これだけか」
「少なくとも、ここには」
御影は頁の端を押さえた。
「稲葉の年、祭りの荷を運ぶ者たちと一緒に山へ入っている。そのあと戻らなかった」
「探したのか」
「人を出した記録はある。ただ、どこまで入ったのかは、まだ」
須佐之男は火へ枝を足した。
御影が帳面を閉じる。
「今日のことは、別に残す」
「阿弥に会ったこと?」
「ああ。本人が生きていることは確かめた。稲羽については、阿弥から聞いた話として」
須佐之男は頷いた。
御影は立ち上がりかけ、また座り直した。
「山で、水を動かしたな」
小屋の中が静かになった。
須佐之男は火を見た。
「少し」
「少しで済ませる話か?」
「今は、稲羽のほうを先にしてくれ」
御影は彼を見ていた。
しばらくして、帳面を抱え直す。
「分かった。だが、いずれ聞かせてもらう」
須佐之男は頷いた。
御影が出ていくと、火の音だけが残った。
*
翌朝、奇稲田姫は大きな籠を背負ってきた。
須佐之男は戸口でそれを見た。
「何が入ってる」
「衣と、食べ物と、布と」
「全部、持ってくのか」
「母さんが用意した」
彼は籠の底へ手を当てた。
かなり重い。
奇稲田姫は紐を肩へ掛け直した。
「持てるよ」
「山道だぞ」
「昨日も歩いた」
須佐之男はそれ以上言わなかった。
代わりに、自分の荷物を小さくまとめた。
火打ちの道具。
水。
縄。
それだけを持つ。
奇稲田姫が彼を見た。
「ご飯は?」
「お前の籠に、あるだろ」
「姉さんたちの分」
「じゃあ、帰ってから食う」
彼女は少し考え、自分の腰の袋から握り飯を一つ出した。
「こっちは、私たちの」
須佐之男は受け取った。
二人で歩き出した。
*
古い田の木戸まで来ると、奇稲田姫は籠を下ろした。
肩の紐が食い込んだ場所を、そっと押さえる。
須佐之男は見ないふりをした。
約束の柱へ布を結ぶ。
昨日、阿弥が指定した場所だった。
二人は道の端へ座った。
鳥の声がする。
木の葉から、夜露が落ちた。
奇稲田姫は何度も山道を見た。
須佐之男は、握り飯の包みを開いた。
「食うか」
「あとで」
「あとで来るかもしれないだろ」
彼女は少し迷い、自分の分を取り出した。
二口ほど食べたところで、物音がした。
奇稲田姫が立ち上がる。
阿弥が、木々の間から現れた。
一人だった。
*
奇稲田姫は、握り飯を持ったまま動かなかった。
阿弥は柱の布を外した。
「待った?」
「少し」
須佐之男が答えた。
奇稲田姫は阿弥の後ろを見ていた。
人影はなかった。
「伝えてくれた?」
彼女が尋ねる。
阿弥は頷いた。
「伝えた」
「それで」
阿弥は、奇稲田姫の手元を一度見た。
「座ろう」
「ここで聞く」
奇稲田姫の声が硬くなった。
阿弥は無理に勧めなかった。
「今日は、会わないって」
奇稲田姫の指が、握り飯を少しつぶした。
須佐之男は何も言わなかった。
「私だって、分かった?」
「分かった」
「名前だけじゃ、分からなかったんじゃ」
「分かったよ」
阿弥は静かに言った。
「妹が来たって、ちゃんと伝えた」
奇稲田姫は地面を見た。
朝、母が包んだ飯の粒が、指についていた。
*
「どうして」
奇稲田姫が尋ねた。
阿弥はすぐには答えなかった。
「まだ、人に会う支度ができていない」
「私も、人なの?」
言ってから、奇稲田姫は顔を上げた。
阿弥は責めなかった。
「あなたが悪いと言ったわけじゃない」
「じゃあ、どうして私まで」
そこで声が切れた。
奇稲田姫は、持っていた飯を布へ包んだ。
何度も端を折り直す。
「会いたいだけなのに」
「うん」
「帰ってきてって、まだ言ってない」
「うん」
阿弥の返事は、それ以上増えなかった。
須佐之男は奇稲田姫の横へ立った。
何かを代わりに言えば、もっと悪くなる気がした。
彼女は籠を指した。
「これ、持ってきた」
阿弥が中を見る。
衣。
食べ物。
畳んだ布。
「全部は持てない」
「じゃあ、運ぶ」
「ここから先は、今日は通せない」
奇稲田姫は顔を背けた。
しばらくして、籠の前へしゃがんだ。
「何なら持てる?」
阿弥もしゃがんだ。
*
二人で、荷を分けた。
薄い衣と、乾いた食べ物。
水を吸って重くなるものは、今回は残した。
阿弥は手名椎が選んだ上着を広げ、袖口を見た。
「これは、稲羽の?」
「うん。去年の」
奇稲田姫が答えた。
「小さかったら、ほかの人が着てもいい」
「伝える」
阿弥は丁寧に畳んだ。
須佐之男は運びやすいよう、縄を短く結んだ。
阿弥が手を伸ばしたとき、掌に巻かれた布が見えた。
昨日渡したものだった。
「傷は」
「浅い。大丈夫」
彼女は結び目を確かめた。
「それから、頼まれたことがある」
奇稲田姫が顔を上げた。
「姉さんに?」
「ああ」
阿弥は腰の袋から、小さな布を出した。
折り目の内側に、炭で字が書いてあった。
奇稲田姫は両手で受け取った。
細い字だった。
短い行が、三つ並んでいる。
針を二本。
丈夫な糸。
余っていたら、赤い糸も。
奇稲田姫は、その字を見ていた。
「……姉さんの字だ」
阿弥が頷く。
「こちらでも縫うものが多くてね。針が折れた」
奇稲田姫は布を裏返した。
何も書かれていなかった。
もう一度表へ戻す。
「ほかには?」
「今日は、それだけ」
彼女は少し俯いた。
しかし、今度は布を手放さなかった。
*
阿弥は立ち上がった。
荷を背へ回し、紐を結ぶ。
奇稲田姫も立った。
「返事、持っていってくれる?」
「言葉でなら」
「待って。すぐ書く」
須佐之男は自分の袋から、炭の欠片を出した。
奇稲田姫が受け取る。
敷いていた布の端を伸ばし、膝の上へ置いた。
最初の一文字を書いて、手が止まった。
須佐之男は顔をそらした。
山の水を確かめるふりをした。
彼女は長く考えていた。
やがて、炭が布を擦る音がした。
「これ」
阿弥へ差し出す。
「読んでもいい?」
「うん」
阿弥は目を通した。
須佐之男には、字は見えなかった。
けれど、奇稲田姫が小さく口にした。
「針は、明日持ってくる。私、また来る」
阿弥は布を畳んだ。
「渡すよ」
「お願い」
女は頷き、山道へ入っていった。
奇稲田姫は、その姿が見えなくなるまで立っていた。
*
帰りの籠は軽くなっていた。
須佐之男が持った。
今度は、奇稲田姫も断らなかった。
下り道で、彼女は何度か足を止めた。
休みたいのではなく、何か言おうとしているようだった。
古い田を抜けたところで、ようやく口を開いた。
「私、嫌なこと言った」
須佐之男は歩みを緩めた。
「阿弥に?」
「うん。姉さんに断られたのに、阿弥さんに怒った」
「言い直せばいい」
奇稲田姫は頷いた。
そのあと、須佐之男を見た。
「あなたは、何も言わなかったね」
「何を言えばいいか、分からなかった」
「会わせてやれ、とか」
「俺が言ったら、会いたくなるのか」
彼女は少し考えた。
「ならない」
「じゃあ、言えない」
奇稲田姫は道へ目を戻した。
しばらく歩いてから、彼女が言った。
「でも、帰ってきてほしい」
「ああ」
「今は言わないけど、そう思ってる」
「うん」
須佐之男は籠を背負い直した。
奇稲田姫はそれを見て、紐のねじれを直した。
*
村へ着くと、足名椎が家の外で待っていた。
今朝と同じ場所だった。
二人の後ろに誰もいないのを見て、表情が変わった。
「会えなかったのか」
奇稲田姫は頷いた。
父が次の言葉を探す前に、彼女は布を出した。
「でも、これをもらった」
足名椎が受け取る。
手名椎も家から出てきた。
二人で、三行の字を読む。
手名椎が布の端へ触れた。
「赤い糸」
呟いた。
「好きだったものね」
奇稲田姫は頷いた。
「母さん、針、ある?」
「ある。今、出す」
手名椎は家へ戻った。
足名椎は、まだ布を持っていた。
帰ってこい、と言うかもしれない。
須佐之男はそう思った。
けれど、父は字を見たまま尋ねた。
「糸は、どれくらいあればいい」
「分からない。持てるだけ」
奇稲田姫が答えた。
足名椎は頷き、家へ入った。
*
須佐之男が小屋へ戻ろうとすると、奇稲田姫が呼び止めた。
「今日、ありがとう」
「荷物、半分以上残ってたぞ」
「それだけじゃない」
彼は何を返せばいいか分からず、頷いた。
奇稲田姫は家の中を見た。
母が針を確かめ、父が糸の束を選んでいた。
「会えなかったの、まだ悲しい」
「ああ」
「でも、昨日まで、姉さんに何か頼まれることなんて、もうないと思ってた」
須佐之男も家の中を見た。
針を二本、選ぶ手。
糸をほどき、絡まないように巻く手。
どちらも、今はすることがあった。
奇稲田姫は布を胸元へしまった。
「明日、持っていく」
そう言って、家の中へ戻った。




