第19話 姉の手
針は、細い竹筒に入っていた。
中で先が傷まないよう、底に布が詰めてある。丈夫な糸と赤い糸は別々に巻かれ、小さな袋に収められていた。
奇稲田は袋の口を開き、もう一度、中を確かめた。
「二本、入ってる」
須佐之男が言うと、彼女は顔を上げずに答えた。
「知ってる」
「さっきも見た」
「途中で落ちたら困るでしょう」
袋には穴もなく、口紐もきつく結ばれていた。けれど須佐之男はそれ以上言わず、彼女が結び直すのを待った。
今日は、荷が少ない。
昨夜、手名椎が包みかけた干し柿は、奇稲田が二つだけ選んだ。足名椎は山道の具合を尋ねたあと、長く黙っていたが、出がけに杖を一本、娘へ渡した。
稲羽を連れ帰れとは、言わなかった。
代わりに、針の入った袋へ一度だけ目を落とした。
奇稲田はその顔を、山道を登りながら何度も思い出していた。
*
二本の石柱に着くと、昨日結んだ布はなくなっていた。
奇稲田が新しい布を結ぶ。朝露を含んだ草が、足元で冷たく光っていた。
須佐之男は道の端に荷を置き、斜面の下を見た。
旧い田へ続く溝に、細い水が流れている。昨日より濁りは薄い。ただ、一定の間を置いて、水面がわずかに持ち上がった。
上流から波が来るのではない。
底から押されている。
身を屈めかけたとき、木立の向こうで枝が鳴った。
「今日は早いね」
阿弥だった。
手には空の籠を提げている。昨日巻いた手の布は、そのままだった。
奇稲田は立ち上がった。
「針と糸、持ってきました」
「助かる」
「それから……昨日は、ごめんなさい」
阿弥が足を止めた。
「あなたに怒っても仕方がないのに」
「困った返事を持ってきたのは私だからね」
阿弥はそう言って、籠を下ろした。それで話を終わらせるように、手の布を巻き直す。
奇稲田は用意していた袋を差し出しかけた。
その手が止まった。
阿弥の後ろで、もう一度、草が揺れた。
薄茶の衣を着た女が、木の陰に立っていた。
髪が短い。
肩のあたりで不揃いに切られ、片側だけ耳にかけている。裾は膝の下で括られ、脛には泥がついていた。
奇稲田の知る姉は、いつも髪を結ぶのに時間がかかった。結び終わってから櫛が見つからないと騒ぎ、たいてい自分の膝の上から見つけていた。
目の前の女は、何も言わない。
右手で、左の袖口を握っていた。
叱られるのを待つときの癖だった。
「……稲羽姉さん」
女の唇が動いた。
「声、大きい」
その言い方まで、同じだった。
奇稲田は一歩踏み出し、石に躓いた。転びかけたところへ、稲羽の手が伸びる。
「ほら、足元」
腕を掴まれた。
温かかった。
奇稲田はその手を見た。指の節に小さな傷があり、爪の端に土が残っている。親指の付け根には、昔、鍋を落としたときの火傷の痕があった。
姉の顔を見ようとしたのに、うまく見えなかった。
「奇稲田」
「……うん」
「痛い」
気づけば、掴まれた手を両手で握り締めていた。
少し緩めた。離すことはできなかった。
「生きてた」
「うん」
「本当に」
「うん」
稲羽が困ったように笑った。
その顔を見た途端、奇稲田は姉の肩に額を押しつけた。
衣には、煙と乾いた草の匂いがした。
稲羽の手が一度、宙で迷った。それから、妹の背へ回った。
*
須佐之男は、阿弥とともに少し離れた場所へ下がった。
二人が座った石は見える。話し声は、言葉にならないほどの距離だった。
「来るつもりじゃなかったんだよ」
阿弥が低く言った。
「今朝まで、私に袋だけ渡してくれって言ってた」
須佐之男は木立の間を見た。
奇稲田はまだ、姉の片手を握っている。
「途中で気が変わったのか」
「三度ほどね」
阿弥は苦笑したが、その目は山道から離れなかった。
須佐之男も、二人へ背を向けすぎない位置に腰を下ろした。
石の下から、鈍い水音がした。
*
「髪、どうしたの」
ようやく顔を上げて、奇稲田が尋ねた。
「邪魔だったから切った」
「自分で?」
「うん」
「後ろ、曲がってる」
「見えないんだから仕方ないでしょう」
奇稲田は笑おうとして、鼻をすすった。
稲羽が袖で妹の頬を拭こうとする。その袖が汚れているのに気づき、途中でやめた。
「布、ない?」
「ある」
「昔から、あなたのほうが用意がいいね」
奇稲田は懐から布を出した。
その拍子に、針の袋が膝へ落ちる。
「あ、それ」
稲羽の声が少し明るくなった。
袋を受け取り、口を開く。竹筒を傾けて針を掌に出すと、一本ずつ光にかざした。
「よかった。ちゃんと細いのもある」
「太いのと一本ずつ。母さんが選んだ」
稲羽の指が止まった。
奇稲田はその小さな動きを見たが、言葉を引っ込めなかった。
「赤い糸も、母さんの」
「……そっか」
「何に使うの」
「目印。似たような袋ばかりで、誰のかわからなくなるから」
「名前を縫うの?」
「そんな手間はかけない。一本線とか、丸とか」
「姉さん、昔は縫い目がすぐほどけたのに」
「今は、ほどけたら困るの」
稲羽は針を竹筒へ戻した。袋を閉じる手つきは、奇稲田の知らない速さだった。
会えたら聞きたいことは、山ほどあった。
何を食べているのか。寒くないのか。怪我はしていないか。
けれど口から出たのは、別の言葉だった。
「どうして、知らせてくれなかったの」
稲羽は袋を握ったまま、俯いた。
「ずっと待ってた。何か見つかったって誰かが来るたびに、今度こそって」
「……ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
少し強く言ってしまい、奇稲田は息を止めた。
稲羽は怒らなかった。
「最初は、歩けなかった」
短く答えたあと、左の足首に触れた。
「逃げる途中で捻って。腫れが引いてからも、しばらくは坂を下りられなかった」
「今は?」
「長く歩くと痛むくらい」
「じゃあ、そのあと……」
「帰ったら、どうなるかわからなかった」
奇稲田は口を閉じた。
稲羽は石の脇に生えた草を、指先で折った。
「私が逃げたあとに川が溢れたら、きっと、私のせいだって言う人がいる。そうなったら父さんは何て言うだろうって。母さんは、私を隠してくれるかなって」
草の切れ端が、膝に落ちる。
「考えても、いいことが一つも浮かばなかった」
「私は、そんなこと言わない」
「うん」
「私には、知らせてくれてもよかった」
「うん」
今度の返事は、かすれていた。
「あなた、きっと捜しに来るでしょう。誰にも言わずに」
奇稲田は否定できなかった。
稲羽は妹の顔を見た。
「でも、それだけじゃない。何て書けばいいかわからなくて、後回しにした。今日じゃなくてもいいって。そうしてるうちに、冬になった」
「……針を二本、ってなら書けたの」
稲羽が目を伏せた。
「それなら、書けた」
奇稲田はしばらく黙っていた。
膝の上で、二人の衣の裾が触れている。稲羽の衣には何か所も継ぎがあった。布の色はばらばらなのに、縫い目は細かく揃っていた。
「腹は立ってるからね」
「うん」
「昨日も、すごく悲しかった」
「阿弥から聞いた」
「でも、針が要るなら、また持ってくる」
稲羽が顔を上げた。
奇稲田は、その目を見て続けた。
「今度は、もう少し書いて。何を食べたとか、それくらいでいいから」
稲羽は何か言おうとして、唇を噛んだ。
それから、小さく頷いた。
*
阿弥が立ち上がったのは、日が石柱の上まで差してきた頃だった。
「稲羽。そろそろ」
稲羽は空を見て、慌てて袋を懐へ入れた。
「もう帰るの?」
奇稲田の手に力がこもる。
「水が上がる前に戻らないと」
その言葉に、須佐之男も立ち上がった。
「帰り道は、水の通るところか」
稲羽が初めて、まっすぐ彼を見た。
それから奇稲田へ目を移す。
「この人が?」
「須佐之男。橋を直すのを手伝ってくれた人」
「阿弥のことも聞いた」
稲羽は短く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「手を貸しただけだ」
「それでも」
須佐之男は頷き、足元の溝へ視線を戻した。
「さっきから、ときどき下から水が押してくる。戻る道にも、同じことが起きてるのか」
阿弥の顔から笑みが消えた。
「昨日は、昼まで使えた道が朝のうちに浸かった」
「雨は強くなかった」
「ああ。だから困ってる」
稲羽が阿弥を見た。話してよいか迷う顔だった。
阿弥は少し考えてから、頷いた。
「寝る場所は高いところにある」
稲羽が言った。
「でも、そこへ行く途中に低い道があって。水が入ると、荷物を運べなくなる」
「別の道は」
「ある。人は通れるけど、狭いの。足の悪い人もいるから、できれば今の道を使いたい」
奇稲田は姉の足首を見た。
稲羽は気づいて、首を振った。
「私だけじゃないよ」
須佐之男は溝の縁にしゃがんだ。
水に指を入れる。冷たい流れが指の腹を押し、その力が、ふっと弱くなる。
次の瞬間、底の砂が舞い上がった。
彼は手を引いた。
「水がどこから来るのか、ここではわからない。止めたら別の場所へ出るかもしれない」
「止めろとは言ってない」
阿弥が答えた。
「抜ける先を探したい。昔、水を外へ落としていた穴があるんだけど、石で塞がってる。私たちで動かしていいものか、見てほしい」
須佐之男はすぐには返事をしなかった。
岩の中に道があり、その先に人が暮らしている。
見えない場所へ水を押し込めば、何が起きるか。
海辺の濡れた米俵が脳裏に浮かんだ。
「見ることはできる。だが、その場で石は動かさない。水の出口と、下にあるものを確かめてからだ」
「それでいい」
「岩彦にも聞きたい。古い水路なら、知っているかもしれない」
阿弥は少し迷った。
「まず、私から中の者に話す。連れてくる人数は、そのあと決めよう」
「わかった」
話を終えた阿弥が、稲羽を促す。
奇稲田は、握っていた手をゆっくり離した。
「父さんと母さんには、会ったって言っていい?」
稲羽は頷いた。
「元気だったって」
「足は痛むんでしょう」
「それも、言っていい」
「帰ってくるかって聞かれたら?」
稲羽の視線が、山道へ落ちた。
「……まだ、帰れないって」
奇稲田は、苦しくなる胸を一度押さえるように息を吸った。
「わかった」
稲羽が歩き出す。
数歩先で立ち止まり、振り返った。
「奇稲田」
「何?」
「今年の祭り、いつなの」
「まだ決まってない」
稲羽の顔が、強張った。
「決まっても、あそこへ行かないで」
「姉さん?」
「迎えに来る人なんて、いないから」
木々の間を風が通った。
奇稲田は姉を見つめた。祭りの夜、供えられた娘を迎えに神が降りる。幼い頃から聞かされてきた言葉が、急に遠いものになる。
「じゃあ……何が来るの」
稲羽は答えようとした。
そのとき、石柱の下で水が鳴った。
細かった流れが一度途切れ、泡を吐く。濁った水が溝を逆に駆け上がり、乾いていた石の縁を越えた。
須佐之男は奇稲田の腕を引き、道の高い側へ移した。
阿弥も稲羽を引き寄せている。
誰も声を出さなかった。
水はすぐに引いた。
あとには、濡れた草と、石へ打ちつけられた小枝が一本残った。
「……前より早い」
稲羽が呟いた。
阿弥が空を見上げる。
雲は薄く、山の端には青空さえ見えていた。
須佐之男は、まだ震えている水面から目を離さなかった。
今の水は、雨で増えたのではない。
山の奥で、何かが流れを押し返していた。




