第20話「出雲」
人は、過去を離れたからといって、すぐに新しい自分になれるわけではない。誰も自分を知らず、何をしてきたかも、何ができるかも知らない場所では、結局もう一度、いちばん簡単なところから始めるしかない。――あなたは、誰なのか。
【出雲・山裾】
朝。
昨夜の雨は上がっていた。
葉先に残った雫が、ときおり音もなく落ちていく。山裾には薄い朝霧が漂い、その向こうには水を含んだ田が広がっていた。すでに何人もの人々が畦へ入り、鍬を振るい、稲を束ねている。
誰も空を見ていなかった。
誰も、山から一柱の神が降りてきたことにも気づかない。
須佐之男は山道の終わりに立ち、しばらくその景色を眺めていた。
高天原なら、朝には祭鐘が鳴る。神使が行き交い、その日の役目を確かめる声が聞こえる。
ここには何もない。
いや。
何もないわけではない。
土へ鍬が入る音。
水路を流れる水。
誰かが遠くから人を呼ぶ声。
子供の泣き声。
鶏の羽音。
全部ある。
ただ、そのどれも。
須佐之男のためには鳴っていなかった。
「……ここが出雲か」
「うん」
突然、後ろから声がした。
須佐之男が振り返る。
小夜が立っていた。
「何でまだいるんだよ」
「おじいちゃんが、北の山へ行くなって」
「何で?」
「知らない」
須佐之男は目を細める。
「絶対、少しは知ってるだろ」
小夜は少し考えた。
「少しだけ」
「お前ら、本当にそればっかりだな」
小夜はまるで気にしない。
「知らないほうが長生きできることもあるから」
そう言って、山道を戻っていった。
須佐之男は、その小さな背中を見送った。
「……月読みたいなこと言うなよ」
当然、返事はなかった。
少しだけ嫌な予感がした。
けれど。
須佐之男は山ではなく、眼下の田へ向かった。
まずは。
人がいるほうへ。
⸻
【出雲・斐伊川流域】
田の間を通る道は、須佐之男が思っていたより狭かった。
向こうから、数人の男たちが稲束を担いで歩いてくる。
須佐之男は気にせず真ん中を歩いていた。
「おい、そこ」
一人に声を掛けられる。
須佐之男が見る。
「何?」
「どいてくれ」
「何で?」
男が須佐之男の足元を見る。
須佐之男も見る。
自分一人で、ほとんど道を塞いでいた。
「あ」
慌てて端へ寄る。
男たちはそのまま通り過ぎた。
礼もない。
頭も下げない。
須佐之男が何者なのか尋ねる者もいない。
振り返りもしなかった。
須佐之男は、少しだけその背中を見る。
人の世へ降りてから、何度か同じことを経験した。
それでも。
まだ慣れない。
高天原では。
好かれていようが。
嫌われていようが。
誰もが須佐之男を知っていた。
ここでは。
誰も知らない。
そして。
知らなくても。
誰も困っていない。
その事実は。
思ったより不思議だった。
少し先の田に、一人の娘がいた。
昨日、山の上から見た娘だった。
裾を上げ、膝近くまで泥へ入っている。稲を刈り、束ね、置く。動きにはほとんど迷いがない。
須佐之男は畦の端で足を止めた。
少し見る。
娘は顔を上げない。
須佐之男はさらに見る。
それでも娘は顔を上げない。
やがて。
「そこ」
突然言われた。
須佐之男が周囲を見る。
「俺?」
「ほかに誰がいるの」
「何?」
娘がようやく顔を上げる。
そして須佐之男の足元を指した。
履物が。
細い水路の半分を塞いでいた。
水が溜まり。
田へ流れ込むはずの水量が弱くなっている。
「あ」
須佐之男が足を退ける。
途端に。
溜まっていた水が細く流れ始めた。
娘はそれを確認すると。
また稲へ向き直った。
「……悪かった」
返事はない。
須佐之男は少し気まずくなった。
けれど。
その場を離れなかった。
しばらくして。
「昨日」
娘が手を止めず。
「何?」
「山の上から、お前を見た」
今度は顔が上がる。
「どこ?」
須佐之男は後ろの山を指した。
「あそこ」
娘も見る。
かなり遠い。
「見えるわけないでしょう」
「俺は見える」
「目がいいんだね」
それだけだった。
娘はまた稲を刈る。
須佐之男は待った。
何も続かない。
どうやら本当に。
話は終わったらしい。
「……名前は?」
鎌の動きが止まった。
娘が須佐之男を見る。
「どうして?」
「知りたいから」
「どうして私が教えるの?」
須佐之男が眉を寄せる。
「聞いただけだろ」
娘は立ち上がった。
須佐之男より少し低い位置から。
まっすぐ彼を見る。
「よその人って、みんなそうなの?」
「何が」
「自分が聞いたら、相手は答えると思ってる」
須佐之男の口が開く。
すぐに言い返せると思った。
けれど。
何も出てこなかった。
相手がどう思っているか。
何を望んでいるか。
聞く前に、自分で決める。
それを。
何度もしてきた。
須佐之男は少し視線を外した。
「……みんなじゃない」
「あなたは?」
また聞かれる。
須佐之男は。
少しだけ考えた。
「今までは、そうだったかも」
娘の目が。
ほんの少しだけ変わった。
それだけ。
「じゃあ」
須佐之男は言う。
「言いたくないなら、いい」
娘は何も答えなかった。
また腰を落とし。
稲を刈り始める。
須佐之男も。
今度はもう聞かなかった。
⸻
【出雲・集落】
昼。
須佐之男は村の中心へ入った。
小さな集落だった。
土壁の家。
穀物を干す軒先。
農具を直している男。
井戸端で野菜を洗う女たち。
走り回る子供。
縄を綯う老人。
高天原から見下ろしていた頃なら。
地上に浮かぶ小さな点にしか見えなかっただろう。
今は。
歩けば人にぶつかるほど近い。
一軒の家から。
煮炊きする匂いが流れてきた。
須佐之男の腹が鳴った。
かなり大きかった。
近くにいた老婆が振り返る。
須佐之男は何もなかったふりをする。
もう一度。
腹が鳴る。
老婆は須佐之男を見る。
「腹減ってるのかい」
「減ってない」
三度目。
今度は自分でも聞こえないふりができなかった。
老婆は蒸した芋を一つ差し出した。
須佐之男が少し警戒する。
「くれるの?」
「銭は?」
須佐之男が止まった。
「……銭?」
懐を探る。
出てきたのは。
父からもらった白い石。
月読から借りた半月の石。
小さな鈴。
巻いた潮の記録。
須佐之男は半月の石を出した。
老婆が一目見る。
「石だね」
「違う。これは――」
須佐之男はすぐに引っ込めた。
「いや、これは駄目」
次に白い石を出す。
少し見る。
やっぱりしまう。
「これも駄目」
老婆は須佐之男の顔を見た。
呆れることさえしなかった。
近くへ積まれている薪を指す。
「あれ、裏へ運びな」
須佐之男も見る。
結構ある。
「全部?」
「芋いらないなら、やらなくていい」
須佐之男は芋を見る。
薪を見る。
また芋を見る。
高天原では。
食事は、気づけば用意されていた。
姉が持ってくることもあった。
神使が置いていくこともあった。
食べるために何かをする。
そんなことを考えたこともなかった。
「……分かった」
須佐之男は薪を抱えた。
一度に全部動かすなら。
難しくはない。
指先に少し力を集める。
薪の端が僅かに震えた。
けれど。
須佐之男は手を止めた。
力を解く。
一本ずつ持ち上げる。
運ぶ。
戻る。
また運ぶ。
誰も見ていない。
誰も褒めない。
途中から。
腕が痛くなった。
全部終わる頃には。
少し息まで上がっていた。
老婆は芋を渡した。
最初の一つに加えて。
もう二つ。
須佐之男の目が少し明るくなる。
「三つ?」
「働いたからね」
須佐之男は。
受け取ってから。
初めて少し嬉しそうに笑った。
「……悪くないな」
老婆が鼻で笑う。
須佐之男は芋を齧る。
その日。
初めて知った。
ここでは。
須佐之男という名前だけでは。
飯一つ手に入らない。
けれど。
薪を運べば。
芋は三つになった。
⸻
【出雲・寄合所】
同じ頃。
村の中央から少し離れた寄合所では。
外とは違う静けさがあった。
大原道主。
祭司の御影。
足名椎。
ほか数人の長たちが。
一枚の水位記録を囲んでいる。
誰も声を大きくしない。
卓の端には。
小さな木杯が置かれていた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ。
七つ。
八つ。
大原道主が斐伊川の記録へ指を置く。
「去年より早い」
御影が頷く。
「山の水も増えている」
足名椎だけが。
杯を見ていた。
何も言わない。
大原道主が言う。
「支度を早める」
足名椎の肩が僅かに動く。
「まだ」
声が掠れた。
一度。
言い直す。
「まだ早い」
御影が足名椎を見る。
「雨は待たない」
また。
沈黙。
誰も。
八つの杯を片づけなかった。
⸻
【出雲・井戸端】
午後。
須佐之男は。
井戸の前で完全に困っていた。
木桶を落とす。
縄を引く。
途中で傾く。
やり直す。
二度目。
今度は縄が腕へ絡む。
「何だよ、これ……」
三度目。
ようやく桶を上げる。
水は。
半分しか残っていない。
そこへ。
昼前の娘が歩いてきた。
須佐之男は。
何でもない顔をする。
娘が井戸の中を見る。
次に。
須佐之男を見る。
「手伝おうか?」
「いらない」
言った瞬間。
桶が傾いた。
残っていた水が。
全部地面へ落ちた。
沈黙。
須佐之男は桶を見る。
「……今のは事故だ」
「見てたから分かる」
娘は自分の桶を下ろす。
手慣れた動きで水へ落とし。
一度で引き上げた。
ほとんど零れていない。
須佐之男が。
少しだけ悔しそうに見る。
「初めてなんだよ」
「だから?」
「だから……」
言葉を探す。
「そんな顔するな」
「どんな顔?」
「笑ってる」
「笑ってない」
「目が笑ってる」
娘は一度だけ須佐之男を見る。
そして。
本当に少し笑った。
須佐之男も。
つられて笑う。
「今なら」
少し間を置く。
「名前、聞いていい?」
娘の目が須佐之男へ向く。
須佐之男はすぐに続けた。
「嫌ならいい」
ほんの少し。
沈黙。
「稲田」
「何?」
「今は、稲田でいい」
須佐之男が眉を寄せる。
「それ、本当の名前?」
「それ以上はまだ教えない」
娘は水桶を持ち上げる。
須佐之男は。
少しだけ口を開いた。
けれど。
追わなかった。
「……分かった」
稲田は数歩進む。
そして。
振り返らず言った。
「桶、もう一回やれば?」
須佐之男が井戸を見る。
「見てろよ」
「見ない」
そのまま行ってしまう。
須佐之男はしばらく背中を見たあと。
桶をもう一度。
井戸へ下ろした。
⸻
【斐伊川】
夕方前。
須佐之男は斐伊川の岸へ出た。
山から流れてきた水が。
広い川となって里を横切っている。
一見。
何の変哲もない。
けれど。
須佐之男は足を止めた。
少しだけ。
眉を寄せる。
川へ近づく。
しゃがむ。
指を水へ入れた。
次の瞬間。
身体の奥へ。
異物が触れた。
須佐之男の表情が消える。
一本の川のはずだった。
山から里へ。
里から海へ。
一つの流れを持っているはずの水。
それなのに。
中に。
別のものがある。
一つ。
二つ。
さらに。
いくつも。
互いに重なり。
絡まり。
同じ川の中を。
違う方向へ動いている。
須佐之男は目を閉じた。
少しだけ。
深く見る。
一つは。
異様なほど冷たい。
もう一つは。
水とは思えないほど生温い。
その奥に。
重いもの。
深い泥。
古い木。
血のような鉄の匂い。
須佐之男が目を開けた。
すぐに手を引く。
河面に。
小さな波紋が一つ広がった。
次。
もう一つ。
須佐之男は動かない。
波紋は。
間を置きながら。
さらに続く。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ。
七つ。
八つ。
そして。
何もなかったように静まった。
須佐之男は。
長いあいだ。
水面を見つめた。
「……何だよ、これ」
「触れないほうがいい」
後ろから。
声がした。
須佐之男が振り返る。
祭杖を持った男が立っていた。
御影だった。
「川に?」
「この川には」
御影は須佐之男の濡れた手を見る。
「ときどき」
少し間を置く。
「こちらが触れるより先に」
須佐之男を見る。
「向こうから触れてくるものがある」
須佐之男の目が細くなる。
「何がいる」
御影は。
答えない。
須佐之男は一瞬。
苛立ちかけた。
けれど。
そこで止まる。
以前。
石祠へ手を伸ばしかけて。
触れなかったことを思い出した。
須佐之男は御影を見る。
「言いたくない?」
御影の眉が。
ほんの僅かに動いた。
「違う」
「じゃあ?」
「言わないほうがいい」
「俺に?」
「誰にでも」
御影は山を見る。
「名は」
静かに言う。
「呼ぶためだけにあるものではない」
須佐之男も。
その山を見る。
「聞かれることもある?」
御影が。
初めて真正面から須佐之男を見た。
岩彦から聞いた言葉を。
このよそ者が知っている。
「お前」
少し間がある。
「どこから来た」
「東」
「方角ではない」
須佐之男は黙る。
御影は続けた。
「お前からは」
ほんの少し。
祭杖を握る手に力が入る。
「人の匂いがしない」
川音だけが残る。
須佐之男の目から。
さっきまでの軽さが消えた。
「……お前には分かるのか」
御影は答えない。
「誰だ」
今度は須佐之男が聞く。
御影は川を見る。
「人の代わりに」
「山と川へ言葉を届ける者だ」
「聞くのか?」
「ときどきは」
少しだけ。
苦い表情になる。
「聞こえすぎることもある」
それ以上。
どちらも聞かなかった。
⸻
【足名椎の家】
夕暮れ。
手名椎が夕餉の支度をしていた。
稲田が帰ってくる。
足名椎は部屋の端に座っていた。
普段より。
明らかに静かだった。
「遅かったね」
手名椎が言う。
「井戸で少し」
「誰かいたの?」
「よそ者」
足名椎が顔を上げた。
反応が早すぎた。
稲田が父を見る。
「どうしたの」
「どんな者だ」
「若い男」
少し考える。
「変な人」
手名椎が。
少しだけ笑おうとする。
「どんなふうに?」
「井戸の水も汲めない」
今度は。
本当に小さく笑った。
足名椎だけは笑わなかった。
稲田はそれを見た。
黙って水桶を置く。
「父さん」
「何だ」
「今日も寄合?」
「違う」
「御影も?」
足名椎が口を閉じる。
稲田は。
父を見る。
「最近」
静かな声だった。
「私が来ると、みんな話をやめる」
手名椎の包丁を動かす手が。
少し遅くなる。
「母さんも」
今度は。
母を見る。
「急に優しくなる」
誰も答えない。
稲田の目が。
少しだけ伏せられた。
「いつ話すの?」
足名椎は。
何も言えなかった。
⸻
【出雲・須佐之男の仮住まい】
夜。
須佐之男は。
村外れにある空き家へ案内された。
戸を開ける。
中を見る。
床は少し傾いている。
壁には隙間。
屋根にも。
明らかに怪しいところがある。
須佐之男は。
長く室内を見る。
後ろにいる老婆が言った。
「一晩、薪二束」
須佐之男が勢いよく振り返る。
「泊まるのにも働くの?」
「嫌なら外で寝ればいい」
外を見る。
雨が。
またぽつぽつ落ち始めていた。
須佐之男は室内をもう一度見る。
「……すごくいい家だな」
老婆は鼻で笑い。
帰った。
須佐之男は荷を置き。
床へ横になる。
ぽつ。
額へ。
冷たい水滴。
須佐之男が目を開ける。
少し横へ移動。
ぽつ。
今度は頬。
「……」
天井を見る。
高天原が。
ほんの少しだけ恋しくなった。
荷を開く。
父の白い石。
月読から借りた半月。
天宇受売命の鈴。
潮津彦の記録。
須佐之男は半月の石を手に取る。
窓の外を見る。
雲が厚い。
月はない。
「月読」
石へ話しかける。
「ここの奴ら」
少し考え。
「みんなお前みたいに、話を途中でやめる」
返事はない。
須佐之男は石を戻す。
白い石を取る。
「父上」
言いかける。
やめる。
少しして。
「……あんた、こういう家で寝たことないだろ」
また。
ぽつ。
今度は鼻先だった。
須佐之男が。
本気で顔をしかめた。
⸻
【出雲・山裾の祭祠】
同じ夜。
御影は一人。
雨の中を歩いていた。
古い祭祠へ入る。
誰もいない。
祠の前には。
八つの木杯。
御影は。
順に酒を注ぐ。
一つ。
二つ。
三つ。
最後まで。
数えない。
すべて注ぎ終える。
次に。
小さな祭灯へ火を入れる。
祈る。
低い声。
古い言葉。
森の音に。
ほとんど消えるほど小さい。
風はなかった。
けれど。
端の灯が。
ふっと消えた。
御影の声が止まる。
少しして。
別の灯も。
消える。
御影の顔から。
血の気が引いた。
彼はもう。
続きを唱えなかった。
遠い山を見る。
その奥から。
低い音がした。
雷ではない。
川でもない。
何かが。
深いところで。
身体を動かしたような。
長い音だった。
御影は。
何も呼ばなかった。
⸻
【足名椎の家】
夜更け。
稲田は眠っていなかった。
窓辺に座り。
雨を見ている。
手名椎が来て。
娘の肩へ衣を掛けた。
「冷えるよ」
「母さん」
「何?」
稲田はしばらく黙る。
「姉さんたちがいなくなる前も」
手名椎の身体が。
ほんの僅かに強張った。
「みんな」
稲田は窓の外を見る。
「こんなふうだった?」
返事はない。
「話してる途中で、私が来ると黙って」
「急に優しくなって」
手名椎の目が。
ゆっくり赤くなる。
稲田は振り返らない。
「覚えてるよ」
短い言葉だった。
足名椎が。
戸口に立っていた。
「稲田」
娘が父を見る。
「もう寝なさい」
稲田は。
長く父を見た。
そして。
とても静かに尋ねた。
「今年は」
一拍。
「私なんでしょう?」
手名椎の息が止まる。
足名椎は。
何も答えなかった。
けれど。
稲田はもう。
答えを待たなかった。
「……そう」
泣かなかった。
怒らなかった。
ただ。
少しだけ視線を落とす。
「明日も稲を刈らないと」
「稲田」
母が呼ぶ。
稲田は自分の部屋へ入った。
戸が閉じる。
足名椎と手名椎だけが。
その場に残った。
誰も。
追えなかった。
⸻
【須佐之男の仮住まい】
深夜。
須佐之男が。
突然目を開けた。
起き上がる。
雨は。
それほど強くない。
けれど。
何かがおかしい。
床に置いた水鉢を見る。
水面が。
震えていた。
一度。
止まる。
少しして。
もう一度。
須佐之男は立ち上がる。
近づく。
水面は。
一定の間を空けて。
また揺れる。
須佐之男は。
数えなかった。
ただ。
繰り返す震えを見ていた。
やがて。
ぴたりと止まる。
同時に。
村中の犬が吠え始めた。
一匹ではない。
次々。
すべて。
同じ山の方向へ。
須佐之男が窓を開ける。
犬の声が。
突然。
全部止んだ。
そのほうが。
不気味だった。
村人たちは。
すでに動いていた。
窓を閉める。
戸を閉ざす。
灯を消す。
誰かが指示を出しているわけではない。
それでも。
皆。
同じことをする。
須佐之男は道へ出た。
「何してる?」
誰も答えない。
一人の男に近づく。
「何があった」
男は一瞬須佐之男を見る。
その顔には。
説明したくないというより。
説明する余裕そのものがなかった。
すぐ家へ入り。
戸を閉める。
村から。
一つずつ光が消えていく。
須佐之男は。
暗くなった道に残る。
高天原にも。
深い静寂はあった。
神事の前。
夜。
雪。
けれど。
これは違う。
誰もが。
何かに見つからないように。
息を潜めている。
須佐之男は。
山を見た。
そして。
斐伊川へ向かった。
⸻
【斐伊川】
御影は。
すでに川岸にいた。
須佐之男が走ってくる。
「何が起きてる」
「戻れ」
「またそれかよ」
「今夜は川へ近づくな」
須佐之男は。
一歩だけ止まる。
「聞いても教えない?」
御影の表情が。
僅かに変わった。
「聞いてもいい」
須佐之男が見る。
御影は。
山から目を離さない。
「ただ」
長い間。
「答えを知ったあと」
「知らなければよかったと思うかもしれない」
上流から。
低い音がした。
轟。
雷ではない。
須佐之男の目が川へ移る。
その瞬間。
水が。
動いた。
下ではなく。
上へ。
ほんの一瞬。
斐伊川が。
山へ向かって逆流した。
須佐之男の顔から。
表情が消える。
「今の……」
御影が低く言う。
「忘れろ」
「川が逆に流れた」
「忘れろ」
須佐之男は御影を見る。
「何で」
「お前は」
御影の声が。
初めて強くなった。
「ここの者ではないからだ!」
須佐之男が黙る。
御影自身も。
一度息を整える。
そして。
低く言い直した。
「だから」
「今なら」
言葉が止まる。
須佐之男は待つ。
「今なら、何」
御影は答えなかった。
そのとき。
水面を。
何かが流れてきた。
小さな白い花。
須佐之男の目がそれを追う。
そして。
気づく。
花は。
下流から来ている。
上流へ向かって。
ゆっくり。
流れている。
須佐之男が手を伸ばしかけた。
その手首を。
御影が掴む。
強く。
「触るな」
須佐之男が振り返る。
御影の手が。
震えていた。
須佐之男は。
初めて理解した。
この男は。
何かを隠しているのではない。
怖がっている。
本当に。
須佐之男は。
静かに手を引いた。
花へ触れなかった。
白い花は。
そのまま二人の前を通り過ぎ。
雨の向こうへ。
消えていった。
⸻
【出雲・夜明け前】
夜が薄くなり始める頃。
川は。
いつもの方向へ流れていた。
村の戸は。
まだほとんど閉じている。
御影はもういない。
須佐之男だけが。
薄い霧の中に立っていた。
遠く。
人影が見えた。
須佐之男が目を細める。
昨日の娘。
稲田。
彼女も。
眠っていないようだった。
互いに。
少し離れた場所で立ち止まる。
稲田のほうから言った。
「見た?」
須佐之男の目が変わる。
「お前」
一歩近づく。
「あれが何か知ってる?」
稲田は答えない。
背を向ける。
「待って」
足が止まる。
須佐之男は。
何を聞くべきか考える。
山のこと。
川のこと。
村が何を怖がっているのか。
全部。
聞きたかった。
けれど。
少し前の彼女の言葉が浮かぶ。
――聞いたら、相手は答えなきゃいけないと思ってる。
須佐之男は。
すぐには何も聞かなかった。
代わりに。
「昨日」
と言った。
稲田が振り返る。
「名前」
少し間を置く。
「稲田でいいって言っただろ」
「うん」
「本当の名前を」
そこで。
一度止まる。
「言いたくなったら」
稲田が。
少しだけ目を見開いた。
須佐之男は続ける。
「そのとき教えて」
長い沈黙。
朝霧が。
二人の間を流れる。
やがて。
娘が口を開く。
「奇稲田」
須佐之男が聞き返す。
「奇稲田?」
今度は。
娘が須佐之男を見る。
逃げなかった。
「奇稲田姫」
須佐之男は。
その名を。
一度だけ口の中で繰り返す。
「奇稲田姫」
「あなたは?」
「須佐之男」
「それは聞いた」
「覚えてたの?」
「昨日から何回も言うから」
須佐之男は。
少し不満そうな顔をする。
「もっと普通に覚えてたって言えばいいだろ」
奇稲田姫は。
ごく薄く笑った。
「普通って」
一歩歩き出す。
「誰の普通?」
須佐之男は。
その背中を見た。
少しして。
笑う。
「……ほんと面倒だな、この土地」
奇稲田姫は振り返らない。
「よそ者に言われたくない」
今度は。
須佐之男も何も言い返さなかった。
⸻
【出雲・稲田】
朝。
雲の隙間から。
太陽が出た。
一軒。
また一軒。
村の戸が開く。
人々が外へ出る。
昨夜。
村全体が息を潜めていたことなど。
なかったように。
飯を炊く。
水を汲む。
子供を叱る。
田へ向かう。
奇稲田姫も。
稲を刈っていた。
須佐之男は。
畦の外から見ている。
昨日とは違う。
彼女の名前を知った。
けれど。
それ以外は。
何も知らない。
昨夜の川と。
彼女がどう繋がっているのかも。
何を怖がっているのかも。
知らない。
須佐之男は。
少し考える。
履物を脱ぐ。
裾を上げ。
田へ入った。
泥が足首まで沈む。
奇稲田姫が振り向く。
「何してるの?」
「仕事」
「できるの?」
「できない」
即答だった。
奇稲田姫が少し目を細める。
「じゃあ、どうして入ってくるの」
須佐之男は。
稲を見る。
「覚える」
数秒。
奇稲田姫は須佐之男を見る。
それから。
鎌を一本投げた。
須佐之男が受け取る。
「脚、切らないで」
「俺はそんな簡単に――」
普通の人間じゃない。
そう言おうとして。
止めた。
「……分かった」
奇稲田姫が一本の稲を刈る。
根元近くへ。
刃を入れる。
須佐之男は見る。
真似る。
一株目。
高すぎた。
奇稲田姫が無言で見る。
「何だよ」
「もったいない」
もう一度。
彼女が見せる。
須佐之男も。
今度は。
言い返さずに見る。
二株目。
少しまし。
三株目。
泥が顔へ跳ねる。
「……人の世、泥多すぎない?」
「田だから」
「知ってるよ」
「知らなさそうだから」
須佐之男が睨む。
奇稲田姫は。
ほんの少しだけ笑う。
須佐之男も。
笑った。
誰も知らない。
かつて海を任され。
一度は高天原で裁かれた神が。
今。
一株の稲の刈り方を。
人間の娘から教わっている。
誰も知らないからこそ。
それは。
須佐之男自身のものだった。
⸻
昼。
二人は畦へ座って休んでいた。
奇稲田姫が水を渡す。
「ありがとう」
須佐之男は受け取る。
少し飲む。
「いつまでいるの?」
奇稲田姫が聞く。
須佐之男は。
すぐには答えなかった。
「分からない」
「行くところはないの?」
「ある」
空を見る。
見えないほど遠いところに。
高天原がある。
「でも」
少しだけ笑う。
「今は帰らない」
奇稲田姫は。
それ以上聞かなかった。
どうして。
誰のところへ。
何があった。
何も。
須佐之男は。
そのことに。
少しだけ救われた。
しばらくして。
須佐之男も尋ねる。
「お前は?」
「何?」
「ずっとここにいるの?」
奇稲田姫の手が。
ほんの一瞬だけ止まる。
須佐之男は気づく。
けれど。
続きを急かさない。
奇稲田姫が。
遠い山を見る。
「……分からない」
須佐之男も。
その山を見る。
「そっか」
それだけだった。
奇稲田姫が。
ほんの僅かに横を見る。
今度は。
須佐之男のほうが。
何も聞かなかった。
二人の間を。
風が通る。
山の上では。
また雲が集まり始めていた。
奇稲田姫の表情が消える。
須佐之男が気づく。
「どうした?」
奇稲田姫は山を見る。
長い間。
「……何でもない」
須佐之男は。
以前なら。
すぐに追及した。
今日は。
少しだけ彼女の横顔を見る。
そして。
「分かった」
と答えた。
その返事のほうに。
今度は奇稲田姫が。
僅かに驚いた。
⸻
【斐伊川・上流】
人里から離れた。
山の奥。
川は。
深い森を抜けていた。
鳥の声が。
少しずつ減る。
さらに奥へ行けば。
虫の声まで消える。
木の幹には。
何かが長い年月をかけ。
擦り続けたような。
深い傷が残っている。
地面にも。
雨でできたとは思えない溝が。
何本も走っていた。
一つ。
少し離れて。
もう一つ。
さらに。
森の奥へ。
別の溝。
どれも。
同じ暗い谷へ向かっている。
雨が落ち始める。
最初は。
一滴。
二滴。
やがて。
川面が細かな波紋で満たされる。
谷のさらに奥。
何かが。
ゆっくり動いた。
姿は見えない。
ただ。
それまで別々に流れていた幾筋もの水が。
ほんの一瞬だけ。
同じ方向へ引かれた。
そして。
低い音がした。
呼吸なのか。
水なのか。
山が軋んだだけなのか。
誰にも分からない。
すぐに。
森は再び静かになった。
⸻
【出雲・稲田】
夕方。
奇稲田姫は。
家へ帰る道を歩いていた。
須佐之男はまだ田に残り。
刈った稲を束ねている。
突然。
手を止めた。
水路を見る。
水面に。
ほんの小さな波紋。
一度。
それだけ。
須佐之男が顔を上げる。
山を見る。
奇稲田姫も。
少し離れた道で。
同じ山を見ていた。
ぽつり。
雨の最初の一滴が。
須佐之男の手の甲へ落ちる。
「……また雨か」
遠く。
奇稲田姫の顔から。
ほんの僅かに血の気が引いた。
けれど。
彼女は何も言わない。
須佐之男にも。
まだ聞こえない。
山が何を意味するのか。
八つの杯が何のために並ぶのか。
なぜ夜になると。
村人が戸を閉ざすのか。
そして。
奇稲田姫が。
朝になれば何事もなかったように。
稲を刈り続けている理由も。
須佐之男は。
まだ知らない。
だから。
今は。
すぐに山へ走らなかった。
すぐに力を使わなかった。
ただ。
雨の向こうを見た。
「……何がいるんだ」
答えは。
まだ来なかった。
須佐之男は。
奇稲田姫のいる道へ目を戻す。
彼女はもう。
家へ向かって歩き始めている。
その背中を少し見て。
須佐之男も。
刈りかけの稲へ戻った。
まず。
今日やるべきことを。
終わらせるために。
雨は。
少しずつ強くなっていた。
山の奥から。




