第21話「誰も俺を知らない」
肩書きを失って初めて分かることがある。自分のものだと思っていたものの中には、名前や家族や立場が、先に用意してくれていたものもあった。だからこそ、何もない場所で初めて手にしたものは、たとえ小さくても、不思議なほど重い。
【出雲・須佐之男の仮住まい】
朝。
ぽつ。
ぽつ。
ぽつ。
一定の間隔で、屋根から水が落ちていた。
須佐之男は目を開けた。
額に一滴。
瞬きをする。
もう一滴。
しばらく天井を睨んでいたが、雨漏りのほうは少しも気にする様子がない。
須佐之男は左へ身体をずらした。
床板が、ぎしりと沈む。
右へずれる。
そこには昨夜置いた木桶があった。
「……狭い」
結局、起き上がった。
傾いた床。雨染みの残る壁。ところどころ黒くなった梁。高天原にいた頃なら、物置として使うにも一度修繕を命じていたかもしれない。
須佐之男は寝癖のついた髪を掻いた。
「高天原の倉だって、もう少しましだったぞ……」
ぐう、と腹が鳴った。
須佐之男は黙った。
もう一度。
今度は先ほどより大きい。
「……分かったよ」
誰に言うでもなく呟き、立ち上がった。
今朝は、屋根より腹のほうが先らしい。
⸻
【出雲・弥代の家】
戸を叩くと、しばらくして弥代が顔を出した。
「何だい」
「飯」
「薪は?」
須佐之男は眉を寄せた。
「薪?」
弥代は何も言わない。
ただ、須佐之男を見ている。
数秒。
須佐之男の顔が変わった。
昨日、一晩泊めてもらう代わりに薪を二束運ぶと言われていた。
振り返る。
薪は昨日見た場所に、そのまま積まれている。
「……今やる」
弥代は戸を閉めようとした。
「待て」
須佐之男が慌てて手を伸ばす。
「先に食べるのは?」
「駄目」
「少しくらい」
ぱたん。
戸が閉じた。
須佐之男は、しばらく戸を見ていた。
「……高天原じゃ、約束忘れただけで朝飯までなくならなかったぞ」
返事はない。
昨日の自分が。
今日の朝飯を決めるらしい。
⸻
薪を縄でまとめる。
持ち上げる。
思ったより重い。
もちろん、運べないほどではない。
須佐之男なら、ほんの少し力を使えば、全部まとめて浮かせることさえできる。
無意識に指先へ力が集まりかけた。
湿った空気が、わずかに揺れる。
須佐之男は止まった。
天照の言葉が浮かぶ。
――誰かに、変わったと証明するためじゃない。
須佐之男は小さく息を吐いた。
「分かってるよ」
力を引っ込める。
両腕だけで抱え直した。
一歩。
二歩。
三歩。
ぶつ、と音がした。
縄がほどける。
薪が地面へ散らばった。
「……」
須佐之男はしばらく動かなかった。
やがて無言でしゃがみ、一本ずつ拾い始める。
そこへ、小さな女の子が通りかかった。
六つか七つくらいだった。
足を止める。
じっと見る。
須佐之男が顔を上げる。
「何だよ」
「へた」
須佐之男の眉が上がる。
「じゃあ、お前がやれ」
女の子は首を傾げた。
「わたし、あなたの朝ごはん食べないもん」
そのまま走っていった。
須佐之男は何か言い返そうとして。
口を閉じた。
「……それはそうだけど」
誰も聞いていなかった。
⸻
ようやく二束を運び終えた頃には、髪にも袖にも細かな木屑がついていた。
弥代が出てくる。
積まれた薪を見る。
「曲がってる」
須佐之男が目を見開いた。
「薪に曲がってるとかあるのか?」
弥代は一番下の薪を軽く足で押した。
どさどさどさ。
半分ほど崩れた。
須佐之男は固まった。
弥代が言う。
「こうなるのを、曲がってるって言うんだよ」
須佐之男のこめかみが動く。
何か言いかける。
けれど。
崩れた薪を見る。
そのまましゃがんだ。
「……分かった」
もう一度。
今度は下を揃える。
太い薪を先に。
細いものを上へ。
弥代は何も教えなかった。
須佐之男も聞かなかった。
一度崩しかけ。
直す。
二度目。
ようやく形になった。
弥代が軽く押す。
崩れない。
「まあ、いい」
それだけ言って家へ戻る。
須佐之男は薪を見る。
「まあ、って何だよ」
けれど。
少しだけ口元が緩んでいた。
⸻
朝飯は粥と漬物だった。
須佐之男は一口食べた。
止まる。
粥を見る。
弥代を見る。
「……これだけ?」
「薪二束分」
「俺、昔は――」
そこで口が止まった。
昔は。
海を任されていた。
食事をどこから持ってくるかなど考えたこともなかった。
誰かが作り。
誰かが運び。
気づけば目の前にあった。
弥代が聞く。
「昔は何だい」
須佐之男は粥へ目を戻した。
「……もっと食べてた」
「なら今日は、もっと働きな」
須佐之男は黙って粥を食べた。
神の食事も。
人の食事も。
空から勝手に落ちてくるわけではない。
今さら。
そんなことを知った。
⸻
【出雲・村中】
朝食を終えると、須佐之男は仕事を探して村を歩いた。
屋根を直している男たちがいる。
「手伝う」
一人が振り返った。
「屋根、直したことあるか?」
「ない」
「じゃあ下で見てろ」
「見てるだけ?」
「落ちてこられたら困る」
終わった。
次。
鍛冶場。
「俺、力なら――」
「鉄打ったことは?」
「ない」
「火の扱いは?」
「ない」
「帰れ」
終わった。
その次。
荷車を直している老人。
「何かやることない?」
「車輪組めるか」
「組んだことない」
「なら邪魔」
須佐之男は立ち尽くした。
力ならある。
水も動かせる。
海の流れだって読むことができる。
それなのに。
村で必要とされていることのほとんどを。
自分はできなかった。
「……何なんだよ」
小さく呟く。
力があることと。
仕事ができることは。
どうやら、同じではないらしい。
⸻
【出雲・宗太の木工作業場】
乾いた鋸の音が響いていた。
宗太は大きな木材へ刃を入れている。
須佐之男は少し離れたところに立ち、しばらく見ていた。
宗太が顔を上げないまま言った。
「見るなら銭取るぞ」
須佐之男が眉を寄せる。
「見るだけで?」
「嫌なら見るな」
「仕事を探してる」
そこでようやく宗太が手を止めた。
須佐之男を頭から足まで見る。
「何ができる」
今度は。
須佐之男もすぐに答えなかった。
しばらく考える。
「……力はある」
「ほかは?」
さらに考える。
「かなりある」
宗太は無表情で奥を指した。
「じゃあ、あの木を運べ」
須佐之男の目が少し明るくなった。
ようやく。
自分にもできる仕事だった。
⸻
最初の一本。
軽い。
次。
もう一本。
須佐之男は問題なく運ぶ。
三本目。
四本目。
だんだん気分が良くなってきた。
道を通る者が何人かこちらを見る。
その視線に気づいた瞬間。
昔の癖が顔を出した。
須佐之男は木材を三本まとめて抱えた。
「置け」
宗太の声が飛ぶ。
須佐之男が振り向く。
「持てるぞ」
「お前が持てるかどうかじゃない」
宗太は木材を顎で示す。
「ぶつけたら材が傷む」
須佐之男の身体が止まった。
抱えている木を見る。
自分なら。
持てる。
落とさない。
だから問題ない。
そう思った。
宗太は。
須佐之男ではなく。
木を見ていた。
須佐之男はしばらく黙り。
二本を下ろした。
一本だけ抱える。
「……これなら?」
「運べ」
褒めもしない。
笑いもしない。
須佐之男も何も言わず歩き出した。
⸻
「よそ者」
宗太が呼ぶ。
須佐之男が振り返る。
「俺には名前がある」
「何ていう」
須佐之男は一瞬だけ背筋を伸ばした。
ようやく聞かれた。
「須佐之男」
「そうか」
宗太はまた木を削り始める。
須佐之男は待った。
一息。
二息。
何もない。
「……聞いたことない?」
宗太が顔を上げる。
「聞くべき名前なのか?」
須佐之男は口を開き。
閉じた。
「……別に」
木を持つ。
高天原では。
須佐之男の名を知らない者はいなかった。
好かれていようが。
恐れられていようが。
名前を告げれば。
必ず何かが返ってきた。
ここでは。
ただ。
須佐之男。
それだけだった。
⸻
【出雲・稲田】
昼。
奇稲田姫は畦に座って、握り飯を食べていた。
須佐之男も宗太から渡された握り飯を持ってやって来る。
少し離れたところに座る。
奇稲田姫が見る。
「仕事、見つかった?」
「木運んでる」
「向いてそう」
須佐之男の眉が寄る。
「どういう意味だよ」
「考えなくてもできそうだから」
「考えてる」
「そうは見えない」
須佐之男が睨む。
奇稲田姫は気にせず食べ続ける。
昨日より。
少しだけ。
このやり取りに慣れていた。
しばらくして。
須佐之男が言う。
「この村、本当に誰も俺を知らないんだな」
奇稲田姫が顔を上げる。
「どうして知ってると思うの?」
「それは……」
言葉が詰まった。
伊邪那岐の息子。
天照の弟。
月読の弟。
海を任された神。
どれも嘘ではない。
けれど。
今、この田の横で握り飯を食べている自分の説明になっている気がしなかった。
「……もういい」
奇稲田姫が聞く。
「前は有名だった?」
「まあ」
「何で?」
須佐之男の頭に。
海が荒れた日。
洪水。
壊れた織殿。
血のついた手。
議事殿。
天門。
いくつもの景色が浮かぶ。
「……ろくな理由じゃない」
それだけ答えた。
奇稲田姫は、それ以上聞かなかった。
握り飯を一口食べ。
「じゃあ」
何でもないことのように言う。
「ここで誰も知らないなら、よかったんじゃない?」
須佐之男が顔を上げる。
奇稲田姫はもう前を見ていた。
須佐之男だけが。
その言葉をしばらく考えていた。
⸻
【出雲・村の寄合所】
同じ頃。
大原道主。
御影。
足名椎。
三人が向かい合っていた。
御影が言う。
「よそ者は、しばらく村に残るらしい」
大原道主が眉を寄せる。
「誰が許した」
「弥代」
「……あの婆さんか」
足名椎は別のことを気にしていた。
「稲田と話している」
大原道主が顔を上げた。
「どの程度だ」
「田で何度か」
御影が静かに言う。
「話しただけだ」
足名椎の顔は険しい。
「今は外の者が入り込む時期じゃない」
御影が見る。
「外の者が困るのか」
少し間を置く。
「それとも、余計なものを見る者が困るのか」
足名椎は答えなかった。
大原道主が御影へ向き直る。
「普通ではないと言ったな」
「うん」
「山の者か」
御影は首を振る。
「川か」
また首を振る。
「では何だ」
御影はしばらく黙った。
「分からない」
一度。
言葉を選ぶ。
「ただ」
「斐伊川が、あいつに触れた」
大原道主の顔から軽さが消える。
足名椎も息を止める。
「どういう意味だ」
御影は窓の外を見る。
「川は」
低く続けた。
「あいつを知らないはずなのに」
少し間を置く。
「知らないものへ向ける動きじゃなかった」
誰も。
その先を聞かなかった。
⸻
【宗太の木工作業場】
午後。
宗太が木槌を差し出した。
「これを打て」
須佐之男は受け取る。
「これはできる」
一打。
乾いた音。
次の瞬間。
ぱき。
木の継ぎ目に細い裂け目が走った。
沈黙。
宗太。
須佐之男。
割れた木。
須佐之男は順番に見た。
「……木が弱い」
口に出した瞬間。
須佐之男自身が黙った。
木槌を見下ろす。
真紗の織殿。
切れた糸。
あの日、自分が言った言葉が戻ってくる。
須佐之男は息を吐いた。
「違う」
宗太が見る。
「何が」
「俺が強く打ちすぎた」
宗太は少しだけ須佐之男を見た。
それだけ。
「なら弁償」
須佐之男が顔を上げる。
「何?」
「壊しただろ」
「銭ない」
「なら半日、余計に働け」
須佐之男は目を閉じた。
「……分かった」
人の世の責任は。
ときどき。
嫌になるほど分かりやすかった。
壊した。
なら。
その分を返す。
⸻
夕暮れ。
他の者が帰ったあとも。
須佐之男は木を運んでいた。
壊した分だった。
宗太は隅で道具の手入れをしている。
須佐之男が聞く。
「お前は帰らないの?」
「待ってる」
「俺が盗むと思ってる?」
宗太は刃を拭きながら答えた。
「盗まれるより、残りまで壊されるほうが嫌だ」
須佐之男の顔が険しくなる。
宗太が笑った。
須佐之男も少し遅れて鼻で笑う。
しばらくして。
宗太が尋ねた。
「前は何してた」
須佐之男の手が僅かに止まる。
「海を見てた」
「漁師か」
須佐之男は。
違う、と言いかけた。
潮を。
海そのものを。
そう説明しようとして。
やめる。
「……まあ、そんな感じ」
宗太は納得したように頷く。
「だから木は下手なんだな」
須佐之男は訂正しなかった。
誤解された。
それなのに。
特に困らなかった。
⸻
仕事が終わる頃。
宗太が小さな銭をいくつか差し出した。
「今日の分」
須佐之男は受け取った。
掌に乗せる。
動かない。
宗太が聞く。
「何だ」
「……これ」
「銭だ」
「分かってる」
須佐之男はもう一度見る。
小さい。
軽い。
神職でもない。
供物でもない。
家族から渡されたものでもない。
今日。
自分が運んだ木。
失敗した木。
やり直した仕事。
その分だけ。
須佐之男は指を閉じた。
少し歩いて。
また開く。
見る。
もう一度閉じる。
宗太が後ろから見ていたが。
何も言わなかった。
⸻
弥代のところへ行く。
須佐之男は銭を置いた。
「これで何日?」
弥代が数える。
「三日」
須佐之男の目が丸くなる。
「三日だけ?」
「嫌なら川原で寝な」
「三日でいい」
即答だった。
弥代が銭をしまう。
須佐之男はまだ立っている。
「何だい」
須佐之男は空になった自分の掌を見る。
「……何でもない」
少しだけ。
惜しい気もした。
それ以上に。
妙に嬉しかった。
⸻
【奇稲田姫の家】
夕餉。
足名椎は、何度か口を開きかけていた。
最後に。
「例のよそ者だが」
奇稲田姫は食事を続けたまま答える。
「須佐之男」
父と母の手が。
ほとんど同時に止まった。
「名前を聞いたのか」
「うん」
手名椎が尋ねる。
「どこから来たって?」
「遠いところ」
足名椎は少し迷った。
「必要以上に近づくな」
奇稲田姫が顔を上げる。
「どうして?」
「よそ者だからだ」
「毎年、よそ者は来るでしょう」
「今年は違う」
言ってから。
足名椎自身が止まった。
奇稲田姫の目が変わる。
「今年は」
静かに聞く。
「何が違うの?」
誰も答えない。
奇稲田姫は父を見る。
「私のこと?」
手名椎の顔が曇る。
足名椎は口を開けない。
奇稲田姫は箸を置いた。
「何も言いたくないなら」
声は穏やかだった。
「私の前で、途中までだけ話すのやめて」
立ち上がる。
「稲田」
「明日も早いから」
そのまま部屋を出ていった。
戸が閉まる。
手名椎が低く言う。
「もう分かってる」
足名椎は俯いた。
「分かっていることと」
少し間を置く。
「俺たちが言うことは違う」
手名椎は夫を見る。
「あなたにとってはね」
それ以上。
何も言わなかった。
⸻
【斐伊川】
夜。
須佐之男は川辺に座り、今日もらった握り飯を食べていた。
特別うまいわけではない。
それでも。
少しずつ食べる。
御影が歩いてくる。
須佐之男の横に座る。
「初めてか」
「何が」
御影の目が。
須佐之男の懐へ向く。
さっきから。
須佐之男は何度も銭袋へ触れていた。
「自分で稼いだの」
須佐之男が見る。
「何で分かる」
「触りすぎだ」
須佐之男は気まずそうに手を離した。
「笑う?」
「いや」
御影は川を見る。
「初めて自分で手に入れたものは」
少し間を置く。
「何度も確かめたくなる」
須佐之男は何も言わない。
しばらくして。
「お前」
「何」
「俺が人じゃないって分かってるだろ」
「うん」
須佐之男は少し眉を寄せる。
「何で誰にも言わない」
御影は川を見たまま答えた。
「言って、何になる」
「少なくとも」
須佐之男は赤く擦れた掌を見る。
「木を運ばなくて済むかもしれない」
御影が横を見る。
「運びたくない?」
須佐之男は少し考えた。
「疲れる」
「なら言えばいい」
須佐之男が顔を上げる。
御影は淡々と続ける。
「止める者はいない」
須佐之男は黙った。
もし。
今。
自分は神だと言えば。
村人は驚くかもしれない。
恐れるかもしれない。
食事を用意する者もいるだろう。
家だって。
もっとましな場所を与えられるかもしれない。
以前なら。
それを当然だと思った。
今は。
なぜか。
その光景を想像すると。
少し息苦しかった。
御影が聞く。
「どうして言わない」
須佐之男は長く考える。
「……分からない」
それから。
川へ目を向けた。
「誰も俺を知らないのは、別に好きじゃない」
「うん」
「でも」
少し言葉を探す。
「ここで俺を嫌う奴がいたら」
「今日の俺を見て嫌うんだろ」
御影は黙って聞いている。
「もし」
須佐之男は握り飯を見た。
「少しは悪くないって思う奴がいたら」
声が少し小さくなる。
「それも」
「今日の俺を見て決める」
父の名も。
姉の名も。
過去の役目も。
言わない。
須佐之男は小さく笑った。
「……それなら」
「まあ」
「悪くない」
御影は。
一度だけ。
静かに頷いた。
⸻
少し間が空く。
須佐之男がすぐに言った。
「でも、山のことは教えろ」
御影が横を見る。
「何を」
「あそこに何がいる」
「今いい話をしたところなのに」
「それとこれとは別」
御影は小さく息を吐いた。
須佐之男が川を見る。
「呼ばれるんだよ」
御影の表情が消えた。
「何?」
「川の奥」
須佐之男は耳を澄ますように目を閉じた。
「ずっとじゃない」
「たまに」
「上流のほうから」
ゆっくり目を開く。
「こっちを見てる感じがする」
御影は答えなかった。
その沈黙が。
今までのものと違う。
須佐之男にも分かった。
やがて。
御影が低く言う。
「次に感じても」
「何」
「返すな」
須佐之男が眉を寄せる。
「何を」
「何でもいい」
御影は立ち上がる。
川の上流を見る。
「気づいたと」
少し間を置く。
「向こうへ知らせるな」
須佐之男の目が細くなる。
「どういう意味」
御影は答えない。
歩き出す。
須佐之男がその背中へ向かって言った。
「本当にお前ら」
「どうして最後まで言わないんだよ!」
御影は振り返らなかった。
⸻
【須佐之男の仮住まい】
夜。
須佐之男は床へ横になっていた。
屋根から。
ぽつ。
水が落ちる。
須佐之男は目を開ける。
立ち上がる。
木桶を取る。
一歩。
置く。
ぽつ。
水滴が桶の真ん中へ落ちた。
「よし」
もう位置に迷わなかった。
戻って横になる。
懐から小さな銭袋を出した。
残った二枚を床へ置く。
一枚。
もう一枚。
見ていると。
少しだけ笑みが浮かぶ。
次に。
父からもらった白い石を出した。
片方には。
今日働いて得た銭。
もう片方には。
幼い頃、自分が拾い。
父が長く持っていて。
別れの日に返してくれた石。
須佐之男は二つを見比べた。
少しして。
どちらも手の中へ入れた。
価値を比べる気にはならなかった。
手に入れた理由が。
違うだけだった。
⸻
【高天原・日の御殿】
同じ夜。
天照は人の世から届いた記録へ目を通していた。
一枚。
次。
また一枚。
その中に。
「出雲・日照異常なし」
という短い記録がある。
天照の目が。
ほんの一瞬だけ止まった。
すぐ。
次を取る。
思兼神が気づく。
「出雲の降雨記録もございます」
「明日見る」
思兼神が天照を見る。
以前なら。
出雲という文字を見ただけで。
最初に手を伸ばしていたかもしれない。
今日は違った。
天照は別の土地の記録を開く。
弟が何をしているのか。
毎日。
最初に確かめなくてもいい。
天照もまた。
その距離に慣れようとしていた。
⸻
【宗太の木工作業場・翌朝】
朝。
須佐之男は宗太より先に来ていた。
昨日言われた通り。
木材を揃える。
一本。
また一本。
同じ向きに。
端をぶつけないように。
宗太が来る。
しばらく見る。
何も言わない。
須佐之男のほうから聞いた。
「今日は?」
宗太は昨日の木組みを指す。
「榫を打つ」
須佐之男の顔が露骨に曇る。
「また?」
「一つ壊したら」
宗太が木槌を渡す。
「一生やらないつもりか」
須佐之男の手が止まった。
木槌を見る。
「……別に」
受け取る。
今度は。
力を入れすぎない。
こん。
一度。
止まる。
角度を見る。
こん。
もう一度。
少しずつ。
木が収まっていく。
割れない。
最後まで入った。
須佐之男の顔が明るくなる。
宗太がすぐに言った。
「喜ぶのはまだ早い」
須佐之男が振り返る。
宗太は奥を指す。
「あと二十」
須佐之男は長く黙った。
「……人間って」
木槌を握り直す。
「何で何でもこんなに数あるんだよ」
「家は勝手に生えてこないからな」
宗太はもう別の仕事へ戻っていた。
⸻
そのとき。
道を奇稲田姫が通った。
作業場へ目を向ける。
須佐之男と目が合う。
須佐之男は。
少しだけ姿勢を正した。
何でもない顔で木槌を上げる。
こん。
少しずれた。
すぐ止める。
角度を直す。
もう一度。
こん。
奇稲田姫が聞く。
「今日は壊してない?」
「壊してない」
「そう」
少しだけ。
笑った。
「よかったね」
それだけ言って。
歩いていく。
須佐之男は木槌を持ったまま固まった。
高天原では。
ずっと欲しがっていた言葉だった。
認めてほしい。
見てほしい。
よくできたと言ってほしい。
奇稲田姫の言葉は。
そんな大げさなものではなかった。
ただ。
昨日より今日のほうが少しましだった。
それだけ。
なのに。
妙に嬉しかった。
宗太が見る。
「何笑ってんだ」
須佐之男がすぐ戻る。
「笑ってない」
「槌」
「何」
「逆」
須佐之男が手を見る。
本当に逆に持っていた。
「……」
宗太が吹き出した。
須佐之男の顔が赤くなる。
「見るな!」
⸻
【出雲・山裾の祭祠】
その頃。
御影は八つの酒杯の前に立っていた。
一つ。
酒が減っている。
御影はしゃがむ。
杯を見る。
昨夜、自分が注いだ量を。
見間違えるはずはない。
酒がこぼれた跡もない。
蒸発でもない。
少し離れた泥の上へ目を移す。
一本。
太い跡が残っている。
足ではない。
獣の爪でもない。
何か大きなものが。
濡れた身体を地面へ擦りつけながら。
森の奥へ進んだような跡。
御影はゆっくり立ち上がった。
遠く。
村の方向から。
須佐之男と宗太が言い争う声が聞こえてくる。
御影の顔が曇る。
「……よりによって」
低く呟く。
「今なのか」
⸻
【出雲・村の寄合所】
昼。
大原道主が御影から話を聞いていた。
「いくつだ」
「一つ」
足名椎の顔から血の気が引く。
「去年は」
大原道主が聞く。
「いつからだった」
「祭りの七日前」
「今年は?」
御影は少し間を置いた。
「まだ十二日ある」
部屋が静まった。
早い。
誰も言わなかった。
言う必要がなかった。
足名椎の唇が動く。
「では、稲田は……」
大原道主は答えない。
御影が言う。
「祭日が早まる可能性は」
一度言葉を切る。
「まだ本人には言わないほうがいい」
足名椎が顔を上げる。
「自分の番だということは、もう気づいている」
大原道主が低く返す。
「自分の番だと知ることと」
「いつ来るかを知ることは違う」
足名椎は俯いた。
つい最近まで。
自分も同じ理屈で。
娘へ何も言わなかった。
⸻
【斐伊川・夕暮れ】
奇稲田姫が河原で手を洗っていた。
須佐之男が来る。
少し離れたところへ座る。
しばらく。
二人とも川を見ていた。
奇稲田姫が先に聞く。
「今日も銭、もらった?」
「うん」
「嬉しい?」
須佐之男は少し考える。
「……ちょっと」
「そう」
須佐之男は川面を見る。
「前は」
ぽつりと言う。
「もっといろんなもの持ってた」
奇稲田姫が横を見る。
「今は?」
「今もある」
少し間を置く。
「でも」
「前は俺が誰かってだけで、勝手に集まってきたものが多かった」
奇稲田姫は考える。
「今日の銭は?」
「木運んだから」
「じゃあ」
奇稲田姫は川の水を払う。
「それは今日のあなたの分だね」
須佐之男が見る。
奇稲田姫はもう前を向いていた。
須佐之男も。
少しだけ笑った。
「うん」
⸻
しばらくして。
須佐之男が聞く。
「もし」
「俺が前に何だったか話したら」
奇稲田姫が見る。
「信じる?」
「分からない」
「すごかったとしても?」
奇稲田姫は少し首を傾げる。
「それ」
「今と関係ある?」
須佐之男が止まる。
奇稲田姫は淡々と続ける。
「今も井戸の水、あまり上手に汲めないし」
「木も壊したし」
「今日は壊してない」
「うん」
ほんの少し笑う。
「今日は昨日よりいい」
須佐之男は何も言えなかった。
昨日より。
今日。
昔何だったかではなく。
今どうだったか。
そんなふうに見られることに。
まだ慣れていなかった。
⸻
奇稲田姫が立ち上がる。
「帰る」
「奇稲田」
足が止まる。
須佐之男は少し迷った。
「昔」
奇稲田姫が振り返る。
須佐之男は川へ目を落とした。
「すごく嫌な奴だったとしてさ」
「うん」
「今は」
少し言葉を探す。
「前よりましになったら」
「昔のことって」
「ずっと覚えてるべきだと思う?」
奇稲田姫はしばらく考えた。
「覚えてたほうがいいんじゃない」
須佐之男の目が少し落ちる。
奇稲田姫は続けた。
「でも」
須佐之男が見る。
「昔のことしか見ないのも、変だと思う」
少しだけ間を置く。
「人って」
「昨日一日だけじゃないでしょう」
それだけ言って。
歩き去った。
須佐之男は川辺に残った。
水が流れる。
昨日。
今日。
その先へ。
同じ川なのに。
同じ水ではなかった。
⸻
【出雲・山奥】
夜。
祭祠から消えた酒の匂いが。
細い水へ混じっていた。
流れは森の奥へ入る。
人の通らない場所へ。
さらに深く。
木々の間には。
何か巨大なものが擦れたような跡が続いている。
雨。
水。
濡れた土。
その奥から。
低い呼吸が聞こえた。
ひとつ。
長く。
暗闇の中で。
巨大な鼻孔が僅かに動く。
酒の匂い。
そして。
それとは違う。
知らない匂い。
遠い天から落ちてきた者の匂い。
闇の中で。
一つの眼が開いた。
少し離れた場所で。
もう一つ。
さらに奥で。
何かが動く。
まだ。
全体は見えない。
ただ。
森の中にある暗闇は。
一つではなかった。
⸻
【出雲・須佐之男の仮住まい】
夜。
須佐之男は横になっていた。
外から。
村の音が聞こえてくる。
犬。
子供の泣き声。
どこかの家の夫婦喧嘩。
鍋を片づける音。
誰かの笑い声。
人の足音。
高天原の夜とは。
まるで違う。
少し騒がしい。
けれど。
嫌ではなかった。
ぽつ。
屋根から水が落ちる。
須佐之男は目を開けずに手を伸ばす。
木桶は。
もうそこにある。
水滴が。
真ん中へ落ちた。
須佐之男は薄く笑う。
今日。
自分の名を聞いた者は。
ほとんど誰も何も反応しなかった。
まだ村の多くは。
自分の名すら知らない。
「誰も俺を知らない……」
小さく呟く。
少し前までなら。
寂しいだけの言葉だった。
須佐之男は目を閉じる。
「……まあ」
真紗が作った灰白色の衣を身体へ引き寄せる。
「悪くないか」
眠りへ落ちていく。
枕元には。
小さな銭袋。
そのすぐ隣には。
父から渡された白い石があった。
一つは。
今日の須佐之男が手に入れたもの。
もう一つは。
昔の須佐之男を。
誰かが覚えていた証だった。
どちらも。
彼のものだった。
外では。
雨が静かに降っている。
さらに遠く。
斐伊川の向こう。
山の奥で。
何かが。
ゆっくり。
須佐之男の匂いを覚え始めていた。




