第22話 帰る場所の支度
山を下りる途中で、老女は三度、足を止めた。
一度目は息を整えるため。二度目は草鞋の紐が緩んだため。
三度目には、道端の石へ座ったきり、立ち上がろうとしなかった。
「先に行っとくれ」
膝に置いた手が、細かく震えていた。
少年がその隣にしゃがむ。
「ばあちゃん」
「聞こえてるよ。大きな声を出さなくても」
強い口調だったが、顔色はよくなかった。
須佐之男は背負っていた籠を下ろした。
「背負うか」
「荷物があるだろう」
「誰かに持ってもらう」
「そこまでしてもらうほどじゃない」
老女は杖を引き寄せ、立とうとした。膝が伸びきらず、もう一度、石へ腰が落ちる。
須佐之男は何も言わずに待った。
少しして、老女が彼を睨んだ。
「重いよ」
「持ってみないとわからない」
宗太が籠を引き受けた。稲乃が老女の杖を預かり、須佐之男の肩へ腕を回すのを手伝う。
立ち上がると、背中で老女が息を詰めた。
「痛むか」
「高いんだよ」
「ゆっくり行く」
少年はすぐ横を離れなかった。
須佐之男は足元を確かめながら、残りの坂を下りた。
*
畑が見えるところまで来ると、岩彦が先へ出た。
「少しここで待て。寝かせる場所を確かめてくる」
奇稲田も、稲乃の手を離した。
「私も行ってくる」
稲乃の顔が強張る。
「父さんたちには……」
「まだ呼ばない。御影さんのところへ行くだけ」
奇稲田は姉を見上げた。
「呼んでいいかは、あとで聞く」
稲乃は、ゆっくり頷いた。
二人を見送ってから、須佐之男は道端の切り株に老女を下ろした。自分も膝をつき、肩を回す。
「ほら、重かったろう」
「坂が長かった」
「同じことだよ」
老女は初めて、少し笑った。
稲乃が竹筒の水を差し出す。
「少しずつね、お登勢さん」
「わかってる」
少年にも水が回った。
彼は一口飲むと、道の向こうに見える屋根を眺めた。
「あそこに泊まるの?」
「まだわからない」
稲乃が答えた。
「でも、今日は足を伸ばして寝られるところを借りる」
「火、焚いていいのかな」
須佐之男は少年を見た。
山の中では、煙を気にしていたのかもしれない。聞こうとしたが、少年はもう竹筒を閉じていた。
やがて岩彦が戻ってきた。
「薬草を干していた小屋が空いてる。御影が使っていいと言った。水場にも近い」
「布団は」
「今、運んでる。お前ももうひと働きだ」
須佐之男は再び、お登勢の前にしゃがんだ。
今度は断られなかった。
*
小屋の戸は大きく開け放たれていた。
中から乾いた葉の匂いがする。奇稲田が床を掃き、宗太が運んだ敷物を広げた。
壁には使われていない棚が残っていたが、横になれる場所は十分にあった。
お登勢を座らせると、稲乃が手早く背へ畳んだ布を当てた。少年は枕の包みをほどき、寝床の端へ置いた。
「そこだと落ちるよ」
「じゃあ、ここ」
「うん」
何度も繰り返してきたやり取りなのだろう。
須佐之男は空になった籠を戸口へ置いた。
外に、人が集まり始めていた。
畑から戻る途中の男。水桶を下げた女。子供を連れた年寄り。
珍しい旅人を見る顔ばかりではなかった。
「山にいたって、本当かい」
一人が尋ねた。
稲乃は戸口へ顔を向け、動きを止めた。
別の女が、その顔を見て息を呑む。
「足名椎さんのところの……」
奇稲田が立ち上がった。
「姉です」
声は小さかったが、集まった者には聞こえた。
誰かが、稲乃の名を口にした。
「生きてたのか」
「じゃあ、祭りはどうなったんだ」
二つの声が重なった。
小屋の奥で、少年が枕を抱き寄せた。
須佐之男は戸口へ出た。
「話はあとにしてくれ。歩いてきたばかりだ」
「あとで済む話じゃないだろう」
男が一歩、前へ出る。
「供えた娘が戻ってきたら、山のものはどうなる。昨日も川が上がったんだぞ」
須佐之男の肩に力が入った。
その問いを、寝床を整えている女へ向けるのか。
言い返す前に、御影が男の横へ立った。
「昨日の水は、この人たちが山を出る前に上がっている」
「なら、山に隠れていたせいかもしれん」
「それを確かめた者はいない」
「祭りをしてきたのは、あんただろう」
御影は黙った。
男の声には怒りだけでなく、怯えがあった。
川が荒れれば、田も家も失う。娘を送り出すことでしか防げないと、長く聞かされてきた。
その話をしてきた一人が、御影だった。
「そうだ」
御影が答えた。
「だから、その問いには私が答える。だが今、答えを持っていない。わかっていないことを、この人たちのせいにはできない」
誰もすぐには口を開かなかった。
小屋の中で、木の椀が床に触れる音がした。
稲乃が立っていた。
奇稲田がその袖を掴みかけ、手を止める。
「私は、逃げました」
稲乃は戸口までは来なかった。
「置いていかれて、暗くなって、水が増えてきたから。死にたくなくて、逃げました」
男が彼女を見る。
「だからって——」
「この二人は、祭りとは関係ありません」
稲乃は言葉を重ねた。
「お登勢さんは、山向こうの道が崩れたあと、私たちのいる場所へ来た人です。孫を連れて。帰る家も、そのときになくしています」
お登勢は俯いたまま、少年の背へ手を置いた。
「今日、ここに泊めてほしいのは、この二人です」
男は小屋の奥を見た。
少年と目が合うと、視線を落とした。
「……俺は、ただ、また川が荒れたらと思って」
「川は見ておく」
須佐之男が言った。
男が顔を上げる。
「山の水も調べている。わかったことは御影に伝える。だが、この戸口に立っていても、水のことはわからない」
岩彦が、男の持っていた鍬を顎で示した。
「下の溝に枝が溜まってる。心配なら、あっちを空けるのを手伝え」
しばらくして、男が踵を返した。
岩彦もそのあとに続いた。
集まった人々は、少しずつ散っていった。
最後に残った、水桶を下げた女が小屋を覗いた。
「湯は要るかい」
稲乃はすぐには返事ができなかった。
代わりに、奇稲田が頷いた。
「お願いします。足を拭きたいので」
*
昼を過ぎる頃には、お登勢は眠っていた。
少年もその隣で、丸めた上着に頬を載せている。
須佐之男は戸の立てつけを直していた。閉めるたびに床を擦り、大きな音がする。木の下端を少し削ると、ようやく静かに動くようになった。
外の井戸端では、稲乃が布を洗っていた。
奇稲田はその隣で、洗い終えた布を絞っている。
「いつから、あの二人と?」
「去年の秋。お登勢さん、最初は私たちのことを山賊だと思ったんだよ」
「姉さんが?」
「鍋を貸してって言っただけなのに」
「返し忘れたんじゃない?」
「それは、別の日」
奇稲田が笑った。
稲乃も笑い、すぐに顔を伏せた。
水の中で、布を揉む手が止まる。
「さっき、帰ってこなければよかったと思った」
奇稲田は何も言わなかった。
「あなたが嫌なんじゃない。父さんと母さんのことも……会いたくないわけじゃない。でも、また何かあったら、ああやって聞かれるんだろうなって」
「うん」
「山にいれば、少なくとも、それはなかった」
奇稲田は固く絞った布を桶の縁へ掛けた。
「今、父さんたちを呼んでほしい?」
稲乃は、長いこと黙っていた。
やがて首を振った。
「今日は、無理」
「わかった」
「でも、会ったことは話して。私が言ったことも」
「全部?」
「言えるところは、全部」
奇稲田は頷いた。
稲乃は洗い終えた布を持ち上げた。水が肘を伝い、地面へ落ちる。
「明日は、ここまで来てもらえるかな」
奇稲田が姉を見る。
「家には、まだ行けないけど」
「伝える」
返事が早すぎたのか、稲乃が少し笑った。
*
稲乃が山へ戻る支度を始めたとき、須佐之男は戸口から声をかけた。
「もう少し、待ってくれ」
「どうして?」
「岩彦が戻ったら、俺も途中まで行く。橋をもう一度見たい」
稲乃は外の明るさを確かめ、頷いた。
須佐之男は、手にしていた削り屑を片づけた。
「一つ、聞いていいか」
「私にわかることなら」
「祭りのあと、水が増えたと言っていたな。雨は降っていたのか」
稲乃は籠の紐を握った。
「少し。でも、急に増えるほどじゃなかった」
「その前に、音はしたか。岩を擦るような」
稲乃の顔から、表情が消えた。
須佐之男は言葉を足さずに待った。
小屋の奥で、お登勢が寝返りを打った。
「した」
稲乃が答えた。
「でも、最初にしたのは、別の音」
「どんな?」
「鈴」
奇稲田が井戸端から顔を上げた。
「祭りの鈴?」
「同じ音だったと思う。みんな帰ったあと、山の奥で鳴った。だから、誰か戻ってきてくれたんだと思って、立ったの」
稲乃は自分の足元を見た。
「そのあとに、岩の音がした」
須佐之男は、祭場へ運ぶ品を記した帳面を思い出した。
酒。布。供物。
そして、御影が儀式に用いる道具。
「鈴が鳴るまで、どのくらいあった」
「わからない。暗くなりかけてた。帰った人たちの声は、もう聞こえなかった」
「人の姿は?」
「見てない」
そこまで答えて、稲乃は彼を見た。
「今も、鳴ることがある」
須佐之男の手が止まった。
「山の中で?」
「奥の水路で。近くにいる人が鳴らしているみたいに聞こえる日もあれば、すごく遠い日もある」
奇稲田がゆっくり近づいてきた。
「誰かが、鳴らしてるの?」
「わからない。ただ、聞こえたら、水のそばから離れるようにしてる」
須佐之男は、机の上の紙を引き寄せた。
御影に伝えるため、聞いたことを一つずつ書き留める。
岩の音。
その前に聞こえる鈴。
稲乃が、書かれていく文字を見つめた。
「御影さんなら、何かわかるかな」
「確かめる」
須佐之男は筆を置いた。
祭場に置かれた娘が、迎えと思って立ち上がる音。
同じ音を聞いて、山に暮らす者たちは水辺を離れる。
その違いを、御影に聞かなければならなかった。




