↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
出雲の雨  作者: 幕神成


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/29

第22話 帰る場所の支度

 山を下りる途中で、老女は三度、足を止めた。


 一度目は息を整えるため。二度目は草鞋の紐が緩んだため。


 三度目には、道端の石へ座ったきり、立ち上がろうとしなかった。


「先に行っとくれ」


 膝に置いた手が、細かく震えていた。


 少年がその隣にしゃがむ。


「ばあちゃん」


「聞こえてるよ。大きな声を出さなくても」


 強い口調だったが、顔色はよくなかった。


 須佐之男は背負っていた籠を下ろした。


「背負うか」


「荷物があるだろう」


「誰かに持ってもらう」


「そこまでしてもらうほどじゃない」


 老女は杖を引き寄せ、立とうとした。膝が伸びきらず、もう一度、石へ腰が落ちる。


 須佐之男は何も言わずに待った。


 少しして、老女が彼を睨んだ。


「重いよ」


「持ってみないとわからない」


 宗太が籠を引き受けた。稲乃が老女の杖を預かり、須佐之男の肩へ腕を回すのを手伝う。


 立ち上がると、背中で老女が息を詰めた。


「痛むか」


「高いんだよ」


「ゆっくり行く」


 少年はすぐ横を離れなかった。


 須佐之男は足元を確かめながら、残りの坂を下りた。


     *


 畑が見えるところまで来ると、岩彦が先へ出た。


「少しここで待て。寝かせる場所を確かめてくる」


 奇稲田も、稲乃の手を離した。


「私も行ってくる」


 稲乃の顔が強張る。


「父さんたちには……」


「まだ呼ばない。御影さんのところへ行くだけ」


 奇稲田は姉を見上げた。


「呼んでいいかは、あとで聞く」


 稲乃は、ゆっくり頷いた。


 二人を見送ってから、須佐之男は道端の切り株に老女を下ろした。自分も膝をつき、肩を回す。


「ほら、重かったろう」


「坂が長かった」


「同じことだよ」


 老女は初めて、少し笑った。


 稲乃が竹筒の水を差し出す。


「少しずつね、お登勢さん」


「わかってる」


 少年にも水が回った。


 彼は一口飲むと、道の向こうに見える屋根を眺めた。


「あそこに泊まるの?」


「まだわからない」


 稲乃が答えた。


「でも、今日は足を伸ばして寝られるところを借りる」


「火、焚いていいのかな」


 須佐之男は少年を見た。


 山の中では、煙を気にしていたのかもしれない。聞こうとしたが、少年はもう竹筒を閉じていた。


 やがて岩彦が戻ってきた。


「薬草を干していた小屋が空いてる。御影が使っていいと言った。水場にも近い」


「布団は」


「今、運んでる。お前ももうひと働きだ」


 須佐之男は再び、お登勢の前にしゃがんだ。


 今度は断られなかった。


     *


 小屋の戸は大きく開け放たれていた。


 中から乾いた葉の匂いがする。奇稲田が床を掃き、宗太が運んだ敷物を広げた。


 壁には使われていない棚が残っていたが、横になれる場所は十分にあった。


 お登勢を座らせると、稲乃が手早く背へ畳んだ布を当てた。少年は枕の包みをほどき、寝床の端へ置いた。


「そこだと落ちるよ」


「じゃあ、ここ」


「うん」


 何度も繰り返してきたやり取りなのだろう。


 須佐之男は空になった籠を戸口へ置いた。


 外に、人が集まり始めていた。


 畑から戻る途中の男。水桶を下げた女。子供を連れた年寄り。


 珍しい旅人を見る顔ばかりではなかった。


「山にいたって、本当かい」


 一人が尋ねた。


 稲乃は戸口へ顔を向け、動きを止めた。


 別の女が、その顔を見て息を呑む。


「足名椎さんのところの……」


 奇稲田が立ち上がった。


「姉です」


 声は小さかったが、集まった者には聞こえた。


 誰かが、稲乃の名を口にした。


「生きてたのか」


「じゃあ、祭りはどうなったんだ」


 二つの声が重なった。


 小屋の奥で、少年が枕を抱き寄せた。


 須佐之男は戸口へ出た。


「話はあとにしてくれ。歩いてきたばかりだ」


「あとで済む話じゃないだろう」


 男が一歩、前へ出る。


「供えた娘が戻ってきたら、山のものはどうなる。昨日も川が上がったんだぞ」


 須佐之男の肩に力が入った。


 その問いを、寝床を整えている女へ向けるのか。


 言い返す前に、御影が男の横へ立った。


「昨日の水は、この人たちが山を出る前に上がっている」


「なら、山に隠れていたせいかもしれん」


「それを確かめた者はいない」


「祭りをしてきたのは、あんただろう」


 御影は黙った。


 男の声には怒りだけでなく、怯えがあった。


 川が荒れれば、田も家も失う。娘を送り出すことでしか防げないと、長く聞かされてきた。


 その話をしてきた一人が、御影だった。


「そうだ」


 御影が答えた。


「だから、その問いには私が答える。だが今、答えを持っていない。わかっていないことを、この人たちのせいにはできない」


 誰もすぐには口を開かなかった。


 小屋の中で、木の椀が床に触れる音がした。


 稲乃が立っていた。


 奇稲田がその袖を掴みかけ、手を止める。


「私は、逃げました」


 稲乃は戸口までは来なかった。


「置いていかれて、暗くなって、水が増えてきたから。死にたくなくて、逃げました」


 男が彼女を見る。


「だからって——」


「この二人は、祭りとは関係ありません」


 稲乃は言葉を重ねた。


「お登勢さんは、山向こうの道が崩れたあと、私たちのいる場所へ来た人です。孫を連れて。帰る家も、そのときになくしています」


 お登勢は俯いたまま、少年の背へ手を置いた。


「今日、ここに泊めてほしいのは、この二人です」


 男は小屋の奥を見た。


 少年と目が合うと、視線を落とした。


「……俺は、ただ、また川が荒れたらと思って」


「川は見ておく」


 須佐之男が言った。


 男が顔を上げる。


「山の水も調べている。わかったことは御影に伝える。だが、この戸口に立っていても、水のことはわからない」


 岩彦が、男の持っていた鍬を顎で示した。


「下の溝に枝が溜まってる。心配なら、あっちを空けるのを手伝え」


 しばらくして、男が踵を返した。


 岩彦もそのあとに続いた。


 集まった人々は、少しずつ散っていった。


 最後に残った、水桶を下げた女が小屋を覗いた。


「湯は要るかい」


 稲乃はすぐには返事ができなかった。


 代わりに、奇稲田が頷いた。


「お願いします。足を拭きたいので」


     *


 昼を過ぎる頃には、お登勢は眠っていた。


 少年もその隣で、丸めた上着に頬を載せている。


 須佐之男は戸の立てつけを直していた。閉めるたびに床を擦り、大きな音がする。木の下端を少し削ると、ようやく静かに動くようになった。


 外の井戸端では、稲乃が布を洗っていた。


 奇稲田はその隣で、洗い終えた布を絞っている。


「いつから、あの二人と?」


「去年の秋。お登勢さん、最初は私たちのことを山賊だと思ったんだよ」


「姉さんが?」


「鍋を貸してって言っただけなのに」


「返し忘れたんじゃない?」


「それは、別の日」


 奇稲田が笑った。


 稲乃も笑い、すぐに顔を伏せた。


 水の中で、布を揉む手が止まる。


「さっき、帰ってこなければよかったと思った」


 奇稲田は何も言わなかった。


「あなたが嫌なんじゃない。父さんと母さんのことも……会いたくないわけじゃない。でも、また何かあったら、ああやって聞かれるんだろうなって」


「うん」


「山にいれば、少なくとも、それはなかった」


 奇稲田は固く絞った布を桶の縁へ掛けた。


「今、父さんたちを呼んでほしい?」


 稲乃は、長いこと黙っていた。


 やがて首を振った。


「今日は、無理」


「わかった」


「でも、会ったことは話して。私が言ったことも」


「全部?」


「言えるところは、全部」


 奇稲田は頷いた。


 稲乃は洗い終えた布を持ち上げた。水が肘を伝い、地面へ落ちる。


「明日は、ここまで来てもらえるかな」


 奇稲田が姉を見る。


「家には、まだ行けないけど」


「伝える」


 返事が早すぎたのか、稲乃が少し笑った。


     *


 稲乃が山へ戻る支度を始めたとき、須佐之男は戸口から声をかけた。


「もう少し、待ってくれ」


「どうして?」


「岩彦が戻ったら、俺も途中まで行く。橋をもう一度見たい」


 稲乃は外の明るさを確かめ、頷いた。


 須佐之男は、手にしていた削り屑を片づけた。


「一つ、聞いていいか」


「私にわかることなら」


「祭りのあと、水が増えたと言っていたな。雨は降っていたのか」


 稲乃は籠の紐を握った。


「少し。でも、急に増えるほどじゃなかった」


「その前に、音はしたか。岩を擦るような」


 稲乃の顔から、表情が消えた。


 須佐之男は言葉を足さずに待った。


 小屋の奥で、お登勢が寝返りを打った。


「した」


 稲乃が答えた。


「でも、最初にしたのは、別の音」


「どんな?」


「鈴」


 奇稲田が井戸端から顔を上げた。


「祭りの鈴?」


「同じ音だったと思う。みんな帰ったあと、山の奥で鳴った。だから、誰か戻ってきてくれたんだと思って、立ったの」


 稲乃は自分の足元を見た。


「そのあとに、岩の音がした」


 須佐之男は、祭場へ運ぶ品を記した帳面を思い出した。


 酒。布。供物。


 そして、御影が儀式に用いる道具。


「鈴が鳴るまで、どのくらいあった」


「わからない。暗くなりかけてた。帰った人たちの声は、もう聞こえなかった」


「人の姿は?」


「見てない」


 そこまで答えて、稲乃は彼を見た。


「今も、鳴ることがある」


 須佐之男の手が止まった。


「山の中で?」


「奥の水路で。近くにいる人が鳴らしているみたいに聞こえる日もあれば、すごく遠い日もある」


 奇稲田がゆっくり近づいてきた。


「誰かが、鳴らしてるの?」


「わからない。ただ、聞こえたら、水のそばから離れるようにしてる」


 須佐之男は、机の上の紙を引き寄せた。


 御影に伝えるため、聞いたことを一つずつ書き留める。


 岩の音。


 その前に聞こえる鈴。


 稲乃が、書かれていく文字を見つめた。


「御影さんなら、何かわかるかな」


「確かめる」


 須佐之男は筆を置いた。


 祭場に置かれた娘が、迎えと思って立ち上がる音。


 同じ音を聞いて、山に暮らす者たちは水辺を離れる。


 その違いを、御影に聞かなければならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。