第23話 鈴の鳴るほうへ
御影は、稲乃の話を書いた紙を二度読んだ。
それから棚へ手を伸ばし、布に包まれた鈴を下ろした。
掌に収まるほどの大きさだった。黒ずんだ表面に、細い傷が幾筋も走っている。
「祭りで使うのは、これだ」
軽く振ると、澄んだ音がした。
稲乃の肩が跳ねた。
須佐之男は、御影の手を見た。御影も気づき、すぐに鈴を布の上へ置いた。
「すまない」
「……似てる」
稲乃は膝の上で手を握っていた。
「でも、山で聞くのは、もっと低い。響いているせいだと思ってた」
「この鈴は、祭りが終われば私が持ち帰る。先代の頃から、山へ置いてくる決まりはない」
「ほかにも鈴はあるか」
須佐之男が尋ねる。
「社にはある。ただ、山の中となると——」
御影は言葉を切り、奥の箱へ目を向けた。
奇稲田が、その視線を追う。
「古い記録?」
「ああ。祭りのものではないが」
御影は箱を引き寄せた。
中には、田の広さや水路の修繕に使った木材を書きつけた板が収められていた。前に見た祭りの帳面より、ずっと雑多なものだった。
一枚ずつ確かめていた指が、途中で止まる。
「鈴縄」
御影が読み上げた。
「『上の口、鈴縄取り替え』。その下に、縄と油の数がある」
須佐之男は身を乗り出した。
「どこのことだ」
「場所までは、これだけでは」
戸口で足音がした。
岩彦だった。山へ戻る稲乃と、須佐之男を迎えに来たのだ。
御影が板を見せると、老人は目を細めた。
「上の口……旧い田の奥か」
「知っているのか」
「親父から聞いたことがある。山の水を見に行く者が、鈴を直したと」
岩彦は板を傾け、薄れた文字を光へ向けた。
「わしが子供の頃には、もう田を使う者も少なかった。鈴そのものは見たことがない」
「人が鳴らす鈴か?」
「さてな。ただ、鳴ったら溝へ入るなと言われた」
誰も、すぐには口を開かなかった。
稲乃は布の上の祭具を見つめていた。
「迎えの音だって、言われた」
小さな声だった。
「山から鈴が聞こえたら、神が近づいているから、逃げずに待ちなさいって」
御影が顔を上げた。
稲乃は彼を見なかった。
「私は待てなかった。それで、ずっと……」
言葉が続かなかった。
奇稲田が姉の隣へ座り直した。触れようとした手は、その膝のそばに置いたままだった。
御影は古い板を机へ戻した。
「私も、そのように教わった」
「うん」
「だが、今の話と同じ音なのか、確かめなければならない」
稲乃が、ようやく彼を見た。
「同じだったら?」
御影の唇が動き、閉じた。
やがて、低い声が出た。
「教えてきたことを、改める」
*
山へ向かったのは、須佐之男と岩彦、それに稲乃だった。
奇稲田は麓に残った。眠っているお登勢と少年を、誰かが見ている必要があった。
別れ際、彼女は姉の籠へ小さな包みを入れた。
「握り飯。帰る途中で食べて」
「私の分だけ?」
「阿弥さんにも。足りなかったら分けて」
稲乃は包みを押さえ、頷いた。
「明日、また来る」
その約束を、奇稲田は今度は笑って受け取った。
橋は、変わらずそこにあった。
岩彦が地面と縄を調べている間に、須佐之男は一本ずつ丸太を踏み、揺れを確かめた。昨日つけた横木の印も、ずれていない。
「今日は大丈夫だ」
岩彦が言った。
「ただ、雨が続けば別だぞ」
稲乃が渡った先には、阿弥が待っていた。
麓の様子を聞き、お登勢たちが寝床を得たと知ると、目に見えて肩の力が抜けた。
「よかった」
「少し、騒ぎにはなった」
稲乃は隠さずに言った。
阿弥の顔が曇る。
「何かされたか」
「何も。言われただけ」
「それを何もとは言わないよ」
「でも、湯を持ってきてくれた人もいた」
稲乃は籠を下ろし、握り飯の包みを取り出した。
阿弥はそれを見てから、須佐之男へ目を向けた。
「今日は、何を調べに来た?」
「鈴だ」
*
阿弥は、音がよく聞こえる場所を知っていた。
住まいへ続く道とは別に、細い横道を進む。途中には、水を汲むために使っていたという窪みがあったが、今は誰も近寄らないという。
「前は、鈴が鳴ってからでも間に合った」
阿弥が言った。
「桶を持って道へ上がるくらいの余裕はあったんだ。今は、音とほとんど一緒に来る」
「水が?」
「ああ」
岩彦が足を止めた。
「なら、今日は水のあるところまで下りんぞ」
「そのつもりだよ」
阿弥は斜面の上を指さした。
岩肌に沿って、細い段が続いていた。自然にできたものではない。草に埋もれているが、ところどころに平たい石が並んでいる。
「上から覗けるところがある。足場は狭いけどね」
須佐之男が先へ進んだ。
岩の出っ張りを回ると、低い水音が聞こえた。
足元よりずっと下に、水路があった。暗い岩の隙間から出た水が、四角く組まれた石の間を通り、また山の中へ消えている。
その真上に、何かが吊られていた。
黒い、小さな塊。
須佐之男は目を凝らした。
「……あれか」
阿弥が肩越しに覗き込む。
「見つけた?」
「ああ。手は届かない」
鈴は、古い横木から下がっていた。
祭具よりも大きい。表面には苔がつき、口の縁が欠けている。
その脇に、細い縄が垂れていた。
縄は水際まで続き、石に引っかかった木片のそばへ沈んでいる。
岩彦が、低く唸った。
「浮き木かもしれん」
「何だ?」
「水が上がったら、木が浮いて縄を引く。そういう仕掛けなら、人がいなくても鳴る」
須佐之男はもう一度、下を見た。
木片と思ったものは、両端を削った細長い木だった。流れてきた枝とは形が違う。
縄が結ばれているところまでは、ここからでは見えなかった。
「下りれば、確かめられる」
口にしてから、須佐之男は水を見た。
流れが弱くなっていた。
底へ貼りついていた草が、ゆっくり起き上がる。
「いや。下りない」
阿弥が彼の袖を掴んだ。
ほとんど同時に、鈴が鳴った。
低く、掠れた音だった。
一度きりではなかった。
縄が跳ねる。浮き木の片側が持ち上がり、何かに引っかかって止まる。続いて水面が膨らみ、鈴が激しく揺れた。
「戻るぞ」
岩彦の声が飛んだ。
稲乃が先に岩陰へ退き、阿弥が続く。
須佐之男は最後まで、下の水路を見ていた。
水が、流れてきたほうへ逆に動いている。
浮き木が石から外れた。
その瞬間、鈴の音が途切れ、岩の奥から重い響きが伝わってきた。
須佐之男は身を引いた。
足元の段へ、飛沫が散った。
*
四人が広い場所まで戻ると、稲乃は岩へ手をついた。
呼吸が速かった。
阿弥が籠から水を出そうとしたが、稲乃は首を振った。
「大丈夫。少し、待って」
須佐之男は、来た道へ耳を向けた。
鈴はもう鳴っていない。
水音だけが、次第に低くなっていった。
「人じゃなかった」
稲乃が言った。
須佐之男は頷いた。
「少なくとも、今鳴らしたのは水だ」
「私が聞いた夜も、そうだったのかな」
「それは、まだわからない」
稲乃は目を閉じた。
がっかりしたようにも、ほっとしたようにも見えた。
岩彦が膝を叩いて立ち上がる。
「仕掛けは見えた。だが、あれじゃ役に立たん」
「鈴か?」
「木が引っかかっておった。水がずいぶん上がってから、ようやく鳴っただろう。元はもっと早く知らせるものだったんじゃないか」
阿弥が顔を上げた。
「直せるかい」
「水が来る時がわからん場所へ、人を下ろせるか」
岩彦の返事は厳しかった。
阿弥は唇を噛んだ。
須佐之男は、自分の濡れた袖を絞った。
わずかな間なら、水を抑えられるかもしれない。
だが、その間に縄が外れるとは限らない。浮き木を持ち上げたあと、何が流れてくるかもわからない。
「今日は戻ろう」
彼が言うと、阿弥はしばらく黙っていた。
それから、頷いた。
「下の道は、もう使わせない。遠回りでも、全員に尾根を通ってもらう」
「歩けない者は?」
「まだいる。荷を減らしても、一人では無理な人が」
須佐之男は岩彦を見た。
老人は、すでに肩の道具を背負い直していた。
「人手を増やすしかあるまい」
*
麓へ戻る頃には、社の前に人が集まっていた。
御影が村長と並び、その前に立っている。
須佐之男と岩彦に気づくと、御影は短く手を上げた。話を聞く時間がほしいという合図だった。
須佐之男は輪の外で足を止めた。
「今年の祭りの日取りは、決めません」
御影の声がした。
ざわめきが広がった。
「川が荒れてからでは遅いぞ」
「だからこそ、山と川を調べています」
「調べている間に何かあったら、どうする」
御影は、すぐには答えなかった。
隣の村長が重い口を開く。
「明日から下流の家を回る。水が上がったときに、誰をどこへ移すか決める。倉の米も、高い棚へ上げる」
「祭りはしないということか」
今度は御影が答えた。
「娘を山へ送ることは、止めます」
輪の中で、誰かが息を呑んだ。
「私には、あれで川が鎮まると言えるだけの根拠がありません。確かめぬまま、次の一人を送り出すことはできない」
怒声が上がった。
それでも御影は、その場を退かなかった。
須佐之男は人々の間に、奇稲田を見つけた。
足名椎と手名椎のそばに立ち、両手を固く握り合わせている。
彼女と目が合った。
笑顔はなかった。
須佐之男も、頷くだけにした。
山の水は止まっていない。鈴の先で動くものも、まだ見えていない。
それでも今日は、奇稲田を送り出さないと言う者が、皆の前に立っていた。
話が終わると、須佐之男は御影へ近づいた。
「鈴を見つけた」
御影の顔が引き締まる。
「誰が鳴らしていた」
「水だ。古い水路に吊ってあった」
須佐之男は、見た仕掛けを伝えた。
御影は途中で一度も口を挟まなかった。
話し終えると、彼は社の中を振り返った。
祭具を納めた棚が、開いた戸の奥に見えた。
「記録を、もう一度調べる」
「その前に、人が要る」
御影が向き直る。
「山から、まだ下りられない人がいる。鈴が鳴ってからでは、もう間に合わない」
御影はすぐに頷いた。
須佐之男は、そばにいた宗太を呼んだ。
今度山へ持っていくのは、調べるための道具だけではなかった。




